稲盛和夫氏と現・KDDI(第二電電)を立ち上げた千本倖生氏が、今だから伝えたいこととは(写真:Akio Kon/Bloomberg)

NTTの前身となる電電公社から転じ、京セラ創業者の稲盛和夫氏とともに民間の電話会社「第二電電」を1984年に設立し、KDDIを育て上げた千本倖生氏。イー・アクセス、イー・モバイル(現ワイモバイル)を次々と立ち上げた連続起業家でもあり、現在は再生可能エネルギーの普及を進めるレノバの会長を務める。

第二電電の設立当初は社員30万人の巨大企業に数人で立ち向かった。その姿は「巨象に立ち向かうアリ」とも揶揄されたが、今のKDDIは誰もが知る大企業となった。

裏側では何があったのか。不確実な時代に一歩踏み出す勇気をどう培ったのか。千本氏が書き下ろした新刊『千に一つの奇跡をつかめ!』から第二電電設立前後の経緯を綴った章を抜粋、一部再編集して3回に分けてお届けする。

巨大企業のトップに新会社設立を直談判

いまをさかのぼること40年ほど前、大阪の伊丹空港で、私はある一人の人物の到着を待っていました。

その人物とは当時、初の民間出身の総裁として日本電信電話公社(現・NTT、以下電電公社)のトップを務めていた真藤恒氏です。

そのときの私は、その電電公社に籍を置く課長職の社員にすぎませんでした。当時の電電公社といえば、社員30万人という巨大組織。その頂点に立つ真藤氏は、一社員から見れば雲の上の人で、本来私ごときが簡単に会えるわけはありません。

しかし私には、どうしても真藤氏に直接会って、伝えなければいけないことがあったのです。

何かよい手はないものかと思案していたとき、たまたま真藤氏が講演の仕事で大阪を訪れ、その日のうちに本社のある東京へ戻ることを知りました。偶然にもその日は、当時大阪勤務だった私が東京へ出張する予定の日でもあったのです。

「千載一遇のチャンスだ!」──私はすぐに氏が乗るのと同じ飛行機に搭乗の予約を入れました。

早目にチェックインした空港の待合室で、私はかなりの緊張を感じながら氏の到着を待ち受けました。総裁の移動には秘書役が必ず随行することになっていて、このときに随行していたSさんとは、以前から面識がありました。そのS秘書役は当然、真藤氏のとなりの席に座るはずです。

そこで、やがて姿を現したSさんに駆け寄り、私は総裁にどうしてもお伝えしたい話があるので、申し訳ないが、飛行中の席を代わってくれないかと頼み込みました。ありがたいことに、Sさんはしばらく黙考されたあとで、「いいでしょう」と快諾してくれたのです。

機内に入り、私は突然のぶしつけを詫び、簡単な自己紹介をすませると真藤氏の横に座りました。秘書が座るべき隣席に、顔も知らない社員がいきなり割り込んできたのだから、真藤氏もさぞかし驚いたことと思います。無礼を叱責されても仕方のない場面です。

しかし、氏は一瞬、いぶかしそうな表情を浮かべたものの、悠然たる態度を崩さず、飛行機が離陸するのを待ってから、「何か私に話があるのか」と落ち着いた口調で話しかけてきてくれました。

氏がおだやかな表情で耳を傾けているのを確かめつつ、私は真剣をサヤから抜くような気持ちで、もっとも肝心な一言を口にしました。

「実は、私は公社を辞めて、その競争相手となる会社をつくろうと思っています」

その瞬間、氏はするどい視線を私の顏に向けました。そして「君が?」と疑わしそうにつぶやきましたが、私が本気であると悟ったのでしょう、こう問い返してきました。

「一人で、ではないだろう?」

「はい」

「誰とやるつもりなんだ」

「京セラという会社をご存じですか? そこの稲盛さんと一緒にやるつもりです」

「賛成とはいえない。しかし、黙認する」

その名を聞いて、氏はけわしい顔をふっと緩めたように見えました。「そうか、稲盛くんとやるのか──。彼と組むのなら、うまくいくかもしれないな」

そして、しばしの沈黙のあと、真藤氏はこういったのです。

「私は電電公社の総裁という立場にある以上、ライバル会社をつくることに賛成とはいえない。しかし、君がそこまで通信業界の将来を考えて、稲盛くんとともにやるというのなら、君の行動を黙認する」

その頃の私は、当然ながら社内で猛反発に遭っていました。裏切り者呼ばわりされるだけでなく、公社の上層部から呼び出されて、君の退職は絶対認めない、それでも辞めるというのなら、新会社が立ちゆかないようにしてやるといった恫喝まがいの言葉で叱咤されることも一度や二度ではなかったのです。

そんな状況のなかでの直談判だったので、真藤氏からも叱責を受けることをなかば覚悟していました。

しかし真藤氏は、市場には競争が必要不可欠で、それがないところには進歩も発展もないことを私以上によく理解しておられたのでしょう。

立場上、「よし、やってみろ」とは口に出せないものの、黙認というかたちで私の挑戦の正当性を認めてくれ、暗黙のうちにも「がんばれよ」と共鳴やエールを送ってくれたと私には感じられました。

