※この記事は2017年07月10日にBLOGOSで公開されたものです

母親からの価値観の押し付けと学校でのいじめを受けていた憲一(37、都内在住、仮名)は、中学時代に緊張の糸が切れて不登校となり、人間関係が苦手になっていった。母親に助けを求めるものの、きちんとした対処をしてくれず、一時は自殺も考えた。

一方で社会とのつながりも求めた結果、自分でネット古本屋を開くことができた。今では、引きこもっていた自分と似たような人を雇いたいと思うようになっている。

息苦しさを感じる背景に、両親の宗教的価値観

憲一は、仏教系の新興宗教の信者だった両親のもとに生まれた。憲一自身も生まれたときに入信をしている。つまり、親子で信者だ。しかし、祖父母は伝統的な仏教徒のため、祖父が亡くなったときには、葬儀の形式をどちらでするのか揉めていたことを覚えている。

そんな憲一は小さい頃から両親の言いつけを守らされてきた。新興宗教の集まりに両親ともに参加していたが、憲一はそんな集まりを嫌がっていた。それを知ってか、知らずか、両親はこう言った。

「同じ宗教の友達と遊びなさい」

もう何も考えないようにした。両親からの“布教"は、「降りかかってくる災難」だと捉えることにした。

「私はその宗教を信じていない。反抗ばかりしていた。だって、信じていれば幸せになれるというけれど、両親が幸せそうに見えない」

60代の母親は、憲一の子どもの頃からヒステリックに見えた。姑とは仲が悪く、常にイライラしていた。同年代の父親は宗教以外に興味はなく、家族には無関心だ。だからこそ、母親だけが子育てに熱を上げていた。

「福島県の出身だった母親は本来の性格がおとなしかった。友達がなかなかできなかったようだ。信者になったのは高校生の頃。親戚のススメだった。そんな中で上京。仕事がなかなか続かないでいた。そんなときに、宗教関係者と知り合い、その縁で結婚をし、宗教の活動にのめり込んだようだ。でも、続けている理由は、宗教関係者内のつながりでしょうが、はっきりとは教えてくれない。母親が『私にはこの宗教しかないのよ』と言っていたのを覚えている」

習い事もやらされていたが、中1で限界がやってくる

憲一が幼稚園の頃、習い事を数多くこなした。ピアノ、サッカー、野球、空手、家庭教師、公文式、水泳....。

「お金はあったようだが、全然嬉しくも、楽しくもない。これでスポーツが嫌いになった」

とはいえ、空手は2~3年続いた。水泳も頑張ったため、その教室で一番上手なクラスに進んだ。もちろん、遊ぶ子どもは決められた範囲でしか許されなかった。選択の余地はまったくなかった。

「(決められた子どもと遊ぶことを)嫌がっていることを母親は知っている。でも、言葉に出して嫌がると母親は怒った。殴られたこともあった。『痛い!』と言うと、『痛がるな!』と言って、また殴る。ビンタもする。そんな姿を妹が見ていたこともあった。妹も殴られていたのか?それはわからない」

風邪をひいても、学校を休むことを母親は許さなかった。発熱をしていても、「たいしたことないから学校を休まずに行け!」と言われた。ただ、学校で吐いたことがあった。風邪なのに無理して学校へ行ったからだ。そのときだけは、迎えに来た母親が「なんで、調子が悪いと言わないの?」と言っていた。学校で恥をかいたと思ったのだろう、と憲一は納得していない。

そんな憲一にも限界がやってきた。中1の2学期のころ、学校に馴染めないという理由で不登校になった。

「小学校のときはなんとか学校へ行ったんです。なんとなく周囲には馴染んでいたが、好きじゃなかった。一番嫌いなのは、信者の子どもとしか付き合っていけないこと。だから、その後も、同学年との関係が苦手になった。表面的に合わせるのがダメになった。どうしていいかわからない。特に、休み時間のときは何をしていいのか....」

いじめにあうが「辛さを感じなければ...」

中1の1学期はそれでも我慢して登校していた。我慢できたのは、習い事の友人関係で、「何かをされても何も感じない」と言い聞かせる癖ができていたからだ。何を言われても反応しないようになっていた。

そんな中でいじめにあう。女子便所に押し込まれたり、弁当を取られたりした。理由はわからないが、仲良くなった友人の態度が豹変し、「お前、うるさい」と言われるようになった。その友人はいじめの首謀者になっていった。

小学校のときもいじめにあったことがあった。そのことを母親に伝え、「助けて!」と言ったことがある。しかし、母親は「あなたが直接、そのいじめっ子の母親に抗議しなさい」と言った。

なぜ、いじめられる側が、いじめる側の母親に抗議しないといけないのか。それができるのなら母親に相談することもない。実はいじめっ子の親が、憲一の母親が信仰する宗教の信者だった。そのために、母親はためらったのではないか。ちなみに、妹がいじめられたときは、母親はすぐに抗議に行っている。いじめっ子の親が信者ではなかった。

当時の憲一には母親の言っていることが理解できず、気持ちが真っ白になったという。

「辛さを感じなければいいんだ」

憲一はそう思うことでいじめを乗り越えようとした。その思考は今でも癖になっている。そのため、いじめで具体的に何をされたのかは記憶があいまいだ。しかし、1学期までが限界で、許容量を超えてしまい、学校へ行けなくなった。憲一は「学校が怖いから行きたくない」と言ったが、母親は「そんなこと(学校へ行くこと)は普通だよ。ご近所付き合いだから」と言っただけだ。

