生まれ育った三河の地を離れるという話を家臣団はどう受け止めるのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第36回「於愛日記」では、のちに2代将軍となる徳川秀忠を産んだ家康の側室・於愛の方が亡くなり、北条攻めを指示する豊臣秀吉とその側室となった茶々の登場シーンが話題となりました。第37回「さらば三河家臣団」では、家康が江戸に転封されることに。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

豊臣秀吉が傑出している点は、秀吉には明確な国家観があったことです。それまでの武家政権は、国家というより武士の権益を確立するためのものでした。しかも武家は地域を制圧しているに過ぎず、全国を統一して行う国家統制のようなものはありません。

秀吉は、日本全国を統制するという初めての事業を成し遂げた人物です。そして秀吉が行った政策のほとんどは江戸幕府に受け継がれています。

家康が豊臣政権のナンバー2に

秀吉が天下統一にあたって、もっとも期待したのが徳川家康です。家康を東日本統一の重要な柱にするのが秀吉の構想でした。その証拠に秀吉は、家康が臣従した1586年の翌年には関東・奥羽惣無事令を出し、その役目を家康に託します。

それを天下に示すため朝廷に奏上し、家康に左近衛大将及び左馬寮御監を任じました。これで家康は、名実ともに豊臣政権のナンバー2に。そして、この人事は大いに関東の実力者である北条氏を刺激します。

秀吉の構想に北条氏は入っていませんでした。

秀吉は天下統一にあたって比較的、寛容な態度で臨んでいました。家康は特別だとしても、実際に征伐した四国の長宗我部氏も九州の島津氏も、その本国については何もしていません。これは、その地域における統治の影響を考えてのことでしょう。

しかし、北条氏に関しては、はじめから滅ぼす意図をもっていたようです。それは家康の関東転封構想が、最初からあったからです。

秀吉は、北条と真田のあいだで起こった小さな紛争に目をつけ、ほとんど言いがかりに近い形で申し開きのための上洛を命じます。当然、北条氏は激しく反発します。家康は両者のあいだを調整しようとしますが、北条氏はすでに家康が関東・奥羽惣無事令の責任者であることから、警戒し調整の条件をのみません。

家康が、北条氏に「北条親子のことを讒言せず、北条氏の領地を望まない」という書状を送っていたことからも当時、家康が北条氏のあとに入るのではないかとの噂が流れていたことが窺えます。結局、北条氏は家康の調停に耳を貸さず、秀吉は予定通り、小田原征伐に踏み切って圧倒的な軍事力で北条氏を屈服させました。


関東の雄、北条が守るべきプライドとは(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

秀吉の天下の構想

北条氏を滅ぼした1590年に秀吉としては予定通り、徳川家から駿河・遠江、三河、甲斐、信濃を召し上げ、代わりに武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野の一部、常陸の一部、つまり関八州と呼ばれる北条氏の領地をまるまる与える決定をします。

この結果、徳川家は旧領150万石から250万石への大幅な加増に。しかし徳川にとっては松平から続く代々の領土からの転封であり、転封される関八州は北条氏滅亡の不安定な状態に加え、見込みほどの石高はないと言われるなど、この人事が徳川家にとってプラスだったかマイナスだったかは後世でも評価がわかれています。

おそらくですが、これは小田原攻めの前から決定しており、そのことは家康にも伝えられていたのではないかと思われます。もちろん秀吉にしてみれば、もしも家康がこれを拒否すれば軍事的な圧力をかけることも視野に入れていたと思いますが、事前の根回しは完了していたのではないでしょうか。

秀吉は徳川本家だけではなく、次男の結城秀康にも10万石の加増を行っており、家康に対して最大限の気遣いをみせています。それだけ家康は秀吉にとって、天下統一構想の重要なピースだったのです。

関東転封の翌年、秀吉は奥羽の一揆の鎮圧のために、甥の羽柴秀次を総大将とする奥羽再仕置軍を編成しました。家康はこれに参戦し、実質的な指揮をとって奥羽の鎮圧に功績をあげます。秀吉にとっての東北は、伊達政宗をはじめ油断できない面々が揃っており、これをまとめあげるには徳川家康というピースが絶対不可欠でした。

1592年ごろには、家康の下に伊達政宗、南部信直、上杉景勝、佐竹義宣らが名を連ね、家康は「武蔵大納言」と呼ばれていました。まさに豊臣政権における東の要です。


北条氏を滅ぼした後、秀吉は小田原など北条氏の元領地を家康に与えた(写真:show999/PIXTA)

まちづくりの天才でもあった秀吉

秀吉に大きな失敗があるとすれば、それは家康にまちづくりの要諦を伝授したことかもしれません。秀吉は関東転封に当たり、家康に江戸を拠点にすることをアドバイスしました。秀吉の慧眼は、江戸が大坂と同じく海に面しているため交通の要衝となり、町として発展する未来を見抜いていたことです。


一見すると荒地をあてがわれたひどい国替ですが、じつは秀吉の深い考えがあっての話でした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

秀吉は大坂をはじめ織田時代の長浜など、町を発展させる才能は群を抜いていました。家康はこの秀吉のアドバイスを受け入れ、北条氏の拠点ではなく、まだ葦が一面に生い茂っていた江戸の開拓に着手します。

そのモデルは大坂でした。家康は大坂から職人や商人を招き、まちづくりに取り掛かります。この結果、江戸は近世において世界最大の都市になるわけですから、ある意味、秀吉は江戸の産みの親であるとも言えます。

さらに、このころ秀吉は朝鮮への出兵を始めていましたが、家康はこの計画には参画していません。家康は東日本の要であるということから、原則的には朝鮮出兵は監督外ということになったようですが、これも秀吉の気遣いのあらわれでした。

秀吉は家康を信頼していた

もしも秀吉が家康を危険視しているなら、朝鮮出兵に参画させて軍事、財政の両方を疲弊させることもできたはずです。それどころか秀吉は、甥の秀次を処刑したあと、家康を内大臣に昇進させました。これは秀吉の次にあたる官位です。

秀吉の家康に対するゆるぎない信頼がみてとれます。結果的に、諸大名が朝鮮出兵によって疲弊する中、徳川は無傷で、その軍事力と財力を蓄えていくことになるのです。

もしも家康が関東に転封されなければ、おそらく朝鮮出兵に参戦させられていたでしょう。さらに家康の旧領であった三河や遠江は、長く続いた戦いにより疲弊していました。ここに朝鮮出兵が加われば、その不満は一揆などの形で表れたかもしれません。

秀吉は領国経営の安定についてはことのほか厳しく、場合によっては肥後を治められず取り潰しになった佐々成政のようになるおそれも。家康にとって関東転封は、まさにプラスの転機となったわけです。

さらに秀吉は「秀頼が成人するまで天下は家康に任せる」と遺言まで残します。

師としての秀吉


秀吉の死後、家康は豊臣政権で最高位の官位でした。秀吉は、幕府という形よりも朝廷の官位によって政権の序列を決めていたので、この時点で家康は名目上も豊臣政権を引き継いだといっていいでしょう。

また秀吉の存命時は、家康はつねに京や大坂にいて、秀吉のもとで国家形成を目の当たりにしてきました。ここで得た国家運営の基礎が江戸幕府に生きます。家康は、中国や朝鮮の侵略以外は外交も含め、多くを豊臣政権から引き継いでいます。

まさに秀吉は家康の「先生」だったのです。

もちろん家康が、それを認めるかどうかは知る由もありません。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)