短期連載:消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
プロローグ

 社会人野球の頂点を争う"真夏の球宴"都市対抗野球大会。今年で第94回を数える大会が始まったのは1927年と、今から100年近く前のことになる。それだけ長い歴史のなかではわずかな期間ながら、突然花火のように打ち上がり、パッと大きく咲いて、散ったチームがあった。

 79年から22年間活動した、プリンスホテル(東京都)。


1989年の都市対抗で優勝を果たすなど社会人野球の強豪だったプリンスホテル

 野球部の結成は78年。翌年から社会人野球協会(現・日本野球連盟)に加盟し、創部2年目で都市対抗に初参戦。83年から92年まで11年連続で出場すると、87年にはベスト4、89年に優勝を果たしている。その後も96年、97年と出場するなど計14回。そのほか、日本選手権では92年に準優勝、スポニチ大会では優勝2回、準優勝2回という強豪にして名門だった。

 90年代半ば以降、不況のあおりなどで企業チームの休廃部が相次いだなか、プリンスホテルも2000年に廃部となった。それでも、22年間でじつに31名がプロ入り。その多くが各チームの主力となり、ある者は大記録を打ち立て、またある者は記憶に残る活躍を見せた。なおかつ、プロに進まなかった選手も含め、現役引退後に数多く指導者になっている。

【プリンスホテル野球部誕生の背景】

 では、なぜ短期間のうちにそれだけの強豪となり、優秀な人材を数多く輩出できたのか──。プリンスホテル野球部創設に構想段階から携わり、監督を務めた石山建一はこう語る。

「プロ以上のアマチュアチームをつくろうと思っていたからですよ。西武グループの総帥、当時はプリンスホテルの社長でもあった堤義明さんに命じられましてね」

 石山は1942年生まれ。名門・静岡高3年時の60年に主将となり、春夏連続で甲子園に出場。打っては3番打者、守っては遊撃手として夏には準優勝を果たす。卒業後は早稲田大で活躍し、石井藤吉郎が監督に就任した64年春のリーグ優勝に貢献。社会人の日本石油(現・ENEOS)に入社後は主将も務め、都市対抗はじめ全国大会で7度の優勝を経験している。

 現役引退とともに退社した1974年。石井の跡を継いで石山が31歳で早稲田大の監督に就任する際、野球部の部長・樫山欽四郎を介して堤との接点ができた。樫山にとって堤は早大の先輩に当たり、当時は西武グループ・国土計画の社長。早稲田大の監督交代の経緯を説明し、石山を国土計画の社員にすることを願い出ると堤は快諾。結果、同社から出向する形で石山は早大の監督となった。

「春と秋、六大学のリーグ戦が終わるたびに国土計画に行って、『優勝できました』『今回はこういう結果でした』と堤さんに報告していました。するとそのうち、堤さんが野球に興味を持ち始めましてね。ある時、『石山、おまえ、早稲田から帰ってきたらチームをつくれ』と言われたんです。それが、プリンスホテル野球部の始まりでした」

 堤はもともとスポーツを好み、国土計画、西武鉄道と2つのアイスホッケーチームを持ち、いずれも一流チームに仕上げている。スキーやスピードスケートを含め、ウインタースポーツの開拓者でありつつ、経営者としてプロ野球にも興味を抱き、東京・品川駅前に球場を造る計画を立てたこともあった。

 しかし、西武グループの創業者で衆議院議長も務めた父の堤康次郎は「野球にだけは手を出すな」と言い遺していた。その遺訓を息子は守り、球団買収には乗り出していなかった。それが76年、プリンスホテル社長に就任した年から状況が変わっていく。赤字経営に苦しむ大洋(現・DeNA)のオーナーに頼まれ、大洋球団の株を3億円で取得して経営に参加したのだ。

 さらに、川崎から横浜への本拠地移転にも堤は関わり、横浜スタジアムの建設資金のうち40億円を捻出。こうした動きから、将来的に西武が大洋を買収するのではないかと見られていたが、堤は球場建設の準備に取りかかる。同時に、プリンス社内で「企業スポーツを何かひとつやらせてくれ」という声が高まったこともあり、石山に「チームをつくれ」と命じたのだった。

