「職場に近い狭いタワマン」は本当に幸せなのか…本物のお金持ちが私鉄沿線を選ぶ「文化資本」という理由
※本稿は、小林拓矢『関東の私鉄沿線格差』(KAWADE夢新書)の一部を再編集したものです。
■東京は「中心がオフィス、周辺が住宅」という形ではない
東京圏は皇居を中心に、官庁街やオフィス街があり、その外側に住宅街がある、という形態ではない。確かに東京の中心部というのはあるが、中心部でもターミナルごとに多極化しており、そこにターミナルを構える私鉄も、多様な路線となっている。「均一に、同心円状に都市圏が広がっている」というわけではないのだ。
都市社会学ではアーネスト・バージェスの同心円地帯理論のほかに、ホーマー・ホイトのセクター理論、チョンシー・ハリスとエドワード・ウルマンの多核心理論が、都市空間のモデルとして提示されている。現実の東京都市圏は、これらの諸理論を組み合わせて考えることが可能だ。
ホイトのセクター理論は、中心点から等距離にあっても、方向によっては地域の性格が違うことを示している。特定のタイプの地域が一定の方向に向かって外延(がいえん)部へと移動していると指摘しているのだ。その一例として、鉄道の沿線を挙げる。このような沿線は、東急電鉄の沿線、とくに東急田園都市線に当てはまると考えていい。
ハリスとウルマンの多核心理論は、都市の土地利用は複数の核の周囲に広がるということを示している。これは、主要私鉄のターミナル駅を表すのにふさわしい理論ではないかと筆者は考える。まず東京圏は、中心から郊外へと広がるように見えるものの、その広がり方は一様ではない。沿線ごとに特性があり、工業地帯や住宅地帯それぞれで違いがある。
■貧しい人ほど中心部に住む傾向がある
また、各私鉄のターミナルがそれぞれの地域の核となっているケースはよく見られる。
山手線内に住宅街がある一方、その外側に商業エリアがあったり、あるいは工業エリアがあったりする。さらに、その外側に住宅が多くあるエリアもある。工業といっても、さまざまである。町工場のような小規模なものから、京浜工業地帯の巨大な工場まで、地域によりどんな工業が存在するか違いがある。小規模であるならば、住宅街と共存していることが多い。これらの違いが、沿線によって多様であり、東京圏が均一でないことを示している。
この項目で挙げた都市社会学の3つのモデルでは、中心の業務地区や商工業者のいる地区のほかに、下層階級・中産階級・上層階級それぞれの住宅地があり、モデルによっては郊外の通勤者向けの住宅地がある。そして、階級・階層ごとに、どこに住むかが分けられているという特徴がある。
そして意外なことに、図式的に考えると、貧しい人たちは中心部に住む傾向があり、豊かな人たちは郊外に住む傾向がある。わかりやすいのが田園調布だ。
東急東横線沿線のこの地域は、もともとは豊かで学のある層向けの住宅地として開発された。いまでは都心部からの距離も近いように思えるが、当時は都心から遠く離れていた。一方で、東武や京成の東京都内エリアは、木造住宅が密集し、中小の商工業者と昔からの住民がいるというエリアだ。とくに東武の北千住より南側はそういった要素が強い。
■タワマン住みのパワーカップルは裕福なのか
「沿線」という概念のない都心近くのエリアには、商工業地域と密接に絡み合った住宅地があり、古くからの人が暮らしている。
こういったエリアは、地価や固定資産税は高く、その対策のためにマンションやアパートなどが多く建てられるようになる。そこに若い独身者などが暮らし、職場との行き来が中心の生活を送るようになる。仕事にあくせく追われ、残業も多いが給料は少なく、家では寝るだけ、という人物像が見てとれるだろう。
しかも、その住まいが利回り第一の投資用物件であるならば、もはや「さまざまなところから搾取(さくしゅ)されている」と考えるようになってもおかしくはない。このような人たちが暮らしている地域が、都心の近くにある。よくパワーカップル(高収入を得ている共働き夫婦)が都心近くのタワーマンションに暮らしているという話があるが、もし、その住宅ローンの返済にあくせくしているのであれば、本質的には投資用物件に住む若い独身者と変わりはない。
