1883年に運行を開始した欧州の「オリエント急行」は、豪華列車で最も歴史と格式があるといえるでしょう。そしてなんと、この「オリエント急行」は日本を走ったことがあるのです。線路もつながっていないのに、どう実現したのでしょうか。

「オリエント急行」はどのくらい豪華だったのか

 欧州の豪華列車として名高い「オリエント急行」。それが1988(昭和63)年、「オリエント急行’88」と称して日本国内を走りました。
 
 欧州の鉄道は、日本のそれとは安全基準から線路の幅、車両の大きさに至るまで異なりますが、「オリエント急行」は万難を排して、はるばる日本にやってきたのです。パリ発 東京行き、その距離は1万5494kmにおよび、2022年現在もギネスブックで「世界最長距離列車」と紹介されています。


「お召し機関車」であるEF81形電気機関車81号機に牽引され、JR常磐線を走る「オリエント急行」(1988年、恵 知仁撮影)。

 この空前絶後と思われる鉄道イベントはなぜ企画され、どうやって実現したのでしょうか。きっかけは1982(昭和57)年、フジテレビの沼田篤良氏が「オリエント急行」に乗車したことでした。

 そもそも「オリエント急行」は、パリ〜イスタンブール間を結ぶ列車として1883(明治16)年に登場。人々が感嘆する豪華列車でしたが、当時の欧州鉄道は多数の運行会社に別れ、サービスはバラバラ。そのような中、国際寝台車会社「ワゴン・リ」が、豪華列車を使ったサービスの提供を始めたのです。食堂車の床にはトルコ絨毯が敷かれ、壁は総絹張り、また一部にはマホガニーが使われるなど、格調高い内装と質の高いサービスは、王侯貴族をも魅了したとされています。

 しかしパリ〜イスタンブール間の定期直通列車は、航空機に押される形で1977(昭和52)年に廃止。ただ、その名門列車廃止を惜しんだ人物がいました。アメリカ生まれの海運王ジェームズ・B・シャーウッドです。彼はオークションに出された「オリエント急行」車両を落札。それをきっかけとして、かつて「オリエント急行」に使われていた名車35両を探し当てて購入します。その上で5年の歳月と30億円の私財を投じて、黄金期の姿に戻したのです。

 沼田氏は、シャーウッド氏が復活させた「オリエント急行」を題材にテレビ番組を作り、大きな反響を得ます。

「オリエント急行」をオリエント(東洋)へ!

 番組作成にかかる取材を通じて、「オリエント急行」を運営する「ヴェニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」の重役や日本国鉄運輸局長との交流を経た沼田氏は、「『オリエント急行』の終着駅は、イスタンブールの西側で『東洋』(オリエント)に入っていない。『オリエント急行』をオリエントまで走らせよう」と考えました。会う人会う人に「そんなことができるわけがない」と言われつつも、フランス国鉄の技術部長らの協力を得て、プロジェクトは開始されます。

「パリを出発して、ソ連(現・ロシア)国境まで走り、広軌台車と換装したあと、シベリア鉄道で中国領土に到達。そこで標準軌台車と交換して、香港まで走行。そこから船で日本に到着して、狭軌台車で東京まで走る」構想でしたが、正気と思われず、特に起点となるフランス国鉄と、大陸終点の九広鉄道(当時)との交渉は困難を極めたそうです。

 また、ソ連との交渉も難航しました。30台の広軌台車を夏季休暇返上で製造させても間に合わず、出発日を延期する事態も発生。中国に対しても、ちょうどそのころ、日本人の高校生が上海で列車事故に巻き込まれ、その補償が話し合われている最中であり、日本人客を乗せた「オリエント急行」を通す交渉は難しかったそうです。

 そして日本の国内走行についても、「外国の列車走行を法律が想定していない」との理由から、当時の運輸省との交渉は1年に及びました。運輸省だけでなく、通関問題で大蔵省(現・財務省)、通過国との交渉で外務省、さらには車内の石鹸・化粧品類は厚生省(現・厚生労働省)、食堂車は保健所、車内で食品を販売する税金は税務署、警備問題は警察……と、多方面の関係者との交渉が必要となったのです。

空前絶後の「パリ発 東京行き」列車、いざ

 しかし不可能と思われた企画は、「そんな列車が走ったら面白い」と各国が協力したことで、6年の準備期間を経て実現に漕ぎつけたのです。

 1988年9月7日、フランス国鉄の蒸気機関車230 G 353号機に牽引された「オリエント急行’88」は、パリから東京へ向け出発します。


尾久駅付近の車両基地で休む「オリエント急行」。左側手前の青い車両は国鉄・JRの14系客車(1988年11月、恵 知仁撮影)。

 道中、東ドイツ(当時)、ポーランド、ソ連、中国で蒸気機関車が牽引し、香港まで1万4600kmを走り抜けた「オリエント急行」は、船に積み替えられて山口県下松市の日立製作所笠戸工場に運ばれました。

 ここではスタッフ用寝台車1両、荷物車1両、食堂車1両、プルマン車(高級食堂車)1両、バーサロン車1両、寝台車6両が、スハ43形客車などが装備していた台車へ交換されるなど、国内走行に適した改造が行われました。同時に20系寝台車と50系荷物車も、連結器の対応と発電機確保のために改造され、「オリエント急行」の客車を挟んで編成を組んでいます。

 満を持して、「オリエント急行」は広島〜東京間を走行、世界最長列車記録を樹立します。そしてJRグループ成立1周年を記念し、日本全国を3か月かけて回る「クルーズトレイン」となったのです。この日本巡航は、JR北海道やJR四国管内でも運行が行われるなど、徹底したものでした。

あちこちガタが来ているぞ…

 とはいえ、「オリエント急行」の客車は製造後60年を経ている車両だけに、雨漏れやトイレ詰り、送配電の問題で室内灯が付かない、バッテリーが落ちる、ブレーキシリンダーが劣化するといった問題が頻発しました。

 またある時は「車両の電気を維持するディーゼル発電機の給油が難しいから、食堂車の冷蔵庫や冷凍庫から食材を外に出して保管してほしい」という指示が伝わらず、冬なので一時的に冷蔵庫を切り、燃料を持たせるといった対策も行われました。現場は相当苦労したようです。


箱根ラリック美術館で特別展示されるプルマン車「No.4158 DE」(2022年6月7日、安藤昌季撮影)。

 様々なトラブルに見舞われても、「旅客サービスでごまかしはしたくない」という「オリエント急行」側の要望に日本側は全面協力し、大好評を博して運行を終えました。

 日本国内での最終運行では上野〜大宮間を、蒸気機関車D51形498号機と「お召し機関車」である電気機関車EF58形61号機が重連で牽引しました。当日、筆者(安藤昌季:乗りものライター)は最終とは知らずに上野公園に行きましたが、見物客が車道に溢れるほどの人気ぶりでした。

 なお、この列車に連結されたプルマン車「No.4158 DE」は2004(平成16)年に再来日し、箱根ラリック美術館の特別展示「ル・トラン」となって現在に至ります。その様子は次回、紹介します。