「チームだけじゃないんです。『球場をつくれ』とも言われまして。実際には、球場を設計した建築家の先生にアイデアを進言したんですが、それが西武球場(現・ベルーナドーム)になるんです。ただ、その時はあくまでプリンスの本拠地として考えられていたのと、堤さんには、プロ野球のチームを呼んで試合を興行する構想がありました。要は、貸球場として建設したんです」

【新球場建設と球団買収】

 堤が集客の目玉として考えていたのは、巨人の地方遠征試合の誘致だった。だが、巨人の地方遠征は、親会社=読売新聞の販売戦略に不可欠なもので、すでに優位に立つ首都圏の貸球場で興行する必要はない......。結局、構想は頓挫するのだが、球場の建設は始まっていた。そして、そんな時に、クラウンライターライオンズのオーナーが堤に身売り話を持ちかけてきたのだ。

 78年の夏のことだった。球団経営が行き詰まっていたクラウンから、半ば押しつけられたも同然だった。しかしながら、クラウンはじめ他球団の経営者からすれば、新球場を建設中でもある西武グループが球団を買収しない理由はどこにもない、といった見方になる。必然的に、西武ライオンズ誕生の道ができた。

 買収に当たっては、西武が所有していた大洋の株を売却する必要があった。球団運営と試合の公正を保つため、複数の球団の経営に携わることは野球協約で禁じられているためだ。売却先はニッポン放送とTBSで、3億円で取得した株は12億円になったといわれ、これがクラウン球団を買収する資金となった。その一方、プリンス野球部は前年から準備が進められていた。

「プリンスホテル野球部と西武ライオンズが同じ時期にできた、というのはたしかなんですが、実際には、最初にプリンスをつくって、次に球場をつくろうとして、つくり始めたところに身売り話が来てライオンズなんです。それで私は早稲田の監督をやりながらプリンスのチーム編成に取りかかっていたんですが、あらためて、ホテルという場は野球に強いなと思いましたね」

 ホテルは宿泊するだけではない。高校、大学野球部の優勝祝賀会、OB会、企業のパーティー、選手の結婚披露宴等々、支配人とアマチュア球界との接点が数多く生まれる。当時、西武グループが経営するホテルは全国に37カ所あった。そこで石山は、各地のプリンスホテル支配人を中心に自ら作成した選手リストを配布し、スカウティングへの協力を求めた。

「最初、堤さんは早稲田出身の選手だけで社会人チームをつくろうとしていました。そこで、もっと強くするためには──と進言して、東西の大学の優秀な選手を集めることになったんです。私自身、大学の全日本チームにコーチとして同行した際、『オレがチームつくるから、卒業したらみんな来い』と声をかけたこともありました」

【プロ以上のアマチュアチームをつくる】

 78年9月18日、堤は自ら記者会見に臨み、プリンスホテル野球部の結成を発表した。会見のなかで堤は、「ウチはアイスホッケーでも全日本クラスしか獲っていない。野球選手もプロからドラフトされるような選手でないと意味がない」と発言。この言葉に大学側は当惑し、堤が西武ライオンズのオーナーとなってからは、プロの他球団が疑念を抱くことになる。

 同一資本が、プロとアマの野球チームを同時に持った前例はなかっただけに、「西武はプリンスを実質的なファームにして、ドラフト外でトンネル入団させるのではないか」と。

「たしかに世間では『プリンスは西武のトンネル会社だ』とか言われて、騒がれました。西武でフロント入りした根本陸夫さんから、協力を求められたこともありますよ。でも、私自身はまったくそんな考えを持ってなくて、とにかくプロ以上のチームをつくりたかった。理想は、ちまちました野球ではなく、ダイナミックでスピーディーなベースボールをやるチームでした」

 監督にはかつて慶應義塾大を率い、日本通運で都市対抗優勝の実績もある稲葉誠治が就任。石山は78年秋のリーグ戦で早大を優勝に導いて監督を辞任し、プリンスでは助監督になった。ただ、チームづくりは石山に一任され、采配も任されていた。

 では、「プロ以上のアマチュア」を理想に掲げたチームの現実はどうだったのか。プリンス野球部でプレーした元選手たちの証言をもとに、高々と打ち上げられた花火が消えるまでの22年間を振り返っていきたい。

次回につづく

(=文中敬称略)