京都豊国神社にある豊臣秀吉像(写真: マノリ / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は朝鮮出兵(唐入り)で豊臣秀吉が抱いていた野望と、家康の行動について解説する。

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天正19年(1591)8月、豊臣秀吉は、翌春に唐入り(明国※現在の中国、征服)を行うことを諸大名に告げたが、秀吉の侵攻対象は明国だけではなかった。

「南蛮国」(ルソン・マカオ・ゴアなどのポルトガルやスペイン領)をも支配下に置く構想を示していたのだ。また、大陸を制覇した暁には、後陽成天皇を北京に移して皇帝とし、日本においては後陽成天皇の皇子・良仁親王か、智仁親王を帝位につける野望を秀吉は持っていた。

東南アジアやインド侵攻の指揮も目論む

さらに、秀吉は、寧波(中国浙江省)を拠点とし、東南アジアやインド侵攻の指揮をとることを目論んでいた。その手始めとして、秀吉は朝鮮に入貢を求め、明国出兵を先導するように命じたのである。

しかし、朝鮮側は明国への先導を拒否し、開戦の気運が高まることになる。秀吉は唐入りの拠点として、肥前国名護屋(佐賀県唐津市)に築城することにし、九州の諸大名(黒田長政・加藤清正ら)がその役割を担った。

天正19年(1591)12月には、秀吉は甥の秀次に関白職を譲り、太閤となった。翌年の天正20年(1592)に、秀吉は朝鮮出兵を号令。全国の諸大名が肥前名護屋に集結する。もちろん、徳川家康も例外ではなかった。

正月は江戸で過ごしていた家康だったが、2月上旬には江戸を出発した。京都に入った後、3月17日に京都から肥前に向かうことになる。4月下旬には、肥前名護屋に到着したと思われる。徳川軍は1万5000もの大軍であった。

朝鮮出兵の軍勢は「9番」で編成され、1番は小西行長・宗義智ら、2番は加藤清正・鍋島直茂ら、3番は黒田長政・大友義統ら、4番は島津義弘ら、5番は福島正則・蜂須賀家政ら、6番は小早川隆景・毛利秀包ら、7番は毛利輝元、8番は宇喜多秀家、9番は羽柴秀勝・細川忠興ら、全軍約15万もの大軍勢であった。ここから、九州・西国(中国地方)の大名を中心に構成されていることがわかる。

徳川家康・前田利家・伊達政宗・上杉景勝など東国・東北の大名は、渡海せず、名護屋に予備軍として控えることになる。

朝鮮半島にわたらなかった家康

家康の軍勢は、朝鮮半島にわたって戦うことはなかった。それは軍隊編成の序列が後方であったからだ。このことは家康にとって、幸運だったと言えるだろう。


名護屋城跡(写真: たき / PIXTA)

4月、日本の軍勢は、唐入りへの協力を拒否した朝鮮国に攻め込む。5月3日には、朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)を陥落させるという戦果をあげた。

この勝利の報告を得た秀吉は、冒頭に示した後陽成天皇を北京に移すなどの壮大な構想を示すことになる(5月18日)。

ちなみに、関白・秀次も北京にて「大唐関白」として政務に当たることになっていた。日本に関しては、秀次の弟・秀保か宇喜多秀家を関白とする構想を抱いていた。

この秀吉の構想から見えてくるのは、秀吉とその親族が皇室を推戴する形で、東アジア世界を支配しようとしたことである。

ただし、後陽成天皇は、朝鮮への出兵に反対であった。「出兵を取り消してほしい」と秀吉に宛てた書状の中で述べられている。それでも出兵は強行され、いずれは、秀吉自らも渡海することになっていた。

それを強く止めたのが、家康と前田利家であった。「秀吉の船が出た後、それに従う者たちは、風雨の難があっても、晴れを待ち逗留するだろうが、競って渡海しようとする者は上手く状況判断ができなくなる」「思わぬ風難により秀吉の身にもしものことがあったら、天下が乱れる」と2人は諫言したという。

秀吉の渡海は翌年の3月まで延期されることになった。秀吉の渡海には、後陽成天皇も反対され、「高麗への下向、険路波濤を乗り越えていくことは、勿体ないことです。家臣を遣わしても事足りるのではないでしょうか。朝廷のため、天下のため、発足は遠慮なさってください。遠い日本から指示して戦いに勝つことにし、今回の渡海を思いとどまってもらえれば、たいへん嬉しく思う」と秀吉に書状を出されている。

朝鮮半島への侵攻は順調に見えたが、朝鮮国王は首都から逃れ、明国に派兵を求めたので、事態は混沌とする。日本軍が明軍を退けることもあったが、朝鮮半島の奥深くに進軍した日本軍には、食糧や武器が届かず、敵方のゲリラ戦もあり、苦境に立たされていった。

文禄2年(1593)3月になると、家康と前田利家の渡海も検討された。結局実現には至らなかったものの、戦況の長期化と渡海軍の苦境や士気の落ち込みもあり、明国との和平交渉が進められる。

5月、明国使節(明皇帝からの正式の使節ではない)を肥前名護屋に迎えることになった。その接待を命じられたのが、家康と利家だった。なお明国使節に対し、「諸大名に召し使う者が、悪口を言わないように」との秀吉の命令があり、家康や利家ら20名が誓約している。

秀吉は「明国使節」と対面し、講和の条件を示した。それは、明皇帝の姫を天皇の妃とする、日明貿易の再開、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮国皇子の人質差しだしなどであった。

明の皇帝の書状で、秀吉が激怒する

しかし、このような一方的な要求では和議はまとまらない。朝鮮に派遣されていた小西行長らは「関白(秀吉)降表」を偽装し、講和交渉を進めていくことになる。小西らの行動は随分と危険ではあるが、ここまでしなければ和平は難しかったのだ。

強硬派の秀吉に和平の件を持ち出しても、反対されることは必須だった。秀吉が「聞く耳」を持っていなかったことが、小西らが危険な行為に出た要因でもあったのだ。

小西らは、日本軍の撤兵と、朝鮮との和解、日本が明国の属国になるとの内容を明国に送る。これを受けて、明の皇帝は、秀吉を「日本国王」にするとの書状を秀吉に送るのであった。

もちろん、このようなことを、秀吉が許容するはずはなかった。秀吉は激怒し、和平交渉は決裂。慶長2年(1597)、秀吉は再び朝鮮半島に派兵することになる。


(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・平川新『戦国日本と大航海時代』(中央公論新社、2018)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)