シドニー五輪4×100mリレー決勝でまさかの出走 補欠だった小島茂之は「行くかもしれないと言われて本当にドキッとした」
5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 小島茂之 編(前編)
陸上競技のトラックで今や個人種目をしのぐ人気となったリレー競技。4人がバトンをつないでチームとして戦う姿は見る者を熱くさせる。実際にレースを走るのは4人だが、補欠も含め5〜6人がリレー代表として選出され、当日までメンバーは確定しない。その日のコンディションによって4人が選ばれ、予選、決勝でメンバーが変わることもある。選ばれなかった5人目はどんな気持ちでレースを見守り、何を思っていたのか。そしてその経験は、陸上人生にどんな影響を与えたのだろうか――。
小島茂之(左)が走った決勝では末續慎吾(右)が決勝で肉離れを起こしたが最後まで走りきった photo by Kyodo News
1991年東京大会以来の日本開催となった、2007年世界選手権大阪大会。2000年シドニー五輪以降、五輪と世界選手権で決勝進出の常連になっていた男子4×100mリレーは、2004年アテでネ五輪4位となり、メダル獲得が視野に入るまでに成長していた。
その4継チームの補欠に入り、出場した選手からは「小島さんがどこでも走れる準備をしてくれていたので、思い切り走ることができた」と感謝されていたのが小島茂之(アシックス)だ。2000年シドニー五輪でも、当初リレーの補欠という立場でほかの選手たちが走るのを見ていた――。
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高校3年生だった1997年、初出場ながらも日本選手権100mで7位入賞を果たし、早稲田大学に進んだ1998年には、世界ジュニアで日本人2人目となる決勝進出を果たした小島。1999年10月の国体100m予選で、翌2000年シドニー五輪参加A標準記を突破し、順調に記録を伸ばすと、20歳での五輪出場が見えてきていた。
シドニー五輪は9月開催で、この頃の日本選手権は10月開催。そのために代表選考は前年11月から第1次選考が始まり、7月の南部記念の第4次までかけて行なわれていた。しかし、小島の記録は選考が始まる前だったため、代表入りは最後の南部記念まで持ち越された。
6月の第3次内定までには、100mと200mで10秒00と20秒16の日本記録を持つ伊東浩司(富士通)が2種目で第1次内定したほか、100mでは朝原宣治(大阪ガス)と、B標準突破ながらも主要選考レースだった5月の水戸国際で2位になった川畑伸吾(法政大)。さらに200mA標準突破の末續慎吾(東海大)が選ばれていて、南部記念の100mは、リレー最後の1枠がかかったレースだった。
「1999年は9月の日本インカレで勝ったあと、10月の日本選手権では追い風3.3mの10秒12で2位になり、国体でもA標準を突破したので『もしかしたら五輪にいけるかも』と思うようになって。ただ、2000年2月に右くるぶしを痛め、シーズンインは5月の水戸国際と出遅れていました」
それでも徐々に調子を上げ、南部記念2週間前の四大学対抗では、朝原が持つ学生記録に0秒01まで迫る10秒20を出していた。
最後の1枠を狙うそのレースには、代表が決まっている朝原と川畑のほかにも、A標準突破者が5人も出ていた。そのうちふたりは予選敗退となったが、決勝はここにきて予選でA標準を突破した土江寛裕(富士通)や200mA標準突破の渡辺辰彦(スズキ)も含めた5人の争いになった。そのなかで中盤から伸び、ゴールで先行していた川畑をとらえて優勝したのが最年少の小島だった。
「まずは、何でもいいから五輪の舞台へ行きたいという気持ちがありました」
こう振り返る小島だが、選考会後からシドニー五輪までの間に、日本インカレで川畑が10秒11、末續も10秒19を出し、代表5人が100mのA標準突破という状況になった。
「(シドニー五輪では)個人種目の出場もすぐには決まらず、最終エントリーで『この3人で行きます』と発表され、僕は伊東さん、川畑さんとともに出場できました。でも結果は10秒59で1次予選敗退。100mが終わって4継は1走が川畑さんで2走は伊東さん。3走は末續で4走は朝原で行くと言われて。その時は僕が個人で結果を出せていなかったので、誰が見ても納得のオーダーだろうと思ったし、伊東さんと末續は200mで準決勝まで行っていたので当然かなと。
