小田原城(写真: KiRi / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第41回は、豊臣秀吉に頑なに従わなかった北条氏の歴史を振り返る。

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秀吉に服従せず守りを固める北条

立場が変われば、とるべき行動も変わる。

豊臣秀吉に恭順の意を示すことに抵抗し続けた徳川家康だったが、ついに上洛して天正14(1586)年10月27日に秀吉への臣従を約束。すると一転して、北条氏に上洛を促す立場となった。

というのも、北条氏もまたかつての家康のように、秀吉からの再三にわたる上洛要請を突っぱねていたからだ。当時の当主は北条氏直だが、実権はその父である北条氏政が握っていた。

家康にとって北条氏は同盟相手であり、家康の娘である督姫は、当主の北条氏直に嫁いでいる。その一方で、家康は秀吉から関東における諸事を任されており、北条氏を説得する役割を担っていた(前回記事「秀吉に従った家康に課された「あるミッション」参照)。

秀吉側と北条側の緊張関係を解消すべく、家康は積極的に働きかけている。だが、「秀吉に臣従するように」という家康の呼びかけも、北条氏にはなかなか響かない。

それどころか、天正15(1587)年からは秀吉との合戦に備えて、小田原城の大規模改修へと乗り出している。9キロにも及ぶ総構(そうがまえ)を構築し、城のほか城下町一帯も含めて、周りを堀や石垣、土塁で囲い込んでしまった。

『徳川実紀』は「田舎者」と辛辣な表現

さすがに完全に無視するのはまずい思ったのか、翌年の天正16(1588)年2月には、家康の要望を受けて、北条側は家老を上洛させて、豊臣側と交渉を行っている。だが、話はまとまらなかった。北条側が「納得する条件ならば、臣従してもよい」というスタンスを崩さなかったために、決裂している。

強大な秀吉を相手に渡り合おうしたのは、小田原城の守りに自信があったからだろう。なにしろ、小田原城はもともと落とすのが難しいことで知られており、武田信玄や上杉謙信も攻略できなかった。さらに小田原城を改修したことで、秀吉に攻められても、すぐには落ちないという過信につながったようだ。

そんな強気な姿勢を維持する北条氏に、それまで絶妙なバランスをとっていた家康も、態度を変えていく。江戸幕府の公式史書『徳川実紀』での記述は、家康の胸中に近いものだったのではないだろうか。

「氏直は、今や家康の姫君と結婚し、親しい仲であったため、君もさまざまに準備して、上洛を勧められたが、氏直の父である氏政は『私たち北条は代々関東を統治しており、一族の人数も多く家は富み豊かであるから、世の中には怖いものなどない』とばかり思っている田舎者であったため、人の忠告を取り入れなかった」

天正16(1588)年4月には、14日から5日間にわたって、後陽成天皇の聚楽第行幸が執り行われ、家康も上洛。行幸の2日目に秀吉は、東海より西の諸大名に対して「関白秀吉の命には、どんなことでも従う」という起請文を上げさせている。

こうして秀吉の支配が進めば進むほど、「従わない北条に対しては、強硬な態度をとるべきではないか」というムードが、豊臣方でどんどん高まっていく。

そんな様子を見かねて、家康は同年5月に、北条氏政と氏直の父子に、決意を込めた起請文を送ることになる。

それにしても、北条氏はなぜこれほど頑ななのか。それを理解するには、北条氏のヒストリーを振り返る必要がある。

小田原北条氏の初代は北条早雲だが、自身で「北条」を称したことはない。「伊勢宗瑞」が正式な名で、息子で2代目の氏綱のときに「伊勢」から「北条」へと名字が改められる。

3代目の氏康のときに、関東に安定した支配の礎を築けたのは、きちんと初代からの理念が継承されたからだろう。

「21カ条の戒め」を掲げた初代の早雲

早雲は63歳で病死するまで領土拡大に挑み続けた一方で、21カ条の戒めを掲げている。戒めは、第一条の「仏神を信じなさい」から始まり、早寝早起きや読書、礼儀や慎み深くあること、素直さの大切さが説かれ、質素でいることや身だしなみをきちんとすることなど「人としてかくあるべし」という真っ当な項目が並んでいる。


北条早雲公像(写真: 伯耆守 / PIXTA)

早雲が病死すると、2代目の氏綱が32歳で当主となる。前述したように姓を「北条」に改め、本拠は小田原へと移した。早雲の領国経営の方針を引き継ぎながら、関東に地盤をしっかり築いている。

