(写真:ほんかお/PIXTA)

どうでもいい仕事が蔓延するメカニズムを解明した『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』の著者である人類学者のデヴィッド・グレーバー氏の遺作となる『万物の黎明』。 ベストセラーとなっている人類史の著書の数々を批判しています。本書の翻訳を手がけた酒井隆史氏のあとがきより、一部抜粋・編集してお届けします。

「ポップ人類史」を根本から批判

『万物の黎明』のひとつのもくろみは、ユヴァル・ノア・ハラリやジャレド・ダイアモンド、スティーヴン・ピンカーなどのベストセラーの著者たちのテキスト、いわゆる「ポップ人類史」を根本から批判することにある。かれらへの言及と批判は、本書の随所にあらわれる。

かれらのほとんどが、人類学にも考古学にも門外漢である。しかし、かれらは人類学や考古学の領域でのめざましい近年の発見をつまみぐいしながら、旧来のパラダイムに巧みに適合させた著作を書いている。そしてそれによって人は、世界の見方を揺るがせにすることなく、新奇な発見をたのしむことができる、と。その批判は、辛辣である。

「わたしたちの議論展開に性急さのようなものが感じられるとしたら、その理由は、現代の著述家の多数が、ホッブズやルソーといった啓蒙時代の偉大な社会哲学者の現代版はわれなりといった風情で、おなじ壮大な対話を(ただし、かつてよりもより的確な登場人物でもって)演じてたのしんでいるようにみえるからだ。

この対話が依拠するのは、わたしたちのような考古学者や人類学者をふくむ社会科学者の経験的知見である。しかし、実のところ、かれらによる経験的知見の一般化の質はとても向上しているとはいいがたく、いくつかの点では劣化してさえいるようにおもわれる。いずれの時点かで、子どもたちからはおもちゃをとりあげなければならないものなのだ」

たとえばスティーヴン・ピンカーである。心理学者であるピンカーは、本書第1章にあるように、暴力をめぐって壮大な人類史を書いている。しかし、かれの暴力論のおおまかな図式には、なにも新奇なところはなく、本書のいう、トマス・ホッブズに由来する神話の焼き直しにすぎない。

つまり、かつて人類は無政府的でしたがって暴力的であったが、「科学的に冷静にみれば」、人類はそれを克服してきた、いまではかつてない平和と安全を享受している、そしてそれは暴力を独占する国民国家によるものである、というものである。こうしたストーリーは、日本語圏でもなんども死ぬほど語られてきて、カラカラに干上がった「常識」ではある。

陳腐なストーリーを「裏づける」証拠

このような陳腐なストーリーを「裏づける」ため、ピンカーはその証拠としてある考古学的発見をあげてくる。いわゆる「チロルのアイスマン、エツィ」である。1991年9月という近年の著名な発見で、オーストリアとイタリアの国境の山岳地帯で、前3350年−3110年のあたりに生きたとされる(新石器時代後期、縄文時代中期前半に相当)男性のミイラがそれである。

当初は、CTスキャンなどで確認される肋骨の歪みなどから、おそらく集落で起きた争いから逃げてきて、負傷と疲労で、発見現場あたりで力尽きたのだろうと推測されていた。ところが2001年には、そのような仮説を覆す、左肩から石とおもわれる鏃(やじり)が発見され、それが死因と断言される。仲間との深刻な争いで、かれは山麓からみずからの集落へ、そしてまた山麓へと逃げていかなければならず、そしておそらく背後から刺されて死んだとされたのだ。

ピンカーはこれを保存状態のよいかたちで発見された最古の人類、しかもおそらく「卑劣な仕方で」殺害されたとおぼしき遺体だとし、それをもって、その時代の人間社会が、かくも暴力まみれだった証拠とみなす。