また、企業の経営者などが港区のタワーマンションに暮らしているという反論もあるものの、これこそ仕事上の必要性に迫られて暮らしていると考えたほうが妥当だ。都心部やその近くではなく、都心から離れた住宅地でゆったりとした暮らしを送るほうが、実質的には豊かではないかと筆者は強く思っている。
■沿線から格差が浮かび上がってくる
働く場所、暮らす場所。豊かさ、貧しさ。そこに地域の特性が加わり、東京圏の多様性というものが見てとれる。しかし、そこでは格差と不平等が顕在(けんざい)化し、覆い隠せないようになっているのは、もはや誰しもが感じていることだろう。その最たるものが「沿線」だ。
沿線ごとに人々の働き方や暮らし方が変わり、生活水準にも違いがあり、文化的諸活動にも違いがある。その違いを「多様性」と見るか、「分断」と見るか。これは、あなたの価値判断にゆだねるしかない。
しかし、均一性・平等性というものはまったくなく、東京圏は格差と不平等がそこかしこで見られるようになっていることは確かだ。それが「沿線格差」として表れるのは、多くの人が理解しあえる論点として共有することが可能だからだろう。それは、私鉄各社の企業戦略とも関係している。「沿線格差」はこれからもますます広がるばかりなのだ。
「何が価値観を決めるか」は難しい。生まれ育った環境が価値観を決めるという人もいれば、遺伝で価値観が決まると考える人もいる。「存在が意識を規定する」というのはカール・マルクスの考えであり、経済的な状況が社会的なこと、あるいは政治的なことを決定するということはよく知られた話である。
■それぞれの沿線には価値観が反映されている
もちろん、この考えでは世の中のたいていのことは説明できるが、万能ではないというのもまた、一般によく知られているところである。では、沿線とは住民にとってどのような存在なのだろうか?
地域があってそこに鉄道が敷かれたケースと、鉄道が敷かれてそこに地域ができたケース、東京圏には2通りの地域形成パターンがある。しかしそのどちらでも、現在は「沿線」というものが地域をつくる軸となっている状況がある。
「沿線」でもっとも特徴的なのは、JR東日本の中央線沿線である。ほかの地域よりも経済的には豊かで、高円寺や阿佐ケ谷といったエリアでは「貧乏」を称していても生活文化自体はけっして貧しくはないという人たちが多くおり、「朝日新聞」の読者が多く、日本のほかの地域に比べて市民運動やリベラル・左派系政党への投票行動が盛んである。
中央線ほどわかりやすい特性を示すことはなくても、各沿線それぞれの特徴があり、その特徴が沿線住民の価値観に大きく影響を与えていることは、十分に考えられることである。たとえば教育だ。
■教育格差や投票行動にも影響を与えている
近年の東京圏での教育にかんする話題では、中学受験のことが多い。しかし、どの沿線に私立や国立、あるいは公立の中高一貫校が多いかということを考えると、じつは特定の地域に限られた話であるといえる。
さらにいえば、東京圏の大学進学率は全国平均よりも高い一方、高卒で社会に出る人もまた多い。このあたり、個人の価値観の問題であるといえばそれまでだ。だが単に「個人の価値観」と割り切っていいものなのだろうか。
経済的に豊かな層が多い沿線と、そうでもない沿線がある。大卒層の多い沿線もあれば、そうではない沿線もある。沿線にSAPIXが多くある場合もあれば、中学受験塾が多くない沿線もある。政治的に左派・リベラル派の議員が当選し、地方議会で活躍できる地域もあれば、そうでもない地域ももちろんある。部数トップの「読売新聞」よりも、「朝日新聞」が読まれる沿線もあるのだ。
沿線の経済状況はどうか、そこにはどんな人たちが暮らしているかということは、個人の価値観や行動にも影響を与えると筆者は考える。人はみな、価値観が同じか、ある程度近い人たちとともに暮らしたがる。それが「沿線格差」に結びつくことになっていく。
■鉄道会社が作り出した“住民像”も読み取れる
