「木樽のシュート、成田のスライダー」。1970年のロッテで輝いたライバル
「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第30回 木樽正明・後編 (前編「320勝投手の怪奇現象ピッチングに新人が驚愕」を読む>>)
「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ企画の30回目。1965年、夏の甲子園で準優勝した銚子商のエース・木樽正明さんは、ドラフト2位で東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団し、"精密機械"と呼ばれた大投手・小山正明と出会う。
のちの320勝投手から下半身の大切さを学んだ木樽さんは、先発に、リリーフにと獅子奮迅の熱投。親友であり、ライバルでもある成田文男からは必殺のスライダーを教わり、チームに優勝を、自身にはタイトルをもたらした。しかし、その全盛期は長くは続かず、まだ29歳での早過ぎる引退を余儀なくされるのだった。
1970年の日本シリーズで木樽(右)に打ち取られ悔しがる長嶋茂雄(左)。真ん中はサードの有藤道世(写真=産経ビジュアル)
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今では本当に考えられないことだが、プロ2年目、1967年の木樽さんは44試合登板で146イニングと、当時の規定投球回数140を超えていた。そのなかで先発が12試合あって、救援は32試合。先発で平均7イニングを投げたとして、救援では平均2イニングほど投げていた計算になる。
「2年目の秋口から腰がつぶれてきて、3年目は治療に専念して。腰痛治療の大家という先生を訪ねたら『これは野球をやる体ではない。まだ若いし、やり直し利くから、野球やめなさい』と。それはできないから、というので教えてもらったのが、体幹を鍛えること。特に背筋を鍛えて、筋肉を鎧(よろい)にしろと。骨に負担がかからないように筋肉で固めろと。わかりやすく言えばそういうことですね」
腰の治療に専念した3年目、68年の木樽さんは5試合の登板に終わったのだが、つらかった記憶も、さばさばと語られる。その様子から、1970年に発行された文献の記述が想起された。そこには〈もともとカラッとした性格で、選手、報道陣問わず、誰かれとなく愛される〉とあった。
「もちろん、ほかにもいろんな治療をしましたけど、ひとつ、当時監督の濃人渉(のうにん わたる)さんが広島の出身で、『鍼(はり)の先生がいるから行ってこい』って、広島に行ったときに言うわけ。
それで行ったところが、金鍼って言って、場所にもよるけど、ポンポンポンって1センチなり、2センチ、入れるでしょ? 入れたらハサミで切ってね、中に埋め込むんです。金は軟らかいから切れるのね。こっちは藁(わら)をもつかみたい気持ちだから、治るんだったらと」
鍼を、切って、体に埋め込む......。再び「えぇーっ?」と声を上げるしかなかった。
「鍼を体に埋め込むなんて、西洋医学の立場から言うと『邪道中の邪道』なのね。でも私にはそれがよかったのか、まあ、それがすべてじゃないにしても、悪いほうに作用したことはなかったんです」
体にメスを入れる以上に壮絶......と感じられる治療とリハビリを経て、腰の状態が改善した木樽さんは4年目の69年に復活。かねてから"投手分業制"を提唱し、実践していた近藤貞雄(元・中日ほか)が投手コーチに就任し、再び抑えを任された。
69年の木樽さんは15勝を挙げ、1.72という数字で最優秀防御率を獲得している。今の時代にこの記録とタイトルだけを見れば、当然、先発ローテーション投手と思い込むところだ。が、実際には51試合に登板したうち、先発はわずか6試合。それでいて規定回数を超える162イニングを投げたからタイトルの対象となったのだ。
