「ドーハの悲劇」をベンチから見た澤登正朗 イラク戦は「自分が呼ばれると思ったら...」
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第23回
「ドーハの悲劇」をベンチから見ていた若き司令塔の回顧録〜澤登正朗(2)
(1)澤登正朗はドーハ入りし「W杯に行ける」と確信していたが...>>
アメリカW杯アジア最終予選、日本は初戦のサウジアラビア戦を0−0と引き分けて、勝ち点1を獲得。ポジティブなドローで選手たちの表情は明るく、2戦目のイラン戦に向けて順調に調整を進めていた。
だが、2戦目のイラン戦は苦戦を強いられた。前半44分に先制されると、後半40分に追加点を奪われて2点のリードを許した。その後、残り時間が少ないなかで途中出場の中山雅史がゴールを決めて1点差に迫ったが、結局1−2で敗戦。W杯出場に早くも赤信号が灯る状況に追い込まれた。
「この時(の試合直後)は、さすがにちょっと落胆ムードになっていました。Jリーグが始まって、W杯に出るか出ないかで(日本サッカー界の)状況が大きく変わるわけじゃないですか。そのためにも勝たなければいけない試合を落としたショックがありましたし、自分たちへの期待も大きかったので、雰囲気は暗かった。
でも、控室でテツさん(柱谷哲二)が『まだ終わってないぞ』と叱咤激励して、みんなのムードが少し変わりました」
イランに負けたことで、指揮官のハンス・オフトはチームの戦術を見直した。選手の調子の善し悪しも見定めて、3戦目の北朝鮮を前にして練習段階からメンバーを入れ替えた。高木琢也が出場停止になったこともあり、中山や長谷川健太らがスタメン候補に挙がって、澤登は自身にもチャンスがあると踏んでいた。
「出場のチャンスが来た時、いかにいいパフォーマンスを発揮するか。そのことだけを考えていました。
ただ、(自分は)そこまでの試合に出ていないので、パフォーマンスを落としてしまうことが心配でした。それで昼間の暑いなか、僕はゴンちゃん(中山)や大嶽(直人)らと一緒に走りにいっていました。そうやってコンディションを整えていました」
迎えた北朝鮮戦で日本は、高木に代わって中山を先発に起用。前線の右サイドには福田正博に代わって長谷川健太が、左サイドバックには三浦泰年に代わって勝矢寿延が入った。
この起用がハマって、北朝鮮戦は3−0と快勝した。ベンチから見ていた澤登は先制ゴールとダメ押しの3点目を決めたカズ(三浦知良)の決定力に「凄味を感じた」という。
「カズさんは本当にすごい選手でした。ブラジルで結果を出して、日本に戻ってきてすぐ、(日本代表の)エースになった。そんなにスピードがあるわけではないですけど、フェイントの動作が素早くて、相手の逆を取るのがうまい。そして、シュートが抜群にうまい。
昔、一緒に練習をしたことがあったんですけど、キレが違うなって思いました。大事な試合でしっかりゴールを決められるのは、ブラジルでの経験が大きかったと思いますし、"エース"としての強い自覚があったからだと思います」
澤登はこの時、カズの決定力、イラン戦、北朝鮮戦と2試合連続でゴールを決めた中山のラッキーボーイ的な存在がチームに勢いを与えたと思っていたが、それでもチームの中心はラモス瑠偉だと見ていた。
北朝鮮戦でも、ラモスは鬼気迫るプレーで相手を翻弄。味方を鼓舞し、攻撃では終始チームをリードしていた。澤登はその姿を見て、ラモスとの距離は「まだ遠いな」と感じた。
澤登は当時、「ラモスの後継者」と言われ、一時はポジションを奪いそうな勢いを見せた。だが、最終予選では控えに回り、出場機会が訪れることはなかった。
「ラモスさんのゲームを作る能力、コントロールする力はかなりすごかった。仲間から信頼されているからこそ、ボールが集まってくるんです。僕もラモスさんのようにゲームをどうコントロールするかっていうのを求められていたんですけど、ラモスさんほどの力がなかった。
