やっと夢を叶えても、続けることも厳しい「プロ野球選手」。戦力外通告を受けた選手たちは、第二の人生をどのように歩むのでしょうか(写真:Yuri Arcurs Peopleimages/PIXTA)

毎年、100人弱の若者がプロ野球選手としての人生をスタートさせます。しかし、その中で一軍に定着して10年以上プロ野球選手として活躍する人は1割にも満たないといわれています。わずか数年足らずでユニフォームを脱ぎ、「前職 プロ野球選手」と書かれた履歴書を片手に、新たな道を歩み始める者――。ですが、それは絶望ではなく、第二の人生で輝ける道を切り拓いた人も多いのです。

元プロ野球選手の第二の人生に焦点を当てた、ノンフィクション作家・松永多佳倫氏の著書『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』より、華麗なる転身をした元プロ野球選手たちの足跡を一部抜粋・再編集してお届けします。

プロ野球選手となった「元ソフトボール部員」

2011年のドラフト会議は、いろんな意味で前代未聞なことが起こった。この年の超目玉である当時東海大の菅野智之は、意中の巨人以外の指名を拒否する姿勢を敢然に示していたにもかかわらず、日本ハムファイターズが勇猛果敢に1位指名する事態が起こる。ただ、この年の主役はもうひとりいた。ドラフト指名7巡目に入ったときだ。

日本ハム7位 大嶋匠 早稲田大ソフトボール部

アナウンスとともにモニターに大きく映し出された文字は「早稲田大ソフトボール部」と表示されている。ソフトボール部!? 誰しも見間違いか、聞き間違いかと思った。どんなに目をこすってもモニター、もしくはスマホの速報版には「ソフトボール部」と書いてある。異種目からのドラフト指名に、プロ野球界だけでなく世間も驚愕した。

その男の名前は大嶋匠。学生ソフトボール界ではU-19日本代表、大学リーグでは13試合連続ホームランなど輝かしい成績を残したものの、それはあくまでもソフトボールの世界での話だ。

大嶋は常に「僕が凄いんじゃなくて獲ってくれた球団が凄いんです」と謙虚の姿勢を一貫して崩さない。確かにその通りなのだが、大嶋のポテンシャルの凄さと伸びしろに球団は賭けたのだ。決して話題性作りだけで大事な支配下登録の一枠を潰さないことは、本人も重々わかっている。

「プロ野球では成績だけ見たら失敗だと思う人が大半ですけど、自分からしたら満足というか、これ以上やれることはないというところまでやったのでお腹一杯です。でも入ったときから、戦力外通告を受けたら野球を辞めようと決めていました。トライアウトも受けない。ファイターズから『お疲れさま!』と肩を叩かれたらスッパリ辞めようと決めて、プロ野球界に入ったのは確かです」

プロ7年目が終わったオフに戦力外通告を受け、第二の人生を歩もうとする際には、さまざまなオファーがあった。ブルペンキャッチャー、大学のソフトボールの指導者、東京オリンピック組織委員会のソフトボール担当……、20代なら「面白そうだな」と飛びつきそうなものばかりだ。だが、大嶋はどれも食指が動かず断りをいれた。面白そうなだけではうまくいかないことを、大嶋はプロ野球選手としての7年間で思い知らされたからだ。

遠回りはもう極力したくない……。大嶋は、じっと考えた。自分は一体何がしたいのか。自分の意思でやりたいことは何なのか。思いを巡らす最中、記憶の引き出しからポロリと転がり落ちた。

「そういえば、大学卒業したら高崎市役所に行くって言ってたっけ!?」

大学時代の在りし日の思いが蘇る。もうじゃなくて、まだ28歳。少し遠回りをしたが、もう一度追いかけてみてもいいではないか。誰にも気兼ねすることもなく、誰かに背負わされた重い荷物を背負うことなく、自らの意志で決めた道を進めばいいだけだ。大嶋は、生まれて初めて進路について目の前が開けた感じになった。自分で決断した爽快さに肩の荷が下りた。

有言実行。30.8倍の公務員試験を突破した。ユニフォームをスーツとネクタイにし、大嶋は今、群馬県高崎市役所で職員として、市民を支えている。


1990年生まれ、群馬県出身。29歳で高崎市役所の臨時職員に、30歳で正規雇用として第二の人生をスタートさせた(写真:『第二の人生で勝ち組になる』より)

「イップス」で選手生活を断念、もう一度“プロ野球”へ

千葉ロッテマリーンズの元投手、島孝明が引退を決断したのは「イップス」だった。

プロ1年目の8月26日、イースタンリーグでのヤクルト戦、2番手で登板した島は投球練習から指にボールがうまくかからない。3連続四球で無死満塁とするもなんとか二死までこぎつける。

