98年の金鯱賞を制したサイレンススズカ(撮影:高橋正和)

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 金鯱賞が来るたび思い出す。いまは3月に行われているが、1998年当時は5月末の開催だった。緑が青々として夏が近づいてきたころ、気温は30度近くまで上がり、少し暑さを感じた日。後続に大差を付けて、ファンの度肝を抜いた、サイレンススズカの清々しいまでの逃げ切り勝ちである。

 大逃げのスタイルでファンを魅了し、今なお史上最強馬に名前が挙がる同馬。幼駒のころから期待されていたが、素質開花までには時間を要した。弥生賞では発走前にゲートを潜ってしまい、再スタートでは出遅れて大敗。その後、ダービートライアルのプリンシパルSを制したが、本番では直線で力尽きて8着。秋も逃げて見せ場こそつくるものの、前向きな気性をうまくコントロール出来ず、歯がゆい競馬が続く。

 そんな、模索を続ける陣営に、武豊騎手が大きな力となった。香港国際Cで初タッグを組み、ただならぬ能力を背中から感じとった名手は、以降もコンビを継続。帰国初戦のバレンタインSを4馬身差で快勝すると、続く中山記念、小倉大賞典と連勝を伸ばす。ハイペースで飛ばしながら、道中で息を入れることを覚えさせ、代名詞となる“逃げ”に磨きをかけていった。

 そして、金鯱賞でサイレンススズカへの評価は絶対的なモノとなる。小倉大賞典(中京での代替開催)を1倍台で圧勝した直後ながら、意外にも単勝オッズは2.0倍も付いた。1ハロンの距離延長に加えて、菊花賞馬マチカネフクキタル、5連勝中のミッドナイトベットなど強力メンバーが相手。サイレンススズカに先着経験のある馬も多く、ファンからは「2000mは長いのではないか」「相手関係が厳しくなった」などの声もあった。

 好スタートから先手を奪うと、いつものように2ハロン目から11秒台前半のハイラップ。約500mのホームストレッチを抜けるころには、後続に4、5馬身ほどのリードを取っていた。サイレンススズカと武豊騎手が刻むペースに狂いはなく、以降も11秒台中盤の厳しいラップ。後続馬はついていくことさえ精一杯だった。

 向正面に入ると、差はさらに広がり7、8馬身。武豊騎手は12秒台へとスピードを落として息を入れたが、普通の馬ではとても脚が溜まるラップではない。後ろはなし崩し的に脚を使わされ、スタミナが削がれていった。

 直線の入口で、後続ははるか後方。競馬場は早くも拍手に包まれた。

 鮮やかな緑の芝生を、緑のメンコ、緑の勝負服の“逃亡者”が駆け抜けていく。ゴールまで100mを残して、アナウンサーは「サイレンススズカ、4連勝です」と声高らか。武豊騎手も小さく握りこぶしをつくり、勝ちを確信。史上最強の逃げ馬が、ここに生まれた。

 以前の脆さはどこかに消え去り、強さと速さだけが際立つ異次元の走り。「逃げて差す」と評されるサイレンススズカにしかない武器を完成させた。「どこまで強くなるのか」。ファンは驚きとともに、のちの活躍に胸を膨らませたのだった。

 グレード制の導入以降、JRA平地重賞を大差勝ちした馬はたった4頭しかいない。ハイペースの逃げ、そして1.8秒の着差は強烈なインパクトを残し、印象的なレースに挙げるファンも年代問わず多い。中京競馬場の開設60周年を記念して実施された『思い出のベストホース大賞』でも、サイレンススズカは1位に選ばれた。モニュメントや記念碑が場内に設置され、一帯は「サイレンススズカ広場」と名付けられている。

 四半世紀が過ぎて今なお、最強馬論争で名前が挙がる稀代の快速馬。その姿はファンの記憶の中で生き続けている。天皇賞(秋)の骨折でこの世を去ったのが、残念でならない。夢の続きを見たくなる一頭だった。