そこで出る疑問は、「個人の意識だけで、これほど『沿線の違い』というものができるものなのだろうか」ということだ。
もちろん、鉄道会社は「沿線」をプロデュースすることに熱心だ。しかし、鉄道会社が提示する「沿線」の価値観を、住民が内面化し、沿線全体で共有することになっているとは考えられないだろうか。しかも、鉄道会社は、どんな人が自社沿線にふさわしいかそれとなく示していて、そこに自社の考える住民像にふさわしい人を住まわせるようにして、沿線意識をつくり出そうとしていると見ることも否(いな)めないはずである。
ここまで考えていくと、何が人々の価値観を定めるのか、ということは環境の要因も大きいと見ていいだろう。そのなかで「沿線」というものが地域住民の価値観に大きく影響しているという考えは妥当性のあるものではないだろうか。
「沿線」というものが、単に鉄道路線を示したものだけではないことは、ここまで本稿を読まれた方は承知しているかと考える。地域があり、そこに人々がいて、経済生活を送り、消費活動や文化的活動を行う。その営みすべてが、「沿線文化」といっていい。とくに、そこに暮らす人たちがどう収入を得ているかや、どんなところで暮らしているか、どんな最終学歴となっているかは、その「沿線文化」の基礎となるものである。
■「沿線格差」は子供にも引き継がれていく
地理的にどんな場所であるかも重要だ。地盤が固いかどうか、ある程度標高が高いかどうかも、「沿線」の価値を決めるものである。
個人の価値観は、個人だけで簡単に決められるものではなく、個人の能力も自力のみで獲得できるものではない。個々人の「能力」はその人が置かれた環境により花開き、現実には花開かなかった能力、さらにはつぶされてしまった能力というのも多々ある。同様に、ある沿線で高く評価される価値観や能力があれば、そうではない価値観や能力もある。個人の価値観や能力を決める環境的要因のなかで、「沿線」というのは非常に大きなものである。
もっといってしまえば、「沿線が個人を規定する」と考えることもできる。沿線という大括りの枠組みが可能である以上、個人の形成における沿線の役割は、けっして小さくないのである。
親が高所得なら子も高所得、親が高学歴なら子も高学歴という社会にこの国がなってから長い。階級や階層といったものが、かなりの割合で再生産されるという状況が続いている。政界や経済界、芸能界といったところから、法曹界や医者の世界でも「二世」が目立ち、一般には知られていないが学術の世界でも「二世」が目立つようになった。
細かいレベルまで、子が親の存在をロールモデルにし、親の存在が子の存在を規定する社会において、沿線で暮らすというライフスタイルも再生産されることになる。そうなると、「沿線格差」が「沿線格差」を再生産することになるのだ。
■沿線ごとのライフスタイルが確立されている
たとえば、東急電鉄沿線にはわかりやすいライフスタイルがある。住宅地に暮らし、都心へと通う、両親とも大卒のファミリー層というものだ。このあたりの人は、自らが生まれ育った環境を肯定的に考えている。他者に比べて明らかに劣(おと)った環境にいることに危機感を抱いて、難関大学への合格をめざす、というタイプは、そもそも現在では多くないのだ。
東急電鉄沿線に暮らすようなタイプの人たちは、中学受験が盛んであり、その層は必ずブランド力のある大学に子どもが進学することを望む。家庭内には、みずから培ってきた勉強のノウハウが多く蓄積(ちくせき)されており、そのノウハウを子どもに受け継がせる。文化的活動も子どもに惜しげなく注ぎこむ。そして、子も同じ沿線に暮らすようになる。つまり、その子どもにとっての地元は、いつか脱出したい地域ではなく、いつまでも住んでいたい地域ということになる。
沿線ごとに、ライフスタイルの違いというものはある。その違いは、「格差」につながる。もちろん、不平等なものだ。沿線ごとに所得水準や最終学歴が異なり、進学塾や中高一貫校の所在地に偏(かたよ)りがあり、消費活動や進学行動にも差がある。そのような沿線事情を背景に、人の意識の差が生まれる。それは自己肯定感の高さ・低さにもつながっていく。
