新日本プロレスのエース・棚橋弘至さんが見てきたアントニオ猪木さんとは?(撮影:今井康一)

2022年10月1日に死去したアントニオ猪木氏。プロレスラーとして数々の名勝負を繰り広げた一方、政界、ビジネス界、芸能界などリング外でも獅子奮迅。多くの功績を残しつつ、その破天荒さゆえに物議を醸すこともしばしばだった。

世間の常識など歯牙にもかけず、壮大かつ型破りな生き様を歩み続けてきた猪木氏を、新日本プロレスのエース・棚橋弘至選手はどう見てきたのか。

弘至の「至」は、猪木さんの名前からもらった

――まず棚橋さんと猪木さんの関係性について教えてください。

プロレスファンだった大学生のころは、猪木さんの試合を熱中して見ていましたね。実は父親も猪木さんのファンで、弘至の「至」は(猪木さんの名前の)「寛至」からもらったのだと、後から教えられました。「導かれてるじゃん!」って。

ただプロレスラーになってから、猪木さんとの接点はそんなにありませんでした。僕が新日本プロレスに入門した1999年、猪木さんは新日本プロレスの会長で、道場にいらっしゃることはもうあまりなくて。東京ドーム大会などビッグマッチの会場に来て、「1、2、3、ダー!」をして帰られる、という感じでしたね。ごあいさつできたのも、デビューしてしばらく経ってからでした。


棚橋弘至さんとアントニオ猪木さん(写真提供:新日本プロレス)

――棚橋さんから見て、猪木さんのすごさは何だと思いますか?

誰もしないことに挑戦し続けるパイオニアであることですかね。アントン・ハイセル(※1)にしても、モハメド・アリ戦にしても、採算度外視で、あと先考えずに「面白いか」「面白くないか」だけで判断していくのが、強みというかすごいところです。大借金を抱えて、それを返していくのが(新日本プロレスの)坂口征二相談役でしたけど(笑)。

猪木さんには、社会にプロレスを認めさせたいっていう、マイノリティがゆえの反骨心もずっとあったんだと思います。

(※1:世界のエネルギー問題、食糧問題を解決するために猪木氏が立ち上げ、失敗して多額の負債を抱えたバイオテクノロジー事業)

強さも含めて「格好いい」

――猪木さんのプロレス観やスタイルから棚橋さんが学んだことは?

猪木さんはすごくファッショナブルだったんです。プロ野球選手やサッカー選手は、移動のときにドレスコードがあったりしますけど、それまでプロレスラーはタンクトップにトレーニングウェアみたいなイメージでした。けれど猪木さんは、移動のときはスーツでカチッと決めて、もともと手足が長くてスタイルもいいから格好よかった。だから僕も、新幹線や飛行機に乗るときはジャケットを着用することも多く、プロアスリートとしていつ見られてもいいようにしています。「いつ何時、誰に見られても格好いい」っていうね。


日頃からおしゃれなことでも知られる棚橋弘至選手(撮影:今井康一)

――リングの上だけでなく、日ごろから格好よくあり続けてこそプロだと。

猪木さんに憧れてプロレスラーを目指す人がたくさんいたのは、強さも含めて格好いいからなんです。だからプロレスも大きくなってきたわけで。同じように僕が格好よければ、「棚橋みたいになりたい!」っていう人が増えて、プロレスというジャンルがこれからも続いていくんじゃないかな。今、新日本プロレスに入門してきている選手たちは、猪木さんを(リアルタイムで)見ていなくて、「棚橋を見てプロレスを好きになった」っていう選手も結構多くて。順繰りなんですね。

――プロレスファンの間で有名な通称「猪木問答」(※2)で、棚橋さんは猪木さんに感情をむき出しにしましたが、どのような気持ちだったのですか?

(※2:2002年2月、大会終了後に猪木氏がリングに上がり、棚橋さんら選手たちに「怒ってるか?」と問いかけた一連のやり取り。棚橋さんは質問に答えず、「俺は新日本のリングでプロレスをやります」と宣言した)

先に答えた中西(学)さんや永田(裕志)さん、(鈴木)健想さんが、猪木さんから「お前はそれでいいや」「見つけろ、テメエで」など返されて玉砕して、これは言い負かされるなと。それで質問に答えずに、「俺は新日本のリングでプロレスをやります」と言ったんです。

ただ本当のところは、「あなたに怒っています」が僕の本音だった。猪木さんは道場や会場にときどき来て、文句だけ言って、プロレスと格闘技をごちゃまぜにした試合をやれと言って。それが新日本プロレスのよくない流れの始まりだと思っていましたが、キャリア2〜3年目の若手がそんなこと言ったら、業界から抹殺されるなと(笑)。

