NHKディレクターからBCリーグ監督へ 異色の転身を遂げた伊藤悠一が振り返った「前代未聞の1年」
伊藤悠一インタビュー(前編)
NPBよりひと足早く今季の全日程を終えた独立リーグで、野球ファンのみならず、世間の注目を集めた取り組みがある。BCリーグの茨城アストロプラネッツが、元NHKディレクターの伊藤悠一監督を公募により招聘したことだ。
プロ野球選手や指導経験のない"素人"に、プロチームの監督は務まるのか──。居酒屋などで話題になることはあるが、実際に行なうのは前代未聞だった。
茨城アストロプラネッツの監督として1年間指揮を執った伊藤悠一氏
結果から言えば、今季のアストロプラネッツはBCリーグ南地区で22勝41敗1分の最下位に沈んだ。とりわけ4月を3勝8敗で終えると、5月は3勝12敗と黒星を重ねた。伊藤監督が振り返る。
「チームに私が入り、松坂賢前監督が開幕直前にコーチ(フィールドコーディネーター)として帰ってきたり、トレーニングコーチや野手コーチが代わったりして、首脳陣のなかで方向性が一致していない部分も多々ありました。そういうなかでチームが目指す野球を選手たちに落とし込めなくて、4、5月はかなり黒星を喫しました」
チームの状態が上がらないなか、伊藤監督の挑戦を追ったNHKのドキュメンタリー番組では、"素人"の監督抜擢について「話題づくり」と不信感を露わにする選手もいた。
では、ほかの選手との関係性はどうだったのか。伊藤監督に尋ねると、意外にも「思っていたより難しくなかった」という答えだった。
「私としては『技術も教えられない人がどういう目で見られるのかな』という認識でいきましたが、選手たちは『技術はコーチが教えて、監督はマネジメントをする人でしょ』と、フィットさせにきている感じがありました。自分は"異色の存在"でありたかったので、逆に早くフィットして戸惑いがありました。最終的には本当に信頼関係を築けた選手もいるし、フィットが早かった分、そのまま浅い信頼関係になってしまった選手もいます」
日本全国に約30の独立リーグ球団があるなか、茨城は異色だ。極端に言えば、勝敗以上に自分たちのカラーを大事にしている。たとえば、選手をNPBや海外の球団に羽ばたかせることや、タイ野球協会と包括連携協定を結んで人材育成やビジネスの入り口づくりを行なうことなどだ。十把一絡げにされがちな独立リーグ球団で、独自の存在感を放っている。
顕著な例が、今季の監督人事だろう。ほとんどの独立リーグ球団が元NPB選手を指揮官に迎えている一方、茨城は知名度のある人物にこだわるのではなく、海外経験を持つ松坂前監督のように、たとえ無名でも専門性の高い指導者を招いている。そうした土壌に惹かれ、キャリアアップしたい選手たちが集まるようになった。
球団は選手たちを伸ばすべく、フィジカル面の強化や成長マインドセットの構築を重視する。茨城にやって来る選手たちはそうした独自色をわかっているから、指導経験のない伊藤監督を受け入れることができたのかもしれない。
逆に伊藤監督自身は、TVディレクターとして10年以上務めたキャリアを生かせると思ったからこそ、アストロプラネッツの監督募集に応募した。人の話を聞き出し、周囲の人たちが持ち味を発揮できるように配置していくマネジメント力は、どちらの仕事でも発揮できるはずだ。球団の色川冬馬GMもそう期待し、前代未聞の挑戦を一緒に始めることにした。
【選手に関わる者たちの人材育成力】3月の春季キャンプから9月のシーズン閉幕まで、伊藤監督がとくに力を注いだのは選手たちの本心を掘り起こすことだった。たとえば守備で捕球エラーが起きた場合、"技術屋"であるコーチは真っ先にグローブの使い方やステップなどテクニカルな部分に目がいくものだ。技術的な問題ならそれで解決できるかもしれないが、マインドのあり方がミスにつながっているケースもある。伊藤監督は後者の役割を担った。
「コーチと私では、見方を変えられる存在でありたいと思いました。去年から在籍している選手に加え、今年新しく加入した選手も『これまでの野球指導者とは違う』と言ってくれたので、新しい指導スタイルに触れてもらえたと思います」
PDCAやコーチング、1on1ミーティングという人材開発の手法はビジネスの世界で広まり、野球界でも重要性が認識されつつある。伊藤監督が担ったのは、まさに思考整理やコミュニケーションの部分だった。
