竹田淳子さん 撮影/渡邉智裕

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 父親はヤクザの組長、母親はストリッパー。家庭に居場所はなかった。13歳で覚醒剤に溺れ、どん底まで転落。刑務所を出た後、ほとんど一緒に暮らせなかった息子のひと言で更生を誓い、“支援者”としての道を歩み始める。「命さえあれば、いくらでもやり直せる」 と証明するために―。

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4年間の服役経験

「昨日の夜から入居者さんが帰ってこなくて、電源は切れたまま、LINEも既読にならない。一睡もできなかったんですよ……」

 取材の日、竹田淳子さん(51)は、スマホの画面をしきりに気にしながら現れた。

 竹田さんは自立準備ホームの寮母を務めている。刑務所や少年院から出所後、帰る家のない人々が自立できるまで一時的に住むことができる民間の施設だ。

 現在の入居者は外国籍の未成年の少女。薬物や窃盗の罪で、少年院を経て、保護観察中だという。

「ウチに来て3か月になりますが、無断外泊は今回で2回目。今日は保護司さんとの面談が入っていたのにドタキャン。さっき慌てて電話で謝り倒したところです。これ以上、保護観察所の心象を悪くしたら、ひとり暮らしもできなくなってしまうから」

 少年院に入所中、高卒認定試験に挑戦し、合格。出所後は、竹田さんの目の前で昔の仲間たちの連絡先をみずから消去してみせた。

 そんな少女を信じ、竹田さんは知人の運営するカフェでアルバイトができるよう頼み込んだ。勤務態度はまじめ。カフェで働きながらお金を地道に貯めていた。海外のラッパーに憧れ、ダンスを習いたいと夢も語っていた。

「私にとっては、まだ3か月。彼女にとってはもう3か月頑張った……なんですよね」

 寂しそうにつぶやく竹田さん。ひと晩中、心配していたのだろう。疲労が滲む表情で力なく笑った。

◆   ◆   ◆

 2019年8月、竹田さんは一般社団法人『生き直し』が運営する自立準備ホームの女性寮の寮母に立候補した。

 出所者のほか、執行猶予や罰金刑も含む有罪判決を受けた人、不起訴などで釈放され帰住先がない人も対象にしている。

 個々のケースにもよるが、平均して2〜3か月以内に仕事を見つけるなど自立の準備をサポート。1人あたり1日1000円の食費が法務省から支給されるという。

 これまで埼玉県にある竹田さんのホームには6人が出入りしてきた。

「最初の入居者は、統合失調症の40代の女性でした。ほかの施設で断られて行くところがなく、クリスマスイブの夕方にやってきました。もしウチが断っていたら、ホームレスになるしか……」

 それがどれだけ心細いことか、身をもって知っていたからこそ、受け入れようと決めた。だが、年明けにホームで暴れ、警察に通報せざるをえなかったという。

 2人目は、傷害事件を起こして保護観察中の20代女性。ホームで包丁を持ち出し、事件を起こす危険を感じて、またしても警察に通報した。

 3人目は、薬物所持で執行猶予中の20代の女性。売春で生活費を稼いできたため、働いた経験はなかった。

「身体のあちこちに刺青があり、付き合う男はホストか半グレばかり。麻雀店でバイトしても“かったるいから”とすぐ辞めてしまいました」

 妊娠して寮を卒業したが、今も彼氏とケンカをするたび連絡が来る。ホームを出た後も、“真の自立”を願い、見守り続けるケースもある。

「10人に1人、生き直しできればいいほうです。女性は特に厳しいですね。金銭面や精神面で男性に依存していた人の場合、出所後にゼロから生活力をつける必要があります。その弱さに付け込んで再び犯罪の道に引きずられ、搾取される標的にもなりやすい。何度も騙されて“やっぱり私は幸せになれない”と自己否定感が強くなると、“何も考えたくない” “刑務所の中のほうがラクだ”と思ってしまうんです。私もそうでした」

 竹田さん自身も詐欺未遂と覚醒剤取締法違反で34歳から4年間、刑務所に服役した経験を持つ。

「私は出所後にアパートの部屋を借りることができず、ホームレスを経験しました。ビルの階段で一夜を明かしていたら通報されて。警察官に覚醒剤をやっているのではないかと疑われ、留置されたこともありました。していないのに!」

 刑務所を出所した後こそが地獄─。どんなに心を入れ替えようと、風当たりは強く、一度罪を犯した者への差別や偏見は容赦ない。だからこそ、竹田さんは「更生」への意欲が削がれる前にホームで「生き直し」のきっかけをつくりたいと必死なのだ。

