そんなに嫌?鎌倉御家人・北条通時(義時の孫)が仕事サボりたさに並べた言い訳がコチラ

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皆さん、仕事は好きですか?

日々やりがいを感じてイキイキ働く方もいれば、生活費のためにイヤイヤ職場へ行く方もいるでしょう。

しかし、どんな仕事もいいことばかりではなく、時には気の重い役目を負うことも少なくありません。

何とか面倒な役目を免れる方法はないものか……実行に移すかはともかく、一瞬でもそんな雑念が脳裏をかすめてしまうのは、きっと筆者だけではないはずです。

そんな思いは鎌倉時代の御家人たちも同じだったようで、中にはあの手この手で何とかお役目をサボ……もとい辞退できないかと粘る者もいました。

今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、北条通時(ほうじょう みちとき)のエピソードを紹介したいと思います。

北条通時のプロフィール

北条通時は生年不詳、『系図纂要』によると北条有時(ありとき。北条義時の四男)の次男として誕生しました。

通称は駿河五郎(するがのごろう)。後に式部大夫・従五位下の官位を授かります。

北条氏略系図(伊具流)

父・有時は庶子(母は側室・伊佐朝政女)で早くに引退したため北条一族の中でも肩身が狭く、幕府の要職に就けたのは通時の子・北条斎時(なりとき。駿河守、元名は時高)一人だけという状態。

※北条義時には6人の男児がいますが、長男の北条泰時(やすとき。母は阿波局)と有時を除いた4人は前後の正室から生まれました。

(次男の北条朝時と三男の北条重時は前室・姫の前から、五男の北条政村と六男の北条実泰は後室・伊賀の方から誕生)

兄弟は兄の北条時基(ときもと。駿河太郎)・弟の北条兼時(かねとき。駿河六郎)・有助(ゆうじょ。僧侶、佐々目僧正)・北条兼義(かねよし。伊具八郎)などがいます。

有時が陸奥国伊具郡(現:宮城県角田市・丸森町)に所領を有したため通時らは伊具を称し、やがて伊具流(いぐりゅう)北条氏と呼ばれるようになりました。

斎時には北条時邦(ときくに。左近将監)という子がおり、また末弟の兼義には子の北条宗有(むねあり。越前守)・孫の北条有政(ありまさ。右近大夫将監)がいたものの、いずれも元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡に殉じて討死しています。

随兵だけは絶対に嫌だ!1ヶ月にわたる闘い

さて、そんな北条通時が仕事をサボ……もとい辞退するべくゴネにゴネたのは鎌倉時代も中期の弘長元年(1261年)7月2日。

毎年8月15日に執り行われる鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ。現代の例大祭)に際して、随兵(ずいひょう。鎌倉殿の護衛)を任じられた時のことです。

「え〜……すみませんが私、流鏑馬神事の所役もやってるんで、掛け持ちは厳しいですよ。随兵は勘弁して下さい」

……駿河五郎 三浦介六郎左衛門尉
各勤流鏑馬之間。兩役難治之由申之……

※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)7月2日条

流鏑馬神事は毎年8月16日に執り行われる習わしで、現代でも例大祭の最終日に執り行われています(ただし令和4・2022年は新型コロナウィルス対策のため中止)。

たぶんダメ元で言ったのでしょう。幕府当局の担当者である二階堂行頼(にかいどう ゆきより。二階堂行政の玄孫)と武藤景頼(むとう かげより)に叱られてしまいました。

随兵は、鎌倉殿を警護する重要な任務(イメージ)

「8月16日の流鏑馬に出ると言っても騎手を務める訳でなし、8月15日に随兵を務めるのに支障はなかろう。いいから指示に従いなさい!」

……自身非射手者。不可有恩許。早如元散状可爲隨兵……

※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)7月2日条

この辺りのやりとりから、通時にとってお役目の辛さは「随兵>流鏑馬所役」であることが判ります。確かに流鏑馬の所役も緊張する(体験談)ものの、鎧を着こんで武装して鎌倉殿に近侍する方がより大変そうです。