だがそこから2連打と2つの四球による、2/3イニングを2安打、5四球、7失点の大炎上。高校時代は150kmの剛速球を投げ、U-18サムライジャパンとしてアジア選手権大会にも出場した男のプロ通算成績は「一軍公式戦出場なし」だ。島はイップスについて、こう語る。

「突然、きますね。気にしていなかった部分を気にしてしまうっていうか……。例えば、ボールが抜けちゃったといった何気ない思いがきっかけとなり、自分の中で変に捉われてしまうとどんどん悪くなっちゃう。考えて、考えて……よくわかんなくなるパターンですね。

ピッチャーって繊細で、感覚を大事にしたいから、日によっていいな、悪いなというのがあるんですけど、その感覚がなくなっちゃうのが大変でした。どう修正したらいいのか、どう投げていいのかがわからない、何をやってもうまくいかないんですよ」

3年目の春季キャンプは、前年のフェニックス・リーグや台湾遠征の成果が認められ、初の一軍帯同が決まった。今年こそはと思った矢先、第一次石垣島キャンプでまた怪しくなった。うまく投げられなくなってしまったのだ。

ロッテ球団はこうした島の状況から支配下登録を外し、育成での再契約を打診。しかし、島はこの申し出を辞退し引退を決意。球団からお払い箱になったのではなく自ら辞めて、22歳で大学に入学したのだ。こんなプロ野球選手は、長い歴史上、初めてのことだった。

当時、一軍ピッチングコーチに就任したばかりだった吉井理人(現千葉ロッテ監督)に、島について聞いた。

「島はいいものを持っていたんで、何かのきっかけさえ掴めば……と思って見ていました。2019年のフェニックス・リーグのときに相談を受けました。ひとつの案として、育成契約して1年間給料を貰いながら次への準備をするのもありだぞと伝えたんですが、彼はきちんと踏ん切りをつけたいと言い、男らしいと思いました。勉強したいと強い意志を見せる以上、島にとってチャンスなんだと思って快く送り出しました。

島は、しっかり自分の考え方を持って行動できる人間です。とにかく、球団に所属している以上、選手のメンタル面でのコントロールも我々の仕事ですので、島には責任がなく、指導者側の責任です」

こうした吉井の言葉を、島はどう受け止めたのだろうか。

「ここで育成になると1年で切られるかもしれない。その先に未来を感じてなければ自分のしたいことをしたほうがいいかなと、スパッと割り切って考える自分がいました」

島は自分の心にしっかり問い詰め、未来を考えて、即断即決のごとく終止符を打った。2019年12月7日、ロッテ球団は島孝明が現役引退すると発表した。その後、島は國學院大學が元プロ野球選手を対象に設けた『セカンドキャリア特別選考入試』を受け、見事合格。現在は國學院大学人間開発学部の学生だ。

「野球のデータを分析する活動をしているんですけど、ビッグデータをエクセルで処理するには果てしなく時間がかかってしまうため、プログラミングを使ってやっています」

近代プロ野球において、ボールの回転数や打球の速度、角度を計測するなど、あらゆる場面のデータ化と傾向の分析は、もはや“して当たり前”のことだ。客観的なデータを用いることで、データを言語化し、さまざまな事象に対して選手の能力が可視化できるようになれば、競技力向上が見込めるだろう。島にとってイップスで苦しんだ3年間の経験は今、大きな財産となっている。

現在、プロ野球をはじめ多くのスポーツでは、科学的な分析を元にした練習方法や戦術が取られるようになっている。だが、そうした分析をする者が実際に選手として経験を積んだ人間であれば、これほど心強いことはない。島のようなプロ野球経験者が意欲的に研究する時代になれば、日本のプロ野球はさらに発展するだろうし、選手経験のある研究者は必要不可欠な存在となってくるだろう。

島が研究者となって、いずれ野球界に戻ってくる日もそう遠くなさそうだ。


1998年生まれ、千葉県出身。東海大学付属市原望洋高校の3年春に153キロを投げ、一躍注目を浴びた(写真:『第二の人生で勝ち組になる』より)

元プロ野球選手として「初の医師」を目指す男

「医学部に入ったからといって別に医師である父からの助言もなく、ただ『学費はどうなってんの?』とだけ。今のところ全部自分でやっています。それが使命だと思っていますので。金持ちだから行けたんかとだけは絶対に言われたくない。親からは『いつでも言ってこい。貸したるで』と言われるんですが、それでは意味がないと」