いい面も悪い面も持っているから「本物」

――その後、猪木さんが一人ずつビンタをしていくのですが、棚橋さんだけ猪木さんをにらみ続けていました。

ビンタをされてみんな吹っ飛んでいたんですけど、僕は顔をピクリとも動かさず、ずっと猪木さんを見ていました。その後の1、2、3、ダーもやらなかったですね。(映像を見返すと)ムスッとして、イライラしているのが顔に出ていました。


ものすごい殺気をまとった試合中の猪木さん(写真提供:新日本プロレス)

――ファンからすると神様のような存在の猪木さんも、現場のレスラーからすると不満を持つこともあったと。

ファン視点からすると猪木さんは神様ですが、プロレス業界の視点から見ると、神様なのか、天使なのか悪魔なのか。

けれど、いい面も悪い面も持っているから本物なんです。いい面しかなかったら宗教っぽくなってしまうし、悪い面だけだったらビジネスとして成り立たない。両方ある猪木さんは、本物だったんだなと。

――ほかに猪木さんとの印象的なエピソードを教えてください。

先輩には「お疲れ様です」とあいさつするのですが、猪木さんと坂口相談役だけには、「お疲れ様でございます」とみんな丁寧語であいさつしていたんです。僕が初めて猪木さんにごあいさつしたとき、「このたびデビューさせていただきました棚橋です、お疲れ様でございます」って言ったら、「疲れてねえよ」って笑いながら返されました。それを「かっけー!」って思って。

そこから十何年経った東京ドーム(での試合後のリング)で、オカダ・カズチカが僕に「棚橋さんお疲れ様です、あなたの時代は終わりです」と言ったときに、「悪いなオカダ、俺は生まれてから疲れたことがないんだ」ととっさに返したんです。記憶の深いところに、猪木さんの「疲れてねえよ」があって、つながったんじゃないかな。

プロレスラーって、痛くても「痛くない」って言うじゃないですか。虚勢を張る職業なので、「疲れてねえよ」は、最もプロレスラーらしい言葉かなって思いますよね。

――ちなみに、「猪木超え」というテーマを棚橋さん自身は持っていますか?

プロレスの世界に大きい山があったとして、そこにある道は全部、猪木さんが作ったルートなんです。獣道をかき分けて、反対側から登るしか猪木さんに追いつく方法はないのかな。僕がやっているのはその途中ですかね。

そもそも猪木さんのような、移民としてブラジルに渡って、力道山先生に拾われて、日本に戻ってプロレスラーになった……というダイナミズムは、現役レスラーには誰一人としてないんです。ほとんどが普通に義務教育を終えて、新日本の入門テストを受けてプロレスラーになるっていうね。猪木さんのようなドラマ性がないので、「猪木超え」はなかなか難しい。まぁでも、僕は猪木さんより長生きしようかなと思います。


猪木さんが設立した新日本プロレスで、棚橋さんはリングに立ち続ける(写真提供:新日本プロレス)

最後までメッセージやエネルギーを発信し続けた

――最後に猪木さんと会ったのはいつでしょう?

2020年ですかね。猪木さんが入院される前か一時退院されたときに、藤波辰爾さん、長州力さん、北沢幹之さん、藤原喜明さんなど往年のレスラーの方々とお会いされるときに僕も呼んでいただき、いろいろお話しさせてもらいました。そのときはもうだいぶ痩せられていましたね。

――晩年の猪木さんはYouTubeで、闘病中の姿も配信されていました。

本当は格好いい猪木さんだけでいいはずなんですけど、年を重ねて病気でボロボロになっていく格好悪いところも見せられるのは、人としての強さですね。恥をかけ、馬鹿になれと、メッセージやエネルギーを発信し続けたのだろうなと。

――2022年10月1日、猪木さんの訃報を聞いたときはどのような気持ちでしたか?

イギリス遠征に向かっている機内で知りました。おいおいおい、このタイミングかよ、と思いましたね(苦笑)。そのままイギリス大会に出場して、10カウントゴングをしたんですけど、現地のファンの方たちも立ち上がって、脱帽して黙禱してくれて。プロレスファンあったけえな、猪木さんすげえなって思いました。

――猪木さんを追った映画『アントニオ猪木をさがして』が公開されます。棚橋さんも出演されていますが、映画を通じて伝えたいことは?

アントニオ猪木っていうすごい人物がいたから、新日本プロレスの今があるということを、一人でも多くの人に伝えたいです。猪木さんという僕が大好きな、素晴らしい人を知って、共感してもらえればうれしいですね。あ、50年後には、「棚橋弘至をさがして」っていう映画ができると思います(笑)。

(後編記事に続く)


映画『アントニオ猪木をさがして』は2023年10月6日(金)公開 Ⓒ2023映画「アントニオ猪木をさがして」製作委員会 (写真:原 悦生)
本予告映像

(肥沼 和之 : フリーライター・ジャーナリスト)