ただ、当時はまだセーブ制度もホールド制度もなく、抑えのみならずリリーフの投手に対する球団の評価は格段に低かった。そこで木樽さんは抑えを拒否し、首脳陣に先発起用を納得させたというから、当時22歳にして、強気に出られるだけの精神性とプライドを持っていたようだ。
「先発するためには真っすぐとカーブ、シュートだけじゃ持たないから、そこでスライダーを教わったのが成田さんなんです」
「木樽のシュート」と並び称される「成田のスライダー」。東京・修徳高で64年夏の甲子園に出場するも2回戦で敗退した成田文男にとって、1年遅れで入団した甲子園準優勝投手の木樽正明はチーム内のライバルだった──という話を読んだことがあった。それだけに、まさかライバル相手にスライダーを教えていたとは......。
「普通は教えてくれないですよ。今でいうカットボールみたいな、すごく滑っていくスライダーはあの人の命。言ってみれば"企業秘密"だから。でも、見てるうちに、自分が投げられたらいいだろうなあと思って『教えてください』と言ったら、親身になって教えてくれたんです。
だから、ライバルであり、友だちであり、私から見ればひとつ上の兄貴的な感じでね。それはもう面倒見てもらいました。飯食い行くのも、飲みに行くのも、ずいぶん二人で行って。大変お世話になったのに亡くなってしまってねえ。もう7年前ですか。残念ですけど、私は本当に成田さんに感謝してますよ」
むしょうに会いに行きたくなるが、それはもう無理な話。その成田は現役晩年に日本ハムに移籍し、実働17年で通算175勝を挙げ、68年から3年連続20勝以上のエース。70年には25勝で最多勝に輝き、ロッテのリーグ優勝に大きく貢献しているのだが、MVPには21勝の木樽さんが選出された。
「私はそのとき、抑えもやっていたんですね。それを記者の人たちが評価したと思うんだけど、エースとしては成田さんのほうが一枚も二枚も上。その点では、成田さんに追いつき追い越せでね、一緒にやった自主トレでもライバル心むき出しでやってましたね」
そして迎えた巨人との日本シリーズ。結果的に1勝4敗で敗れたが、第1戦に先発した木樽さんはエースの堀内恒夫と投げ合い、延長10回までゼロに抑えた。が、堀内も11回まで零封していたその裏、木樽さんは先頭の黒江透修(ゆきのぶ)にサヨナラ本塁打を浴びた。それでも紙一重だったと言えるのではなかろうか。
「いや、私はやっぱり巨人はすごいなと思った。もちろん、そのときはV6の年ですから、ONを中心に完成されたチームというすごさもあるんだけど、ピッチャーとして、バッターがみんなフルスイングしてくるのがすごいなと。
それでこれは後々、私が巨人に移って一緒に仕事をした人間に聞いた話なんだけど、当時、私に限らずロッテのピッチャーが投げる球がわかっていたと。わかっていたからフルスイングできたと。それだけ警戒して、相当、事前に調べていたわけですよ」
木樽さんはおもむろに両手を挙げ、両目の周りに輪っかを作った。それは双眼鏡の形そのもので、70年代から80年代のプロ野球界で横行していたという"スパイ行為"を象徴する。現在では禁止されているが、双眼鏡や望遠鏡でセンター後方の観客席から捕手のサインを盗み見て、無線機などでベンチに球種を伝達。その球種を声や機器で打者に伝える、というものだった。
後年、野村克也をはじめ、当時を知る何人かの球界OBがその手法などをマスコミ上で明かしているのだが、V9時代の巨人にも同様の行為があった内情を木樽さんは無言で示した。事前に球種がわかったところで、打者は必ずヒットを打てるものではないだろうが、打たれた投手としては、決して強打者ではない選手にも迷いなくフルスイングされたことに納得できず、疑問も感じていた。
ただ、その第1戦、木樽さんは巨人打線に10本のヒットを浴びたものの、10回0/3を投げて失点1、奪三振2、四球3だった。初の大舞台にして、十分過ぎる投球内容と言えるだろう。まして、同年の日本シリーズ全5試合のうち4試合に登板と、大車輪の働きだったのだから。