自力でやるからこそ意味がある。横浜DeNAベイスターズの元投手で、現在医学生の寺田光輝が野球で教わったことだ。

今まで自由にやらせてもらった恩を返すためにも、親に金銭的な負担だけはかけたくない。これは絶対だった。プロに入ったときも正々堂々と評価されたのと同様に、私立の医学部に行くのも自らの力だけで行きたかった。何よりも世間からボンボンの金持ちだから行けたと思われることが、自分の中でどうしても許せない。

弱い自分を追い込み、追い越す気概を見せろ。医学部受験は、意地という名の使命もあり、大げさでなく命を賭すほどの所業だった。そこにはプロのマウンドに立ったとき以上の覚悟があった。

「プロ野球の過酷な競争社会を経験していれば、世の中に出ても大丈夫っていう方がいますけど、僕らはプロのアスリートとしてお金をもらっていて、アスリート以外の方はその仕事のプロとしてお金をもらっている。じゃあ、僕らはプロのアスリートでなくなった場合、その仕事のプロの方たちにどうやって立ち向かえばいいのか……、かなり難しい。

精神的には強くなっているかもしれませんが、はっきり言ってプロ野球選手を辞めた僕なんかまだ何の役にも立ってないです。絶対に野球以外の仕事のほうがしんどい。なんでアスリートだけが神格化されるか僕にはわからない。一般社会で頑張っている皆さんのほうが強いですよ」

多くのプロ野球選手を取材してきたが、こんな言い方をした元プロ野球選手は初めてだった。

長い道のりを経てプロ野球入り、2年で戦力外に

「世間では東大に入るよりプロ野球界に入るのは難しいと言われてますが、僕にとっては東大に入るほうが難しいです」

真顔で言う寺田。だが、彼のこれまでの歩みは東大生でもマネのできない、ある意味、波乱に富んだ人生である。

「高校3年最後の夏、3回戦に先発で投げてボコボコに打たれて負けたんです。チームメイトや応援してもらった周りの人たちに心の底から申し訳なく思いました。僕がプロになることで『あの寺田と一緒にプレーした』とチームメイトが周りに自慢したり、一緒にプレーしたことを誇りに感じてもらえたらという思いが、プロを志すきっかけとなりました」


1992年生まれ、三重県出身。地元の進学校・伊勢高校の3年生時、1998年以来の県大会ベスト4進出に貢献した(写真:『第二の人生で勝ち組になる』より)

高校卒業後、国立三重大教育学部に進学するも、たったの3カ月で休学。その後、実家の病院を継ぐ決意をして、改めて三重大学医学部を目指すために浪人生活を始める。その最中、筑波大学に進学した後輩とキャッチボールをした際に言われた一言が、寺田のプロ野球への思いに火を付けた。

「バイトしながらもトレーニングは続けていました。そんなときに筑波大に行った後輩が帰郷していてキャチボールをしたんです。『先輩、球速くなってますよ! うちに来てください。うちだったらプロも狙える大学ですから』って言うんです。勉強もしてなかったため医学部を受けられるほどの学力はありませんでした。やっぱり野球がやりたいという思いが沸沸とわいてきて、だったら筑波を受けてみようと思いました」


三重大を中退し、筑波大に入学して野球部に入ったものの、目を見張る成績は残せず、公式戦12試合、中継ぎで投げて1勝1敗に終わり、大学野球生活を終えた。さすがにこの成績ではプロは無理だと諦めたとき、筑波大の奈良隆章コーチから「挑戦してみろ」と背中を押されたことで、BCリーグの石川ミリオンスターズに入団。オーバースローからサイドスローに転向したことで、球威が格段に増した。

そして、2017年のドラフト会議でDeNAベイスターズから6位で指名され、念願のプロ入りを果たしたのである。

しかし、2年間の現役生活の後、戦力外通告を受けてしまう。

1年半の受験勉強で医学部に合格

26歳でプロ野球選手になり、誕生日前の27歳から1年半、受験勉強を開始。そして2020年7月に見事、東海大学医学部の編入試験に受かったのだ。彼の夢を聞いた。

「希望を言えば、町医者とスポーツ医学の両方をやりたいんです。大好きな地元の町の過疎化が進んでいてちょっと大変みたいなので、おこがましいかもしれませんが、町を盛り上げられればと思っています。自分の経験を生かしたスポーツ医学もやっていきたい。アスリートの怪我を外科的な部分ではなく、内科的アプローチができるのではないかと。幸いにも僕だったら選手側の気持ちを一番汲み取れるんじゃないかと考えています」

グラウンドでは華々しい結果は残せなかったかもしれないが、人生という名のグラウンドで大いに羽ばたく元プロ戦士たち。新たな人生を切り拓いたパイオニアとして、私たちは学ぶべきことが多い。

(松永 多佳倫 : ノンフィクション作家)