「出所後にうちのホームで問題を起こして、また刑務所に入ることになれば、次に出てきたときは、一度関わった私とはコンタクトがとれない。ただでさえ少ない“味方”が減るんですよ。もったいないと思います」

 親身になって心配をしても、なかなか思いは届かない。それでも、更生に向かう人の気持ちに寄り添える自負がある。

「この仕事は、今の私にできる天職ですね。あ、あの子から連絡きました!“ごめんなさい”って(笑)」

 スマホの画面に目を落とす竹田さんの顔がパッと華やいだ。無断外泊していた外国籍の少女からのLINEだった。

前科者に厳しくしない理由

「うまくいかないことも多いけど、ちゃんとホームから卒業できた人もいるんです」

 竹田さんが紹介してくれたのは、三浦加奈さん(仮名=51)。私立の中高一貫校で教師をしていたが、父親をがんで亡くし、母親の介護のために30代で辞職。三浦さんの人生は一転した。

「自分の意思で決めたことなのに、ものすごい挫折感を味わい、19歳のころから悩んでいた摂食障害が悪化して……万引きを始めました」

 パン1つから始まった万引きも、気がつけば大きなバッグを担いで洋服や靴やバッグまで盗む重症のクレプトマニア(窃盗症)に陥り、現行犯逮捕。

 懲役2年の実刑を終える目前、一度は身元引受人を申し出た姉が辞退。唯一の身内に縁を切られてしまう。民間の自立準備ホームはどこも満室で『順番待ち』だったが、依存症治療を担当していた精神保健福祉士の紹介で竹田さんのホームへの入居が決まったという。

 そこでの生活は三浦さんの想像とはまったく違っていた。

「竹田さんは温かい笑顔をされる方だなぁというのが第一印象。同い年ということもあり、親しみやすかった。おそれ多いんですけど、お友達と2人暮らしをさせていただいているような。刑務所のようにルールがたくさんあるのかと思ったら、夢のような条件でびっくり。韓国風焼き肉とか、きのことたまごのスープとか、栄養がありそうなものを作ってくれて。食事の時間は楽しみのひとつでした」

 規則が厳しいホームもあるが、竹田さんは、入居者に細かいルールを強制しない。

 いずれは1人で世間の荒波を乗り越えていかなくてはならない。自分の甘えに負けてはいけない。だから自主性を尊重するのだという。

 竹田さんと何げない日常を過ごす中で、「自立」のコツを教わったと三浦さんは振り返る。

「かつての私は、“摂食障害です”と言い訳して、自分のことができていなかった。0か100で、思いどおりにならないと自虐的に自己否定する。誰かに何かをしてあげたら、見返りを求めて、他人の評価が価値基準になっていました。

 でも、淳子さんはどんなに忙しくても優先順位をつけ、取捨選択して、息抜きも上手。見返りを求めず、人のために動ける。その堂々とした姿を見て、私も自分で自分を評価できるようになりました。それが大きかったですね……。

 ちゃんと私を信じてくれた淳子さんに応えるのがせめてもの感謝。そんな気持ちが私の中に芽生えました」

 三浦さんは、1か月でホームを卒業。週に2度仕事をして、ひとり暮らしをしている。通信講座で「児童心理カウンセラー」の資格を取り、困っている子どもに寄り添いたいと夢への一歩を踏み出した。更生への厳しい道のりはまだ始まったばかりだ。

 ホームを出る日、竹田さんは笑顔でこう見送ったという。

「いつでも来ていいんだよ。1人で寂しかったら、ご飯を食べにおいで」

 竹田さんが所属する一般社団法人『生き直し』の代表・千葉龍一さんは「困ってる人を放っておけないタイプ」だと語る。

「真冬に出所したおばあちゃんが、矯正施設から放り出されそうになったところに出くわしたとき、“ここから出たら死んじゃう!”と矯正施設の人に掛け合っていた姿が忘れられませんね。

 入居者と下の名前で呼び合うなどコミュニケーションのとり方もうまい。でも、怖いもの知らずで、困った人のためならどこへでも行ってしまうから、ハラハラすることもあります」

 竹田さんの支援活動は、公益社団法人『日本駆け込み寺』のボランティア活動から始まった。毎週土曜日夜8時から新宿歌舞伎町で、相談窓口の電話番号を書いたティッシュを配って歩いた。

 やがて個別の相談をLINEでも受けるようになると、少女たちからSOSが届いた。竹田さんは彼女たちを救うためなら、大胆な行動も躊躇わなかった。

少女を性虐待から守りたい!

