東京都新の「目白通り」と「新目白通り」は、走っているといつの間にか名前が“入れ替わる”など、一筋縄ではいかない関係性が見て取れます。ちょっと分かりづらい関係はなぜ生まれたのでしょうか。

並行する2本の道路

 東京都新宿区内を東西を結ぶ「目白通り」「新目白通り」は、どちらかを走っているつもりが、いつの間に名前が入れ替わっているなど、ややこしい状況が見られます。それぞれどのようなルートで、どのような意義があるのでしょうか。


目白通り(画像:写真AC)。

 歴史的に見ると、「目白通り」の名称が生まれたのは1962(昭和37)年、「新目白通り」は1984(昭和59)年です。ともあれ、まずはルートを確認していきましょう。

新目白通り

 新目白通りは起終点を通して右左折がありません。起点は文京区の江戸川橋で、そこからまっすぐ西進し、早稲田では道の真ん中に都電荒川線が走ります。山手線をくぐると、こんどは西武新宿線と並行し下落合を経由、都営大江戸線の落合南長崎駅がある「西落合一丁目交差点」が終点です。全長は5km弱で、全線が4車線以上です。

 西落合一丁目交差点をそのまま直進すると、道路は「目白通り」に変わります。

いっぽう「目白通り」は?

 目白通りの起点は九段下交差点です。北上して飯田橋を過ぎ、江戸川橋交差点へ差し掛かります。これを直進してそのまま西へ進むと、道路は「新目白通り」に変わります。目白通りは、一旦右折して北進し、直後の目白坂下交差点で左折して西進するのが正解。もしここをそのまま北進すると、道路は「音羽通り」に変わります。

 学習院大学、目白駅をすぎると2車線の生活道路の雰囲気に。そして西落合一丁目で右折し、「新目白通り」を引き継ぐ形で再び4車線道路に変わります。もしこの交差点をそのまま直進し西進すると、道路は「新青梅街道」となります。

 西落合一丁目からは道路は4車線のまま、豊玉陸橋、練馬区役所前、谷原を経由し、関越道の練馬IC(練馬区三原台)に到着して、「目白通り」の愛称区間は終了となります。

どうしてこんなにややこしくなった?

 まず愛称を抜きにして考えると、戦後すぐの1946(昭和21)年に決定された都市計画道路「放射第7号線」が、九段下〜江戸川橋〜下落合〜西落合〜練馬〜西大泉のルートでした。建設は1964(昭和39)年の東京五輪に合わせる形で順次進められ、1984年までに4車線道路が完成しています(終点部は現在も未開通)。

 ではこの立派な都市計画道路がまるごと「目白通り」と名乗ればよかったのですが、タイミングが上手く合わなかったようです。都が主要道路に愛称をつけようと決めたのは、五輪を控えた1960(昭和35)年。その時点では早稲田周辺は事業スケジュールが遅れ、まるで歯抜けのように未着手の状態でした。そこで「目白通り」の命名は、西落合〜江戸川橋では旧街道となる北側の道路をカクカクと迂回するルートで設定されたのです。

 結局のところ、都心から練馬・大泉方面へ抜けたい時は、「目白通りを進んでいくと、早稲田のあたりで一時的に『新目白通り』になるが、気にせず4車線道路を道なりに進んでいけばいい」という程度の認識でいいかもしれません。