「今年が勝負の選手と2年計画の選手では、同じことを言っても響き方がまったく違います。その選手が何を目的にしているのか、どういうスケジュール感で1日1日をすごしているのか。もっと言えば、これまでの経歴まですべてわかっていないといけない。そうでないと助言する際や、コーチ陣と情報共有するときに、間違った方向に行く可能性がある。大事なのは、その選手を理解すること。日々考え方が変わる選手たちなので、理解するためになるべく寄り添うようにしています」
関わる人を伸ばすという意味ではNHKも独立リーグも同じだが、両者には大きく異なる点がある。在籍している人の質だ。
NHKには社会で優秀とされる人材がやって来るのに対し、独立リーグは高校や大学でアピールしきれなかったり、ドロップアウトしたりした選手が夢を追い求めて来る。後者は月給10〜15万円程度で、一般的に25、6歳が挑戦のリミットだ。年齢を重ねれば重ねるほど、NPBから声がかかる可能性は低くなる。だからこそ、選手に関わる者たちの"人材育成力"が重要になる。
独立リーグの選手たちの目標は、NPB球団から秋のドラフト会議で名前を呼ばれることだ。その意味で、アストロプラネッツに注目を集める右腕投手がいる。今年加入した22歳の村上航だ。北海学園大学時代に準硬式の野球部や硬式のクラブチームでプレーし、4年時はアメリカのサマーリーグなどで腕を磨いた。
村上にとって大きな転機は今年6月、サイドスローに転向したことだった。オープン戦では練習生に降格させられるほど制球に苦しみ、伊藤監督は巽真悟投手コーチを交えて面談を行なった。この先、どうすればNPBを目指せるか。一緒に歩んできた道程を整理しながら先を見据え、村上自身が腕を下げる決断を下した。
すると力強いストレートとキレのあるスライダーを投げるようになり、球団内で契約選手に昇格する。8月には自己最速の151キロを計測、巨人三軍との試合で好投するなど秋に向けて評価を高めている。「サイドスローで三振をとれる豪腕投手は魅力的」と評価するNPB球団があるかもしれない。
村上のように、表舞台を歩んできたわけではないが、"最後のチャンス"にかけられる点も独立リーグの存在価値だ。彼らが球界で果たしている役割は、NPBへの輩出人数以上に大きなものがある。伊藤監督はNHK時代から3分の1になる給料を受け入れて独立リーグの監督になり、その仕事の醍醐味を肌で感じた。
「一番は選手たちの成長ですね。アストロプラネッツは彼らのスケールを大きくしていくなかで、勝利を求めている。選手たちの成長を目に見えて感じた時と、選手たちが頑張って勝利をつかめた時にはすごく充実感があります」
【"当たり前"に疑問を持つこと】1シーズンの指揮を終えた伊藤監督に、あらためて聞きたいことがあった。
"素人"にプロ野球チームの監督はできると思いますか?
「できると思います。私のスキル不足もあってうまくいかなかった部分も多々ありますし、私が今年できたかを判断するのはほかの人です。でも、組織を統率する力があれば、野球を経験していない人でもできるポジションなのかなと。指導経験がないからこそ、できる部分もたくさんあると感じました」
指導経験がないからできることのひとつは、「前例にとらわれないこと」だという。たとえば投手交代の際、セオリーはイニングの頭から代えることだ。だが本当に、万人に当てはまるのだろうか。得点圏に走者を背負い、開き直れる投手もいるかもしれない。伊藤監督は巽投手コーチと議論を重ね、起用法を試行錯誤した。
「これまで『当たり前』とされているところに疑問を持てるのは、かなりのメリットだと思いました。選手の面談でも、首脳陣は当たり前のようにわかっていることについて私が『わからない』と発言したら、じつは選手もそんなにわかっていないケースもありました。当たり前の概念について、ハードルを下げるというか。目指す先は下げてはいけないけれど、基礎的な部分を『なんで?』と突き詰めていくと、本来目指したい部分や、見えるようになっていきたい部分が浮き彫りになってくる感じはすごくしました」
世の中に玉石混交の情報があふれるなか、ジャーナリストの池上彰氏のように、取捨選択しながら絶妙に"通訳"できる人材が重宝される時代だ。TVディレクターから野球界に転身した伊藤監督は、人材開発でそうした力を発揮しているのだろう。
"素人"にプロ野球チームの監督ができるかという、前代未聞の取り組みは1年で終わることになった。伊藤監督は今季限りでアストロプラネッツを退団し、選手たちよりひと足先に次のステージへ進むことが決まっている。
埼玉西武ライオンズから、ヘッドハンティングされたのだ。