読書に没頭することで人は我を忘れ、「フロー状態」にも似た経験をすることができます(写真:zak/PIXTA)

私たち現代人は、かつてないほど騒音の影響を受けている。ここで言う「騒音」とは街中に響く音だけではない。日々接している大量の情報という騒音や、ネガティブな考えが頭から離れない「頭の中の独り言」という騒音もまた、増加し続けている。

これほど多くの刺激が人々の注意を消費している今、私たちはどうすれば心の平穏や明確な思考を維持できるのだろうか? これら危険な3つの騒音から逃れる方法はあるのだろうか?

今回、日本語版が9月に刊行された『静寂の技法』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。

失われてしまった「深い読み」のスキル

2010年に刊行され、今日のほうがますますよく当てはまる、『ネット・バカ――インターネットがわたしたちの脳にしていること』という本の中で、ジャーナリストで社会学者のニコラス・カーは、オンラインの生活は中断に尽きる、と嘆いている。


そしてそのような生活は、人が情報を処理する方法を根本的なかたちで変える。

オンラインで物を読んで情報を集めれば効率が上がるにしても、人は「もっと時間をかけて観想する思考モード」を使う能力を失った、とカーは主張する。

つながりを形成するような種類の認知能力から、たんに些末な情報を漁るような種類の認知能力へと人は移行した、と彼は説明する。

「深い読み(ディープリーディング)」のスキルを失ってしまった、というのだ。

フロー状態のように感じられる種類の読書に没入したことがあるだろうか?

私たち著者は、長い飛行機の旅の間や、気を散らすものがない場所――ある程度の時間、他に注意を引こうと競い合うものが何もない状況――で、それを経験したことがよくある。優れた物語に完全に夢中になっているときに、それを感じてきた。

行動と自覚を融合させるフローの典型的な身体性は、読書にはないものの、読書は人を自己超越へと向かわせることができる。

たしかに、読書は精神的刺激の一種だ。それにもかかわらず、その中にすっかり身を置いていると、内と外の、気を散らすものを乗り越える手段になりうる。たとえ心は詳細や主題を追っていても、人はそれでもなお、その中にいられる。

外部の音や情報に心を開いていない。自分の過去や未来について、善悪や是非の判断や期待を抱いていない。

宗教の伝統に見られる「聖なる読書」

心理学者のジーン・ナカムラとチクセントミハイは、読書や、考え事をしながらのいたずら書きのような、2人が「マイクロフロー活動」と呼ぶものの研究という新領域を提唱した。これらの活動は、「注意の調整の最適化をするうえで、重要な役割を果たすかもしれない」と2人は考えている。

カトリックと英国国教会の伝統には、「レクティオ・ディヴィナ」と呼ばれる修練がある。「レクティオ・ディヴィナ」というラテン語を訳せば、「聖なる読書」となる。書かれた言葉の観想を通して有意義な空間を育てることを指す。

この修練では、これ以上ないほど深く集中して聖典の1節を読み、それからその意味についてじっくり考える。「ディープリーディング」に似て、これも言葉と可能なかぎり直接出合う試みだ。最小限の概念のメッキしかない。

同じような経験を、話し言葉の中に見つけることも、ときどきありうる。エステル・フランケルは、こう語ってくれた。「優れた礼拝指導者は、祈りの間に必ず静寂を織り込みます」。

彼女は自分が属する伝統の、「ユダヤ教再生」と呼ばれる詠唱に基づく礼拝を次のように説明した。「詠唱は感覚を十二分に使います。心が静まり、静寂に浸る準備が整います」。

神聖なストーリーテリングのときにも、似たようなことが起こる、と彼女は言う。「あなたがユダヤ教ハシド派の物語を語るとしましょう。とても上手に。禅の公案のような静寂の瞬間があり、心がそれを理解しようとし、それから諦めるというような感じです」。

彼女は礼拝指導者として、そうした瞬間を楽しむ。彼女は、次のようにつけ加えた。「心に減速させなければなりません。良い詠唱、良い祈り、良い物語は、人をいつもとは異なる状態に導き、静寂に向けて準備させます」

優れた詩も同じだ。

「詩は静寂から現れ出て、人を元の静寂へと導きます」と、ストーリーテリングをする詩人のマリリン・ネルソンはクリスタ・ティペットによるインタビューで語った。

「静寂は、人が人生を生き抜くのに必要なもののじつに多くの源泉です」。彼女はさらに続ける。「詩は、何かが水から浮かび上がるように出現する単語や句や文からできています。それらは私たちの前に現れ、私たちの中にあるものを呼び出します」

ピューリッツァー賞を受賞した詩人で、アメリカの桂冠詩人に2期任命されたトレイシー・K・スミスはあるインタビューで、「詩は言葉に表せない感情のすぐそばにある言語です」と語った。

詩は、不可能に挑む。誕生、死、霊的な目覚め、恋に落ちたときなど、人が人生で最も言いようもなく胸を打たれる瞬間に頼るのが詩であることに、彼女は思いを巡らせる。

リズムや語数に関係なく、あらゆる詩は、その構造の中に静寂が組み込まれている。静寂は、ページの上、節や連の中、単語と単語の間にある。

優れた詩は、文字にされていることとされていないことの間に、創造的な緊張を保っている。滑らかな石が水を切るように、時間の上を跳ね進んでいく。この1人の読者に、この1つの日に、この1つの瞬間に現れるもののために、空白を残す。

毎朝、1つの詩か本の1節を読む

もしあなたが、これまで一度も詩に「感動した」ことがないように感じているのなら、感動したことのある友人や近しい人に、気に入っている詩は何か、それのどこが好きかを訊いてほしい。

彼らの気に入っている詩を読んだり、彼らに朗読してもらったりし、静寂に耳を澄ませる。言葉と空間の間の境界を聞く。「銀」と「金」のバランスだ。

詩人のデイヴィッド・ホワイトは、「詩は、それによって人が現に静寂を生み出すことができる言語的芸術形態だ」と書いている。

作家で識者のスーザン・ソンタグは、最高の形態の芸術、散文、あるいは韻文は、「後に静寂を残す」と述べている。

毎朝、1つの詩か本の1節を読むという単純な習慣によって、その日1日のトーンを決めることができる。寝る前にひと読みすれば、夢の世界の種蒔きができる。

たとえ最も高尚な文学作品を読んでいなかったとしても、読書そのものを純粋な注意を払う修練にしようとするべきだ――「後に静寂を残す」努力をするのだ。

(翻訳:柴田裕之)

(ジャスティン・ゾルン : コンサルタント、講師)
(リー・マルツ : コンサルタント、リーダーシップコーチ)