しかし通時は諦めません。8月6日、今度は「体調が悪いので辞退したい」と再チャレンジしました。

駿河五郎辞退随兵事。始則勤仕流鏑馬役之間。計會之由申。後亦稱所勞之由。仍度々被仰之處。如去六日請文者。病痾難治之間。加灸之趣也。而當出仕之上者。固辞不可然。重可催之由云々……

※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月7日条

これを聞いた当局は呆れてしまいます。

「前に『流鏑馬所役との掛け持ちは厳しい』と言っていたのに、それがダメなら今度は所労(体調不良)と言い出しおった。どっちもバックレる気満々じゃな……8月6日付の申請書によると『病気がなかなか治らず、当分お灸を据えて療養します』と言っておるが、アイツ普通に出勤してるよな?辞退などけしからん。何度ゴネようがダメなモノはダメ!」

「いや、信じて下さいよ。本当に体調不良なんですってば!」

「黙れ黙れ、そんなに元気な病人がいるものか!」

……なんてやりとりがあったのかどうか、3日後の8月10日。ついに幕府当局は匙を投げたのでした。

翎。駿河五郎事。去八日重催促之處。猶以難治之由載請文。仍有其沙汰。故障之趣雖無其理。如當時者。隨兵有數輩歟。可有免許之由。被仰出云々……

※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月10日条

せっかくなので、この文章を読み下してみましょう。声に出すと、不思議と当局のうんざり感が伝わってきます。

「もうよい知らん、勝手にせぇ!」通時の態度に匙を投げた様子(イメージ)

「晴れ。駿河五郎のこと。去(さ)んぬる八日、重ねて催し促すのところ、なおもって難治のよし請文(しょうもん/うけぶみ)に載するによってその沙汰あり。故障のおもむき、その理なしといえども、当時の如くは随兵の数輩(すうばい)あらんや。免許あるべきのよし、仰せ出(い)ださると云々……」

要するに「まったく屁理屈ばっかりゴネおって……もうよい、そなたには頼まん。随兵のあてなら他にもおる!」と言ったところ。

こうしてめでたく?随兵のお役目を逃れ、ゴネ得を勝ち取った通時。ですが、その場はよくても今後の人事評価がボロボロになりそうで怖いですね。

終わりに

……と通時も思ったのかどうか、いざ本番の8月15日には駿河五郎通時の名前がしっかり記録されていました。

……後陣随兵
駿河五郎通時 武藏八郎頼直
遠江十郎左衛門尉頼連 武石三郎左衛門尉朝胤
小野寺新左衛門尉行通 隱岐三郎左衛門尉行景
大曽祢太郎左衛門尉 小田左衛門尉時知
土肥左衛門尉 完戸二郎左衛門尉家氏
河越次郎經重 出羽七郎左衛門尉行頼……

※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月15日条

これは流石の通時も申し訳ないと思って「すいません、何か急に体調がよくなりました!」と心を入れ替えたのか、あるいは「やっぱり人が足りない!引きずってでも連れて来い!」となったのでしょうか。

「装束がなかったんで、借りてきたよ」「安心しろ、それがしもだ」とりあえず人数が揃えばとりあえず体裁だけは整うものである(イメージ)

もしかしたら「とりあえず書類上の体面だけは整えておこう」と勤務実態と異なる記述をした可能性もなくはありません(何だかお役所仕事ですね)。

ちなみに、随兵などのお役目をサボる理由として「歳をとって鎧を着るのがしんどい」「鹿肉を食べて心身がケガレてしまった(神事に参加できない)」「そもそも着ていく装束を用意できない」など実にさまざま。

今も昔も、何とかサボろうとする者と何とか務めを果たさせようとする者の闘いは激しく繰り広げられ、これからも果てしなく続いていくのでしょう。

※参考文献:

五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡15 飢饉と新制』吉川弘文館、2015年4月野口実 編『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』戎光祥出版、2021年9月北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年6月