「お前は誰だ!! 帰れ!!」

「お父さんが怒ることじゃない。怒りたいのは、娘さんのほうだと思いますよ」

 怒りに震える父親に対して、竹田さんは冷静だった。

「とにかく、娘さん妊娠しているから、堕ろさないと間に合わなくなります」

 実の父親から性虐待に遭い、妊娠6か月だった17歳の少女の自宅に乗り込むと、父親は竹田さんの靴を玄関の外に投げ捨て、殴りかかろうとする勢いで拒絶した。

「あなたを告発しようとしてるわけじゃない。でも次、娘さんに何かしたら警察に訴えます」

 竹田さんは彼女を救うことだけを考え、説得に臨んだ。

「少女から最初の連絡をもらったのはツイッターのダイレクトメッセージ。“交通費を払うので、カウンセリングに来てください”と。“未成年だからお金はとらないよ”と返信して事情を聞きました」

 母親が出ていった小学2年生のころから性的虐待が始まった。中学生になり、少女はそれがレイプだと初めて知った。そして妊娠─。

 事情を知った竹田さんは、じっとしていられず自宅に乗り込んだ。

「父親に二度と手を出さないと約束させ、環境を変えることはできました。でも、堕胎の段取りを進めていた矢先、父娘ともにコロナに感染して、自宅で出産してしまいました。

 出ていった母親に連絡を取り、事情を伝えて、今は母親と2人で子どもを育てながら生活しています」

 一刻を争う事態だった。彼女を性虐待から救えたものの、「もっと早くSOSを受け取れていたら……」との思いが込み上げる。

「父親は小学校の教師で、“いい先生”と呼ばれていることを知って愕然としました。実の父親から性被害に遭った例は、報道されないだけで山ほどあります」

 ほかにも母親の彼氏にレイプされた少女から相談を受け、竹田さんが母親に手紙を書いて男と別れさせたこともある。

 性的虐待の相談は、今も数多く寄せられ、竹田さんはそのたび、怒りに震えている。

「私、魔女になりたいんですよ。こういう男たちのチンコを爆発させる薬が開発されればいいと本気で思う!」

 そう話す竹田さんにも、長い間、人に話せずにいた壮絶な過去があった─。

性被害の末、母に捨てられて

 1970年、暴力団員の父親とストリッパーの母親との間に竹田さんは生まれた。

「生まれてすぐに生存率50%の難病・結核性髄膜炎にかかっていることがわかり、入院。生死の境を彷徨いました」

 退院後、預けられたのは父方の祖父母の家だった。

「母は全国を旅するストリッパーだから会えても月に1度くらい。父は刑務所を出たり入ったりしていて、ほとんど会えませんでした」

 小学校の連絡網に両親の仕事を書く欄があり、父が暴力団関係者で母がストリッパーであることが知れると、学校では壮絶なイジメに遭う。1年生から不登校になった。

「小1のとき、和式のトイレの掃除をさせられ、汚い水の中に頭を突っ込まれました。悲しくて家にあった置き薬を全部飲み、自殺を図ったこともありました。

 小2になって、勇気を出して学校に行くと、クラスメートに教科書を隠されて。“忘れました”と先生に言うと、冷たい廊下に正座させられました。トイレに行きたくなり先生に言っても“我慢しなさい”と叱られ、粗相して。みんなに笑われたときは、生きた心地がしませんでしたね」

 それ以来、祖父母は「学校に行かなくてもいいよ」と家庭教師をつけてくれた。孫に甘い祖父母だった。

 小学4年生のとき、両親は離婚。ストリッパーを引退した母親との同居生活が始まる。

「母が呼び寄せてくれたときは、本当にうれしかった。母は華やかできらびやかでアイドルみたいで憧れていました。当時は“私も母の後を継いでストリッパーになりたい”と密かに思っていました」

 しかし、母との同居生活中、性虐待に遭う。

「ヒモらしき男が母のいないときを見計らってやってきていたずらされたときはショックでした。ヒモにぞんざいな態度をとると“なんで愛想よくできないの” “パパになるかもしれないんだよ”と言われ、“なんでこんな男といるんだろ。お母さん早く気がついて”と心の中で叫んでいました」

 そしてある日、母親が突然失踪してしまう。事情を知らない竹田さんは家で不安を抱えたまま数日間を過ごした。

「帰りが遅くなったり、帰ってこない日もあったので、最初のうちは気がつきませんでした。ところが、怖いおじさんが家に来るようになり、母が借金取りに追われていなくなったことを知りました」