「宗教のために、お前が俺をダシに使っているだけじゃないか」

そう思ったが、あまり追い詰めると、母親はヒステリー状態になる。憲一が母親をなだめなければいけなくなってしまう。そのため、夏休みは、学校との友達と遊んで、いろんなことを忘れようとした。

夏休みが終わり、学校人は「行かないモード」になっていく。学校へ行けない憲一だが、「学校へ行け!」というプレッシャーが強い母親。そして、母親は学校へ行けない憲一を親族から隠す。こうした雰囲気から逃れるために、ゲームセンターへよく行った。ゲーム代は祖母からのお小遣いで捻出した。足りないと、母親の財布から現金を盗んだ。

その後、転校することにしたものの、転校先の学校も居心地はよくない。適用指導教室では不良が集まっているように見えた。そこでもいじめを受けたが、中3まで通った。

結局、中学卒業後はアルバイトをした。16歳から一人暮らし。それまでの人生のことを考えても仕方がないと思っていた。遅れて高校に進学するも、一学期で行かなくなった。専門学校も中退した。その後は、ネットで古本屋を始め、職場に行かずに済むようになる。

「ネット古本屋だけで食べられるようになったのはよかった。しかし、ネット古本屋をしていて、パニック障害になり、過呼吸になったのはショックだった。これまでの人間関係のストレスの蓋が外れたために、トラウマが吹き出したのでしょう。人間関係での『心の穴』が埋められない。母親が開けた『心の穴』を埋められればいいが、それができず、母親への恨みが強くなった」

埋まらない不安や孤独が希死念慮や攻撃性の原因に

憲一が「死にたい」と最初に思ったのは、アルバイトをしてからだ。

「死にたいと思ったのは不安にかられるから。不安を感じるのは自立してないから。だから一人暮らしを始めた。しかし、意識があるのが苦痛に思えた。『死にたい』と思ったが、かなり異常な状態だった。自転車に乗っていると、黒い男が点々と立っている気がした。意識がなかったら楽なのにと思った。孤独だった。自分のやっていることがわからなかった。いじめは、その場から逃げればいいが、孤独は対処の仕方がわからない。無意識に、引き金をひく動作をしている」

漫画を読んだが、不安や孤族は埋まらなかった。潜在意識にある希死念慮が、引き金をひく動作をさせるようになったのかもしれない。銃を頭をつきつけて引き金をひく自殺をイメージしているのだろう。

「そんな動作をしても楽にならない。もし拳銃を入手できていたら死んでいるかもしれない」

甲州街道(国道20号線)に飛び込んで、トラックにはねられれば、楽になると思ったこともある。ただ、実際に行動に移したことはない。

「死なない理由?まだ変わる可能性があるんじゃないか。でも、死ぬなら復讐してやりたい、自分をいじめた奴や親には。そいつらが笑って生きているのが許せない。自分が死ぬのであれば、殺してやりたい。思い知らせたい」

自身に対して攻撃をした人たちを許せない気持ちはわかる。しかし、憲一は、自身と無関係な人物に対してもその感情が飛び火している。

「妹の息子も許せない。なぜ?って。妹は健全な恋愛をし、子どもができた。それが許せない。妹がそうできたのは、母親が自分と妹を差別したから。母親の差別が許せない」

自殺の心理は「攻撃性」がある。その攻撃性が自分に向いた時が自殺や自傷行為なのだが、他者に向いたときには暴力や殺人事件に発展することがある。憲一はそれを言葉にできているだけ、自覚的だ。

自分と同じような人を助けたい

その後、社会不安障害ではないかと思い、当事者の会に通ったりする。また、30歳を過ぎたころに精神科でうつ病と診断された。ただ、半年、薬を飲んでいないという。「飲んでもしょうがないんじゃないか。だって、全然効かないから」

価値観の押し付けといじめ。憲一の自殺願望はどちらも大きな要素だ。 それに、中1から不登校のために、恋愛をほとんどしてない。結婚したい願望もない。まともに考えたことはないという。

「親子で仲が良い人たちがいるが、意味がわからない。親になったとして、何を話していいかわからない。恋愛しないといけないんじゃないかという強迫観念はあるが、したいわけじゃない。この先も一人で生きていこうと思うが、それがいいとも悪いとも言えない」

地域の若者サポートステーション(通称、サポステ)に通うこともしている。サポステとは、働くことに悩みがある若者を専門的にサポートし、就労支援する。NPOや株式会社が運営している。そこで多くの引きこもりの人たちと出会った。

「10年も、20年も引きこもっている人がいる。でも、引きこもっても、親子関係が壊れていない人もいる。でも、おれは壊れている」

ただ、本好きな面があったため、憲一は社会とつながった。

「バイク便のアルバイトをしていたことがある。その当時、反貧困が叫ばれるようになった。そこで、雨宮処凛さんの『プレカリアート』を読んだ。本が社会と繋げてくれた」

その後、正規雇用と非正規雇用の格差に注目し、その問題に取り組んでいる政治家の選挙事務所を手伝ったこともあった。

「今は、ネット古本屋で月35万円を稼げるようになった。事務所がワンルームなので、もう少し広いところを借りようと思う。自分と似たような人を助けたいとの思いがあるので、(ひきこもっていた人など)他の人を雇用したい」  

憲一は、無理に自分を変えようとしない。経済的にも自立できるようになったが、恋愛も結婚も家族とも無関係な生き方を模索している。