接骨院を開業した元阪急の南牟礼豊蔵さん【写真:山口真司】

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南牟礼豊蔵氏は1995年に引退…激動の日々の中で2005年に接骨院を開業した

 2005年に南牟礼豊蔵氏は「みなみむれ接骨院」(兵庫県西宮市)を開業した。外野手として阪急(オリックス)、中日、阪神の3球団を渡り歩き、現役を引退した1995年から10年が経過していたが、この間も、その後も激動の日々だった。トレード、2度の戦力外など波瀾万丈だったプロ野球人生以上。いや、比べものにならないくらい大変だった。妻の病気、娘の障がい、借金……。「毎日が必死でした」と述懐した。

 当初は野球にしがみつこうと思っていた。「コーチとかの話がどこかから来るんじゃないかって。オファーがくるかなって思ってちょっと期待したんですけどね」。解説の仕事などでラジオ局にお世話になりながら、ユニホームの話を待ったが、来なかった。「1年たち、2年たち、3年たち、こりゃないなって思った」。子どもも生まれた。「下の子は障がいがあって……」。自分自身が何とかしなければならない。その気持ちは強くなっていった。

「2000年ころから野球から離れることも視野に入れながら、動き出していました」。目を付けたのが「柔道整復師」の国家資格だった。「何の知識もないから、以前お世話になった鍼の先生のところに相談にいったら、専門学校を受けてみるかと紹介された」。卒業までに3年かかり、500万円くらいかかる。でも、先を見据えて思い切って、借金して挑戦することにした。

 ところが……。「学校に行って2年目に女房の乳ガンがわかったんです」。愕然となった。「女房からは『柔整の免許、もういいやん、やめてくれない』って言われた」という。それでも続けた。「今やめたら、ものすごく後悔しそうやから、これだけはやらせてくれって頼んだんです。この免許取ったら、何とかなるんじゃないだろうかって本当に蜘蛛の糸をつかむようなものだったんですけどね」。

開業後に妻のガン転移が発覚「一番しんどかったですね」

 そんな状況下で学校を卒業し、国家試験にも合格。「女房もそれまでに手術してガン細胞をとって落ち着いていた」。いよいよ開業へ向けて動き出した。「資金も免許を持っていたことで銀行が貸してくれた」。ようやく、ここまで来た。少しずつ未来が見えてきた。だが、またもや予期せぬ事態が起きた。「女房のガンが肺に転移したんです」。

 もはや、気が休まることはなかった。「開業したけど、病院に行かなければならないし、女房の世話だけでなく、子どもを学校に行かせたり、弁当も作ったり……」。抗がん剤などの治療費のやり繰りもあったし、一人二役どころか三役も四役も。周囲の手助けなしではどうすることもできなかったという。「知人に手伝ってもらって、作ってもらったのを食べさせたり、食べたり……一番しんどかったですね」。

 2022年、南牟礼氏は「みなみむれ接骨院」で多くの患者に寄り添っている。「腰痛、首痛などの痛みの治療」「特殊温熱療法」「ソニック治療」……。さらには専門の「Baseball CLINIC」、長友佑都も取り入れている「KOBA式体幹☆バランストレーニング」など様々な手法もレクチャーしている。

 振り返ればいろんなことがあった。「あの時、もしも……」と考えることもある。それを含めて人生。悲しいことを一生懸命乗り越えようとして今があるのも事実だ。だが、同時にどうしても納得いかないこともあるという。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)