氏綱は病に襲われて、54歳で命を落とす。予感があったのか、死の数日前に出家。まだ26歳と若い後継ぎの氏康のことを心配して、次のような主旨の5カ条を残している。

「一、大将によらず、諸将までも義を専らに守るべし。 義に違いては、たとえ一国二国を切り取っても、後に恥辱を受けるであろう」

「一、侍から百姓に至るまで、すべての人が不便なきようにすること。捨ててもよいような人はいない」

「一、侍は矯らずへつらわず、その身の分限を守るのをよしとする」

「一、万事倹約を守るべし」

「一、勝ってかぶとの緒を締めよ、という古語を忘れ給うべからず」

初代・早雲の理念をしっかり受け継いでいることがわかる遺訓だ。義を重んじた氏綱は、次のような言葉も残している。

「義を守りての滅亡と、義を捨てての栄華とは天地格別である」

勝つことがすべてとされる戦国時代において「義がなければ栄華を誇ってもしかたがなく、義を守っての滅亡のほうがよい」とは、なかなか言えることではないだろう。

後を継いだ氏康は、そんな父の「侍から農民にいたるまで、すべてに慈しむこと」を実践して、減税政策を実施。畑地に課せられる「諸公事」をすべて廃止した。

一方で、畑地の貫高に応じて相当の懸銭を負担させている。懸銭とは、畑の貫高、つまり収穫高の6%に相当する税金のこと。

これまでは、代官が自由に領民に税金をかけて自分の懐に入れてきた。そんな理不尽なシステムを改革したのである。結果的には、領民の負担を減らしながらも税収は上がり、財政を立て直すことに成功した。

また、領民同士でトラブルになったときのために、「評定衆」という評定制度を創設。訴えが起きると、その相手から事情聴取した。証拠や証文などを提出させて、場合によっては尋問も行いながら、評定会議にかけるという司法制度を整備している。

「関東の覇者」として勢力を拡大しながら、内政の地盤をしっかりと固めた氏康。継承をスムーズにするためだろう、44歳と早めに家督を息子の氏政に譲っている。

氏直と氏政で北条領国の最大版図を築く

氏康の死によって、氏政が単独政権を築いたのは、33歳のときのことである。家督継承から実に12年の月日が経っており、準備は万全である。

引き継ぎ期間で父とともに、有力大名としのぎを削った氏政。1人になっても、その手腕を発揮した。外交面では、状況が二転三転する展開のなかで、父が結んだ上杉との越相同盟を破棄。武田との甲相同盟の復活という大転換を図って、関東での存在感を強めていった。

武田家が滅び、織田家のもとにつくことが決まると、氏政はまだ42歳だったにもかかわらず、家督を息子の氏直に継承した。氏直は信長の娘婿でもあったため、従属を示すためだろう。実権はその後も氏政が握っている。

そして氏直と氏政という2頭体制のもと、上野・信濃・甲斐へと進出。北条領国の最大版図が形成されることになる。

子の氏直とともに全盛期を築いた氏政だったが、名君とされた父の氏康とは対照的に評価が低いのは、ひとえに、秀吉への対応を誤ったとされているからだろう。

いつまでも恭順の意を示すことなく上洛しない北条氏政と氏直の親子に対して、家康は次のような趣旨の書状を送った。

「この家康は、北条父子のことを秀吉に悪く言わないこと、北条氏の領国を所望しないことを誓う。その代わりに、氏政らが今月中に上洛することを勧める。もし、上洛を拒否するならば、氏直に嫁がせた督姫を離縁してほしい」

そんな家康の覚悟の書状もあって、北条側もようやく秀吉の上洛に応える動きを見せる。だが、その後もゴタゴタは続く。

北条側に引き渡す予定でありながら、真田家で留保となっていた名胡桃城(なぐるみじょう)での内紛に対して秀吉が激怒したり、北条が上洛の意思を見せるも、その時期について秀吉側とすれ違いがあったりなど不運も重なった。上洛を果たせないまま、両者は激突することになる。

しかし、仮に秀吉のもとに抜かりなく上洛を果たしたとしても、北条の現状が保たれることは、難しかっただろう。処遇が悪くなれば、領民を苦しめることになる。

最終的に氏政が選んだ道

勝ち目のない戦へと突入するなか、代々語り継がれた理念が、氏政の頭にはよぎったのではないだろうか。

「義を守りての滅亡と、義を捨てての栄華とは天地格別である」

最終的に氏政が選んだのは「義を守りての滅亡」の道だった。

秀吉との戦いで滅亡して自害したのは、数多いる戦国武将のなかで、北条氏政、ただ1人である。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
黒田基樹『戦国北条五代』 (星海社新書)
黒田基樹『北条氏康の家臣団』 (歴史新書y)
黒田基樹『北条氏政』 (歴史新書y)

(真山 知幸 : 著述家)