伊東さんがみんなに『メダルを狙える』と言っていた4継だったので、外されたのは悔しかったけど、その時は個人で結果を出せなかった不甲斐なさもありました。ただ、リザーブは僕しかいなかったから、リレーまでの1週間でどれだけ調子を戻してチームの力になれるかと思っていたので、モチベーションも下がることはなかったです」
「まさか」で回ってきたシドニー五輪の4継リレーを振り返った
そんな小島に出番はやってきた。
予選は全体3番目のタイムで通過し、準決勝も全体5位の38秒31(日本タイ記録)で通過と、メダルが見えてくる結果を出していた日本。しかしそのレースで、1走の川畑が脚のけいれんを起こした。
「準決勝もタイムがよかったので『まさか』と思っていたけど、川畑さんがレース中に脚に違和感が出たことで、『行くかもしれない』と言われて。心の準備はしていたけど、言われた時は本当にドキッとしました」
準決勝を終えた夜、翌日の決勝に向けて小島はこんなことを考えていた。
「(シドニー五輪)直前の9月のスーパー陸上でリレーをやった時に、ジャパンチームのオーダーが準決までの4人で、僕は早稲田大チームの1走を務めました。それは、セレクションの意味もあったと思います。なので、自分は1走で準備しなければいけないと思っていました」
そう考えていたとおり、決勝では1走を走ることになった。
「最終的には、決勝前のウォーミングアップで川畑さんの脚の痛みが引かないということで、僕が行くことが決まりました。前日には、選手村で同室だった末續から『行くんだったら走ってくださいね』と軽い感じで言われていて、初めてのシニア大会のリレーがいきなり、責任の重い五輪の決勝だったので、何が何でも走らなきゃいけないと必死だったのは覚えています。めちゃくちゃ緊張したけど、走れなくて悔しい思いをしている川畑さんの分はもちろん、最終選考会まで競り合った選手たちの分もと思って必死で......。『とにかく、2走の伊東さんにバトンをつながなければ』ということだけ考え、夢中で走りました」
結果としては、3走の末續がレース中に右太ももの肉離れを起こし、50m以上足を引きずりながら走る状況に。それでもバトンをつなげたが、38秒66で6位とメダルは届かなかった。
「末續も個人レースで準決勝まで3本走ってリレーも3本目だったので、もうギリギリのところでやっていたと思いますし、本当によくつないでくれたと思います。1走の僕のところからは遠かったので彼の走りはよくわからなかったけれど、ゴールのほうに戻ってきた時に脚を引きずってきたので、そこでケガをしたのを知りました。あとで映像を見たら『ここで明らかに肉離れをしている』とわかるくらいにガクッとスピードが落ちている場面があって、それでも必死につないでくれたので。本当に頑張ってくれたと思います」
本来なら川畑が走るところだったこともあり、「『小島に替わったからダメだったよね』と言われたくないと思った」と言い、いきなり重役を任されて必死に走るだけだったが、2走の伊東にバトンを渡した瞬間にホッとしたという。そして今思えば、本当に貴重な経験をさせてもらったと振り返る。
だが、その大舞台を走ったことで如実に感じたのは、自分の力がまだまだ足りないということだった。実際にあそこでパーフェクトな走りができたかといえば、そうではなかった。
「何回もレースを見直したけれど、やっぱり前のほうでバトンはつなげていなかった。自分がもっと高いレベルでいいレースができていれば展開も違っていただろうし、末續もケガをしなかったかもしれないと思います。1走の大切さを改めて感じました。だからあの五輪は、自分の力のなさを感じた大会でした。ただ出るだけではダメだ、出るだけのレベルではダメだなと。一緒に走る選手のなかには9秒台の選手もゴロゴロいるわけで、そんな選手たちとも対等に張り合えるようでなければリレーでも戦えない。
A標準を突破して五輪に出たけど、10秒0台を出さなければ今後は代表に選ばれることもなくなると思い、『とりあえず強くならなければいけない。強くなりたい』と思いました」
五輪という大舞台で初めて走れたうれしさがあった一方、目指していたメダル獲得には手が届かなかった。20歳の小島は自分の走りを冷静に見直し、次の目標を2004年のアテネ五輪へと定めた。
(つづく)
Profile
小島茂之(こじま しげゆき)
1979年9月25日生まれ、千葉県出身。
市立船橋高校時代から頭角を現し、早稲田大学進学後20歳でシドニー五輪の個人種目100mと4×100mの日本代表に選出された。その後、富士通へ進んだが、ケガに悩まされることも多く、2004年にアシックスへと移籍。2005年に日本代表に復帰を果たし、大陸対抗W杯では4継で銅メダルを獲得した。翌年のアジア大会100mで6位入賞を果たし、2009年に引退した。