それに対し、グレーバーたちがあげるのが、ロミート2と呼ばれる発見である。イタリアのカラブリア地区の洞窟から発掘された1万年前に埋葬された男性の遺体で、重度の低身長症である希少な遺伝子疾患(先端骨形成不全症)を有していた。おそらく、生前、共同体内では変則的な存在とみなされていただろうし、かれらの生存に必要な高地での狩猟に参加することもできなかったと推測される。

ところが、概して健康状態や栄養状態が悪かったにもかかわらず、おなじ狩猟採集民の共同体は、この人物を乳児期から成人期まで苦心して支え、他の人間とおなじように肉を分け与え、最終的にはていねいに保護して埋葬している。ロミート2は、例外ではない。健康上の障害が高い頻度で発見されるいっぽうで、死の直前まで(なかにはきわめて豪奢な埋葬を示すものもあり、その意味では死後も)、おどろくほど高いレベルのケアがおこなわれていたことがわかる。

矛盾するようにもみえる2つの遺物

とすると、この発見からは、ピンカーとは逆の結論がみちびきだせる。人類とはもともと相互扶助的であり平和的なのである……と、いっていいのだろうか。著者たちによれば、ノーである。かれらは、人類はそもそも相互扶助的であり平和的であるということをいおうとしているのではない。

それでは、この一見、矛盾するようにもみえる2つの遺物から、人間とはどのようなものだといえるのか。これが本格的に問われるのは、第3章であるが、いずれにしてもここには、モノ言わぬ遺物である点と点をどのように人類学的知見がつなぎあわせていくのか、考古学と人類学の協働がどのような威力をもちうるのかがすでに示唆されている。

この2つの異質な社会のありようを示唆する遺物をつなげることができるのは、人類学の知見を通した推論である。かれらは第3章で、後期旧石器時代の狩猟採集民のヒエラルキーの存在を感じさせる遺物の発見(豪奢な埋葬、マンモス建造物といったモニュメントなど)をとりあげながら、そこにルソー=ホッブズのジレンマをみいだすことをやめるようもとめている。

ハラリ、ダイアモンドの議論を随所で批判

そのかわりかれらが手がかりにするのは、レヴィ=ストロースやロバート・ローウィらの民族誌である。それらが語るのは、かつて人類社会では、社会組織が季節的に変異するのが当たり前であったという事実だ。

つまり、たとえば夏には小集団に分散し、みな対等にふるまうが、冬には、集合し、ときに王や警察ともみまがわんばかりの機能もあるヒエラルキー社会を組織する。しかし、夏になればそれはふたたび解体される。このヴァリエーションはさまざまである。


だがそこにみいだされる最小のことがらは、人類はその初期から、複数の異質な社会組織とその性質を熟知し、そのあいだを往復できる、柔軟性をもった成熟した存在、自覚のある政治的主体であったということだ。それをふまえるなら、チロルのアイスマンとロミート2とあいだの矛盾は矛盾ではなくなる。それは人類社会が一様ではなかったということなのだ。

ピンカーのみならず、本書ではハラリ、ダイアモンドといったベストセラーの作家たちの議論が、随所でとりあげられ批判されている。基本的に、ルソーとホッブズの二極を往復する、現在にいたるまで支配的な人類史にかかわるストーリー、あるいは神話の焼き直しにすぎない、というのがほとんどの論点である。

しかし、たとえばテオティワカンからコルテスのアステカ攻略における忘れられたトラスカラのエピソードを論じた第9章で、ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」という視点がなにを見落とすのかを示唆した箇所をみてほしい。

ダイアモンドのような語りが、決定要因をどこにおくかにちがいはあれ、つまるところ、この世界を宿命的必然にゆだねていることがよくわかる。そして、それが人間の歴史のなにをみないでいるのか? トラスカラの王なき民衆世界であり、権力を拒絶するかれらの複雑な意思決定システムであり、つきつめれば歴史の流れに介入する人間の意志である。ポップ人類史のシニシズムが、ここで浮き彫りにされることになる。

(酒井 隆史 : 大阪府立大学 教授)