また、ラモスさんはメンタルも強くて、少しでも気が緩んでいる選手がいたら『ふざけんなよ』と怒鳴りつけていました。僕もハーフタイムで怒られないようにしようって、いつも思っていましたね。そういうなかで、僕はラモスさんと同じことをするのではなく、セカンドストライカーの役割を果たすとか、自分ができることをやろうと思っていました」
カズとラモスというエースと大黒柱が活躍し、中山という新たなスターが登場。翌日から、昼間に走っていた面々から中山の姿が消えた。中山はサブからレギュラーへと一気に階段を駆け上がり、日本の躍進のシンボル的な存在になっていた。
北朝鮮戦に勝利し、チームのムードがガラリと変わったことを澤登は感じていた。
「あの勝利はすごく大きかった。また、上位2チームに入る戦いに戻れたので、次の韓国戦に向けてすごくいいムードで入っていけたことを覚えています」
4戦目の相手は、韓国。国際大会でことごとく日本の前に立ちはだかってきた宿敵だ。澤登もバルセロナ五輪予選で韓国に苦杯をなめ、その強さはよく知っていた。
「当時の韓国は、うまくて強かった。勝つ確率は低いと思いながらも、誰もが韓国を倒さなければアメリカには行けないと思っていました。そうした状況にあって、北朝鮮に勝った勢いがあったので、気分的に乗ったまま試合に臨めたのは大きかったと思います」
日本はカズのゴールで先制し、その1点を守りきって1−0で韓国を撃破した。
この結果、日本は首位に浮上。最終戦のイラクに勝てば、初めてのW杯出場を手にするところまでたどり着いた。
「(韓国に勝ったのは)うれしかったですね。バルセロナ五輪予選でも負けていた相手ですし、この最終予選でも最大のライバルと見ていましたから。
韓国には負けられないと思っていましたし、韓国からも『日本だけには(負けられない)』という思いの強さを感じた。そういうなかで、カズさんがゴールを決めて勝った。チームの雰囲気は最高潮になり、控室ではみんな、W杯行きを決めたかのように大声を出して喜んでいました」
試合後のロッカールームは、勝利の喜びで選手みんなのテンションが上がっていた。しかし、そのなかでひとりだけ、苦虫を噛み潰したような顔をした選手がいた。
ラモスである。ロッカールームで喜びに沸く選手たちに向けて、彼は「まだ、何も終わっちゃいないぞ」と釘を刺した。
「ラモスさんはいつもそうでした。実際、その勝利に浮かれて次の試合に負けたりしたら、韓国戦の勝利の意味がなくなってしまいますからね。ラモスさんは勝利に対するこだわりが本当に強くて、『喜ぶのは全部終わってから。そのあとに喜べばいい』と言っていました」
1993年10月28日、最終予選の最後の相手はイラクだった。
試合はタフな展開になった。日本はカズのゴールで先制したが、後半9分に同点ゴールを奪われてイラクに追いつかれた。だが、それから15分後、中山がゴールを決めて、日本が再びリードを奪った。
「ゴンちゃんのゴールはちょっとオフサイドっぽかったけど、決まった時は『あ〜、これで決まったな』と思いました。安心しちゃいけないけど、流れ的には『このまま終わるだろう』と思っていました」
日本に突き放されたイラクは、攻撃のギアを一段と上げてきた。その対応に苦慮していた日本は、ラモスがピッチ上からしきりにベンチに向かって声を張り上げていた。フレッシュな中盤の選手の投入を要求していたのだ。
だが、オフトは前線の中山に代えて、同じFWの武田修宏を送り出した。
「苦しい時間帯が続いて、中盤のところで守備の仕事ができる選手、(ボールを)持てる選手が必要だなって思っていました。それで、キーちゃん(北澤豪)か、僕とかが呼ばれるのかなって思っていたら、武田さんで......。『あれ? 守備をなんとかしないといけないんじゃないの』って思いましたね。
この時、正直(自分が)出たかったです。でも、武田さんが出て、『もうチャンスはないな』って思いました。