「でも、負けたんだから悔しいだけですよ。なんとか次に雪辱しなきゃいけない。それこそ、私は銚子商のときからね、負けた悔しさをバネにして、次のチャンスがあったら絶対に取り返す、という気持ちでやってきましたから。この負けも励みになったのは確かです」
翌71年の木樽さんはスライダーを習得した効果もあり、24勝で最多勝。パ・リーグが前期後期制となった73年から金田正一が監督に就任すると、ロッテは74年に後期優勝。前期優勝の阪急(現・オリックス)とのプレーオフを3勝0敗で制し、リーグ優勝を果たす。
「できれば、日本シリーズは巨人と戦ってやり返したかったんですが、その年は中日が勝ってね。目標を日本一と掲げて臨みました」
すると同年13勝の木樽さん自身、日本シリーズでは2勝2敗で迎えた第5戦に先発し、2安打完封でシリーズ初勝利。結局、第6戦も勝ったロッテが4勝2敗で日本一となった。
「ただ、そこから急に力が落ちてね。私は腰が悪いなかで、金田さんはとにかく"走れ走れ野球"でしょ? もちろん、監督の方針どおりに走らなくちゃいけないんだけど、痛いときに無理しないでうまく調整していたら、力の落ち方が少し緩やかになったかなと思いますね。
でもそれはそれとして、ピッチングはもとより野球に対する考え方、食事を含めたコンディションの作り方、すべて野球中心の生活が大事ということを金田さんから教わったのは大きかった。自分が指導者になったときに大いに反映しましたから」
75年は30試合登板で5勝14敗、76年は14試合で0勝2敗に終わった木樽さんは、同年限りでの引退を決断した。
「選手には二通りあるでしょう? ボロボロになるまでやる人と、太く短く生きて引き際を考えてやめる人と。私はその後者のほうで、自分のボールを投げられていってるつもりがバーンって打たれて、力が落ちているのを自覚したときにね、もうそろそろ、やめどきだなと。
今の流行りの言葉で言えば、『自分のパフォーマンスができない』という。球団は留めてくれて、金田さんも留めてくれたんですけど、『申し訳ないけど、これで引退させてください』ということでね。実際、朝起きても、体を屈めて顔を洗う姿勢ができなくなっちゃって、ああ、これでもう終わりかなと」
言いながら木樽さんは、洗面台に両肘を置いて顔を洗う動きを再現した。29歳の若さでの現役引退は、登板過多による腰の故障が要因だったのだ。
取材当時の勤務先・銚子市体育館の事務室で語る木樽さん
引退後はロッテの一軍、二軍で投手コーチを務め、二軍監督を2年間、スカウト部長を11年間続けたあと、巨人に移って9年間、プロスカウトとコーチ。さらには社会人野球のJFE東日本、母校・銚子商でも指導して現在に至るが、現役生活は11年間だったプロ野球の世界で、引退後、30年近くも仕事を続けられたのは立派な才能だろう。
「その世界にずーっとお世話になるって、誰もができることではないからね。いろんな経験をさせてもらって、ありがたかったなと。ただ、私はこうして行政アドバイザーの仕事をさせてもらっているけど、今でも腰が持病でね、無理はできないんです。だんだん腰が曲がってきてるし。ふふっ。70も過ぎればそれも仕方ないと思うけど」
とはいえ、面と向かって1時間半、一度もソファに深く腰掛けることなく、背筋もピンと伸びたままだ。僕はふと、今も木樽さんの体に眠っているはずの金の鍼を想った。
「たまに腰が痛くなって医者に行くでしょ? レントゲン撮ると鍼がまだ残ってるわけ。『何ですか! これは。こんな異物が体にあるのはダメですよ!』って叱られるわけ。私は腰だけじゃない、右膝、肩、肘にも入ってるから。ふふっ......。話はもう、いいですか? じゃあ、あとで昼飯食いに行きましょう」
(2018年10月31日・取材)