「世界一危険な道」をTVマンが歩いてみた【中編】
チベット仏教の聖地「スピティバレー」で目撃した「標高4000mに暮らす人々」の実態(写真:筆者撮影)
チベット仏教が息づくヒマラヤ山脈の奥地にあるスピティバレー。
世界36カ国を約5年間放浪した『花嫁を探しに、世界一周の旅に出た』著者・TVディレクターの後藤隆一郎氏は、いつ壊れてもおかしくない古びた車で世界一危険な道を進む。
崖下は数百メートルの谷底。タイヤは崖際ギリギリ。やがて、車はこれまでで最もきつい角度のカーブに差し掛かった……。
*この記事の前半:「世界一危険な道」をTVマンが歩いてみた【前編】
*この記事のつづき:「世界一危険な道」をTVマンが歩いてみた【後編】
「ヤバい、心臓に悪すぎる…」
ジュッと音が鳴り、白い土煙が舞う。
その瞬間、山の神が「人間よ、やってくれたな。今度はお前に痛みを与えてやる」と、人間に削りとられた崖の痛みに対する報復の狼煙をあげているかのように感じた。
「ヤバい、負の感情に引き込まれる」
俺は慌てて首を逆に向け、窓の下を覗き込むのを止めた。なにしろ心臓に悪すぎる。そもそもお化け屋敷でさえ、好きなほうではないのに……。
ビビっているのは俺だけではなかった。同乗するインド人の方が先に参ってしまったのだ。
転落したら命を落とすヒマラヤ山脈にある「スピティバレー」への一本道(写真:筆者撮影)
幅が広い道で車を止め、嘔吐する。赤い目をした黒い顔が青ざめているのがわかった。
狭い一本道の崖スレスレを走る(写真:筆者撮影)
彼の言葉によれば、インド人はあまり車に乗らないため、長距離移動で車酔いする人が多いとのこと。
吐いたことが恥ずかしいのか、言い訳するインド人が少し可愛らしく感じられた。ここまで一年近く旅を続け、揺れる車にも慣れてきた俺は、表面的にはまったくもって平気なように見えただろう。
しかし、その平常心の奥には確実に暗い恐怖が潜んでいる。妙に興奮し、ややハイテンション気味なのは、その恐れを覆い隠すための防御だと自身で理解していた。
標高4000m近く、空気が薄く酸素が少ない
山道は登るだけではない。山を縫うような一本道で進むため、地形に合わせて下ることも多い。
標高が4000m近いので、空気が薄く酸素が少ない。頭がぼーっとしているのだが、それに加え、急勾配の激しい高低差で耳がキーンとなってしまうと、今、自分がマトモなのか、そうじゃないのかがわからなくなってしまう。
山を縫うような一本道(写真:筆者撮影)
標高2000mのマナリでさえ、高山病の症状がでた旅人を見かけた。 幸運だったのは、ダラムサラーやマナリなどの高地で数カ月過ごしていたので、身体が薄い空気に慣れていたことだ。
もし、ニューデリーから直接ここに来ていたら高山病になっていたに違いない。 あのギックリ腰にも意味があったのだ。
ダバと呼ばれる食堂で食事休憩(写真:筆者撮影)
しばらく道を進むと急に車のスピードが落ち、止まった。運転手が助手席の男と何やら話している。
何があったかと注意して前方を見ると、道が崩れ、川の水がその上を流れている。
雨で道がなくなってしまった(写真:筆者撮影)
道の一部が突如、消えてしまったのだ。
おそらく豪雨が降り、川が増水してしまったのだろう。
山の天気は女性の感情のように変わりやすいと聞いていたが、ヒマラヤの大自然は機嫌が悪いと、いとも簡単に人間の作った創造物を破壊するらしい。
山の天気は刻一刻と変わっていく(写真:筆者撮影)
ヒンドゥーの女神の気性の激しさ
なぜか、インドの神様ガネーシャの由来を思い出した。
破壊と創造の神シヴァの妻パールヴァティーは、とても心優しい女神様。
ある日、彼女はお風呂に入るため、息子ガネーシャに玄関の番をさせた。その間にシヴァ神が帰宅するのだが、ガネーシャはシヴァを知らず、家に入ることを拒んだ。
これに怒ったシヴァはガネーシャの頭を切り落としてしまう。 パールヴァティーはこれを知ると激怒し、シヴァに息子を元通りにするよう要求する。妻の怒りは凄まじく、もしシヴァが言うことを聞かなければ、「世界を破壊する」と脅す。
シヴァは彼女の怒りを静めるため、一番初めに出会った象の頭を持ってきてガネーシャを蘇らせたのだ。
我々がよく知る、人間の身体に象の頭をもった神、ガネーシャの誕生秘話である。
そのとき、 脳裏に浮かんだのは、恐怖の夫婦喧嘩の話でも、ガネーシャの誕生秘話でもなく、「世界を破壊する」と脅すパールヴァティーの「気性の激しさ」だ。ヒンドゥー教の最高神のシヴァでさえ、彼女の怒りに脅威を覚えた。
シヴァとパールヴァティー夫婦と子供のガネーシャ(Author:Raja Ravi Varma)
俺は、道を壊した山の神はきっと女性だろうなと思った。
ちなみに、ヒンドゥー教の前身であるバラモン教の聖典「ヴェーダ」には自然崇拝が伝承されている。
全員で車を降り、道の上を流れる川を見に行った。
小石を投げてみたら、水しぶきが小さくそのまま吸い込まれていく。結構深く、流れが速いことがわかった。
ここに来るまでの一本道は、数時間、分岐点らしきものがなかったはず。
おそらく回り道をするルートはない。
対向車に出会うとかなりの距離をバックして、2台の車が通れる道まで移動しなければならない(写真:筆者撮影)
「スピティへの旅をあきらめなければならないかも」と思い始めたとき、運転手が「車に乗れ」と指示を出した。そして、ゆっくりとアクセルを踏み、前方に進んで行ったのだ。
最悪、命はなんとかなるだろう…
俺は彼の長年の経験を信じることにした。
せっかく、ここまで来たのだから、先に進んでみたいし、スピティがどんな場所なのかを見てみたい。
車がズルズルと川下に流されても、最悪、命はなんとかなるだろう。
川の増水で水没してしまった道を通る(写真:筆者撮影)
*この記事の前半:「世界一危険な道」をTVマンが歩いてみた【前編】
*この記事のつづき:「世界一危険な道」をTVマンが歩いてみた【後編】
(後藤 隆一郎 : 作家・TVディレクター )