■沿線は文化資本の一部になっている
東京圏は、格差と不平等の一大展示場である。地域によってどんな人がいて、どんなライフスタイルがあるかがまったく異なっている。そして不平等は再生産される現実がある。ある人が何を好むかというのは、学歴や職業、収入などといった社会階層にまつわる指標と関連しているというのはよくいわれる。これらは一種の「資本」ととらえていい。
このあたりの議論は、社会学者ピエール・ブルデューが、「文化資本」の概念を中心として議論を組み立てているものである。上位の社会階層の子どもは、下位の社会階層の子どもよりも進学で優位に立っている背景に、上位の社会階層の子どもが触れる「文化資本」の豊かさがあるというものである。
下位の社会階層の人が触れられるものよりも、上位の社会階層の人が触れられるもののほうがいいものが多く、それは教育においてもいえるということだ。沿線によって、これらには大きな差があるといえる。この再生産においては、教育が上位の階層の文化を評価する傾向が高く、上位の階層の子どもが上位の階層に再生産される傾向があるといえる。
難関大卒者の子どもが難関大学に行くというのが、このパターンである。近年、SNSを中心にバズワードとして知られる「文化資本」という言葉は、もともとはこういった傾向を示すものだったのだ。その「文化資本」が蓄積された沿線と、そうでない沿線の違いというのがある。
■資本による格差は「沿線二世」を生み出している
このほかにも「資本」という言葉で知られるのは、「経済資本」と「社会関係資本」である。
「経済資本」というのは資産のことである。現代では、資産があればあるほど、お金を得やすいという傾向がある。経済学者トマ・ピケティは、現代では労働により経済成長して得られる収益よりも、株式や不動産の運用によって得られる収益のほうが大きく、資本を持っている人が、より資本を持つようになっていることを示している。経済的に豊かな層は、土地や株式の運用で収入を得ていることが多い。
私鉄各線の沿線では、ニュータウンでもない限り古くからの地主がおり、そういった人たちがみずからの土地に賃貸マンションなどを建てて大きな収入を得ていることが多い。新たに開発したニュータウンでもない住宅地には、そのような賃貸物件が多くある。こういった地主層は、地域では富裕層として存在している。賃貸物件が多くある沿線には、そういった地主がおり、地域では中心的な役割を果たしている。
沿線で長いこと暮らしていると、地域に人脈ができる。よりよい職場に勤めていると、そこから派生する人間関係ができる。これが「社会関係資本」である。よりよいところで、よりよい人間関係ができるというのはわかりやすい。
人間関係の豊かさが、その人の社会階層の向上に寄与し、進学や就職などの際に有利になることに働きかけるようになるという構造がある。そのような要素が組み合わされることによって、「資本」に恵まれる人・恵まれない人というのができあがることになる。その総体が不平等というシステムの構成要素であり、格差の原因となっている。
各沿線においても、こうした「再生産」活動は多く見られる。そして「沿線格差」が「沿線格差」を再生産し、「沿線二世」が誕生することになる。不平等とその再生産は社会構造において根深く組みこまれており、それは「沿線格差」のしくみを考えるうえで重要なものになっている。
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小林 拓矢(こばやし・たくや)
フリーライター
1979年山梨県甲府市生まれ。早稲田大学卒。在学時は鉄道研究会に在籍。鉄道・時事その他について執筆。著書に『早大を出た僕が入った3つの企業は、すべてブラックでした』(講談社)、『関東の私鉄沿線格差』(KAWADE夢新書)がある。またニッポン鉄道旅行研究会『週末鉄道旅行』(宝島社新書)に執筆参加。
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(フリーライター 小林 拓矢)