それからアディショナタイムに入って、試合が終わった瞬間にはピッチに駆け込んで、みんなのところにいこうと準備をしていました。そうしたら『えっ!?』ってなって......」
1994年W杯アジア最終予選、目の前にあったW杯の出場切符を逃した日本代表
アディショナルタイムに入ってから、イラクがCKを得た。ショートコーナーからゴール前にクロスを上げると、ニアサイドにいたオムラムがヘディングシュートを放った。GKの松永成立がそれに反応できず、ボールはそのままゴールに吸い込まれていった。
その刹那、何人かの選手がピッチ上で崩れ落ち、カズは何が起きたのかわからない表情で周囲を見渡していた。ベンチにいた中山は手で顔を覆って倒れ込んだ。歓喜の瞬間を待ち構えていた澤登も、頭のなかが真っ白になって「これじゃあダメじゃん、ダメじゃん」と小さく呟いた。
2−2のまま終了のホイッスルがなり、日本は得失点差で3位に転落。W杯初出場のチャンスを逸した。
試合終了後、柱谷は号泣し、ラモスはピッチに座り込んで頭を抱えた。松永は相手のシュートに反応できなかった悔しさからか、涙が止まらなかった。
イラクの執念にも似た攻撃に、澤登は国際試合の怖さを感じた。
「(イラクが)最後のCKで変化をつけてくるなんて、僕らには想像できなかった。カズさんはすぐに反応して(相手のチェックに)行ったけど、少し遅れた分、振りきられてしまった。『まさか』っていうのが、みんなあった。それで、ボールウォッチャーになってしまった。
終盤の最後の最後で(日本の選手は)疲労感がマックスだったでしょうし、虚を突かれたのもあって(みんなの)対応がズレた。そういうのを突いてくるイラクは強かったですし、『僕らはまだまだだな』って痛感させられました」
オフトはピッチ上に倒れ込んでいた選手ひとりひとりに声をかけ、ねぎらいの言葉をかけていた。澤登はベンチから動くことができなかった。あまりに衝撃的な出来事に記憶すら失って、ロッカールームでオフトが話していたことも何も覚えていなかった。
「宿泊先のホテルに戻っても、『ラスト、何かできなかったのか』――そればかり考えていました」
終盤、劣勢にあった日本。澤登が監督だったら、どう対処したのだろうか。
「僕だったら、前の選手ではなく、相手ボールに対して厳しくチェックに行ける選手を入れたでしょうね。押し込まれた時間帯が続いていたので、キーちゃんとか、僕とか、あるいはセンターバックを入れてもよかった。そこで、とにかくボールに行けば、もう少し状況を変えられたと思うんです。
たぶんオフトさんは、前の選手を入れて相手DFにプレッシャーをかけて、うしろから前にフィードさせないようにしようという狙いがあったのかな、と。うしろで対処するのではなくて、前から対応したかったと思うんですが......」
ホテルの部屋では、選手が各々集まって飲み始めた。沈痛な面持ちの選手たちに、澤登は何も言えなかった。
「あの雰囲気のなか、とても『次があるから』なんて言えない。僕は、ほとんど黙っていました」
静かな酒席では時折、選手のすすり泣く声だけが響いていた。
(つづく/文中敬称略)(3)澤登正朗の「ドーハの悲劇」後日譚>>
澤登正朗(さわのぼり・まさあき)
1970年1月12日生まれ。静岡県出身。東海大一高(現・東海大翔洋高)、東海大を経て、1992年に清水エスパルス入り。以来、2005年までエスパルス一筋でプレー。「ミスター・エスパルス」と称され、チームの顔として活躍した。Jリーグ初代新人王。1999年にはベストイレブンに選出される。日本代表ではハンス・オフト、パウロ・ロベルト・ファルカンが指揮官を務める時代に奮闘。その後、代表からは遠ざかるも、フィリップ・トルシエ率いる代表で一時復帰を果たした。国際Aマッチ出場16試合、3得点。2013年から常葉大学サッカー部の監督を9年間務め、現在はエスパルスユースで指揮を執っている。