ふところの深い氏のそんな姿勢に私は深い感謝と感銘の念を覚え、「ありがとうございます」とふかぶかと頭を下げました。

あの変革期に真藤氏が総裁にならなければ、また、氏の進取的な洞察力に富んだ民営化論に刺激を受けなければ、「競争相手をつくろう」という私の野心的な意思や意図は胸の底にしまわれたままであったでしょう。

同じように、氏の「黙認」を得られなかったのなら、やはり私は新しい通信会社の設立には躊躇したまま踏みきれなかったかもしれません。

そういう意味でも、真藤恒氏という人物は、それまでとは異なる新しく広い人生に向けて私の背中を押してくれた恩人ともいうべき人でした。

真藤氏は、私たちが第二電電を創業したのち、ある困難に直面したときにも、競争相手という垣根を越えて、さりげなく助け舟を出してくれました。

私が人生においてコペルニクス的大転換をするにあたって、静かにあたたかく背中を押してくださったのが真藤氏だったのです。

飛行機の中での「ゲリラ的直談判」によって電電公社総裁の真藤氏の言質を得たその翌日、私は20年近く勤めた電電公社に辞表を提出しました。

こうして私は、定年まで勤めれば生涯安泰といわれていた当時の巨大企業だった電電公社を飛び出し、第二電電の設立に向けて、新しい出発をすることになったのです。

健全な競争のためにライバル会社の必要性を説く

その当時、わが国の通信業界を取りまく状況は大きな変革期にありました。

1980年代の初頭、中曽根康弘政権は行財政改革を主目的とする臨時行政調査会を設置。朝食のおかずはいつもメザシだというエピソードでその質素で堅実な人柄が広く知られていた土光敏夫さんが会長を務めた、いわゆる土光臨調です。

ここで提言されたのが日本国有鉄道(国鉄)、日本専売公社、そして日本電信電話公社の三公社の民営化でした。

これを受けて、私の所属していた電電公社内部にも改革への胎動が兆して、通信業界全体に自由化の波が押し寄せる時代が幕を開けたのです。

この黎明期に、公社の内部改革のリーダーシップをとり、あわせて公社民営化の必要性をしきりに説いておられたのが、当時総裁の座にあった、真藤氏でした。

その企業体質を官業に特有の尊大な「殿様商売」から、お客様重視の経営へと変えるべく腕を振るっていたのです。

当時の通信業界は電電公社による一社独占の市場であり、少しも競争原理が働かないいびつな状態にありました。競争がない市場というのは流れのないよどんだ貯水池のようなもので、そこにはいろいろな弊害が生まれてきます。そのあおりを受けるのはいつもユーザーです。

一例を挙げれば、当時のわが国の市外電話料金は異常に高いものでした。世界的な水準から見ても、何十倍というレベルの高額な価格が維持されており、それはひとえに競争相手が不在の一社独占体制が原因となっていました。

「高いなあ」と利用者が不満を覚えても、ほかに選択肢はありませんから、公社が決めた唯一の料金に従って電話を使わざるを得ない。いまでは考えられないことですが、当時はその「不健全さ」が当たり前だったのです。

また、当時を知る人ならご記憶にあると思いますが、家に(固定)電話を一台引くだけでも、やはり高い保証金をとられるなど、国営企業が市場を支配することの弊害か、特に弊害とも意識されずにまかり通っていました。

そんなゆがんだ状態を突き崩して、お客様本位のサービスを実現するには、官業である公社の民営化が前提条件であることはいうまでもありません。

ライバル会社の存在が必要だった理由

しかし、公社の硬直的な体質や組織メカニズムを内部で熟知していた私には、たんに公社がNTTへと民営化されるだけでは、おそらく一社君臨の支配体制はそのままもちこされて、お客様の利便性やサービスの向上には役に立たないであろうことも、料金もけっして安くはならないことも、明白であるように思えました。

公社の体質改善や民営化は不可欠ですが、そこからさらに一歩踏み込んで、公社に対抗しうる、純粋な民間資本の競争会社が必要ではないかと思うようになっていました。


「公平で健全な競争の実現のために、どうしてもライバル会社の存在が必要になる」

それは当時としては時代にさきがけた、ちょっと進みすぎた考えでしたが、私はその考えを公社の中でも臆せず公言するようになっていきました。

あたかも天動説全盛の時代に、一人地動説を唱えるようなものです。周囲から異端者や反乱者呼ばわりされるのも無理はなく、理解者もいなくて当然だったかもしれません。

しかし、そんな状況だったからこそ自分でも制御できないほど内圧が高まって、私は公社を辞める一年半くらい前から、「新しい会社をつくりたい、つくらなければならない」という独り言を口ぐせのようにつぶやくのが習慣となっていました。

ほかに誰も手を上げないのなら、私自身が率先して会社をつくるべきだ。それが「(世界を)見てきた者の義務」ではないか。そんなふうにも考えるようになったのです。

いまでいうベンチャースピリットやアントレプレナーシップ(起業家精神)が私のなかで生きもののようにうごめき出していました。

(第2回に続く、4月18日配信予定)

(千本 倖生 : レノバ会長)