 母親はストリッパーを引退した後、劇場の経営に携わったが、火の車。周囲からお金を借りて、蒸発した。

「最初は母がさらわれたんじゃないかとか、母はご飯をちゃんと食べてるのか、とか心配していたんです。でも、日がたつにつれ“私は捨てられたんだ” “お母さんに愛されていなかったのかな” “大病したのも、いじめられたのも生まれてきてはいけない子だからかな”と悲しい思いがこみ上げてきました」

 1人になった竹田さんは、母親の妹夫婦の家に預けられた。

 しかし、子育てをしたことのない夫婦は、反抗的な態度をとる竹田さんにどう接していいのかわからず、飼っていた猫ばかり可愛がる。竹田さんのイライラは頂点に達しつつあった。

「私は母に捨てられたかわいそうな子ども。なのに、みんな私を無視する。もっと私を見て、私と喋って。そんなやり場のない怒りから、私は飼っていた猫を高いところから落としてしまいました」

 取り返しのつかないことをしてしまった竹田さんは、家を追い出され、親戚中をたらい回しにされた。暴力事件を起こし、教護院(現在の児童自立支援施設)に預けられたのは小学5年生のとき。施設でも荒れに荒れ、問題を度々起こした。

覚醒剤、レイプ、自殺未遂

 中学1年のとき、再婚をきっかけに迎えにきたのは父親だった。

「暴力団の組長になっていた父は、親分として一家を構え、違法なポーカーゲーム店も何軒か経営して羽振りもよかった。家と棟続きの事務所では賭場が開帳され、丁半博打に勝ったお客さんからお小遣いをもらえた。私は毎晩のように友達を引き連れて、渋谷のディスコまでタクシーを飛ばして遊びに行きました」

 横浜市内から10万円のお小遣いを握りしめて渋谷へ。中1にもかかわらず、ディスコだけでは飽き足らず、ホストクラブに入り浸ることもあった。

「ファミレスに行ったら、友達が遠慮するから“なんでも好きなもの食べな”と言ってメニューを上から下まで全部頼む。ホストクラブでは、財布ごと渡してお会計をする。みんな私がお金を持っているからついてくるのに、偽物の優越感に浸っていました」

 初めて覚醒剤に手を出したのも中学1年のときだ。

 事務所に行くとパケに入った覚醒剤が無造作に置いてある。ある日、ひとつくすねたら、若い衆に「やったら死んじゃうんだよ」とたしなめられた。

 しかし、組長の娘は一歩も引かなかった。

「くすねたのがわかったら、あんたが殺されるよ」

 そう脅して、初めて身体に入れた。

「ほんの好奇心から手を出しましたが、打った瞬間に両親に会えなかった悲しみや、いじめられたこと、母に捨てられたこと、母のヒモにいたずらされたことなど、嫌なことを全部一瞬で忘れられた。すごい薬だと思いました」

 竹田さんは、あっという間に覚醒剤に溺れ、依存─。転落の始まりだった。

「中2のとき、不良仲間にレイプされ妊娠していることがわかりました。堕ろしたくても親を連れてこいと言われる。でも、そんなこと、口が裂けてもウチの両親には言えない。衝動的に家にあった漂白剤を飲んで自殺を図りました」

 一命はとりとめたものの、胃洗浄の衝撃で赤ちゃんは流産。2週間ぶりに家に帰ると、両親は捜索願を出すどころか、「おかえり」の言葉ひとつかけてこなかった。

「私が自殺するほど悩んでいたのに、私の姿が見えているのかな?と……。この家にも居場所がないと思って、高校を2週間でやめ、家を出て水商売の世界に入りました」

 継母の紹介で住み込みのパブクラブで働き始めた。16歳のとき、店の関係者と結婚。夫は束縛が激しく、何度も暴力を振るわれた。その夫から逃げるため、今度は店舗型の風俗店で働き始めた。

 竹田さんにとって風俗の世界は「私の居場所」と思えるほど居心地のいい場所だったという。

「風俗はお客さんが私を求めて来てくれる、私を必要としてくれる。すぐにお金になるし、頑張れば頑張るほど自分の価値が上がる世界に私はやりがいを感じるようになっていきました」

 もう親戚をたらい回しにされたり、束縛や暴力に苦しめられることもない。

 ヘルスを皮切りにソープやデートクラブなどの風俗店で働くようになり、2度目の結婚。やがて、子どもを身ごもったことに気がつく。

「もう妊娠はできないかもしれないと思っていましたから、一切ドラッグをやめてこの命を育てていこうと心に決めました。覚醒剤依存の夫婦の間にまともな子どもが生まれるのか、不安で仕方なかったですね」

 22歳のとき、一粒種の旭彦さんを無事に出産。この子のために生きていこうと誓った。

 しかし2番目の夫は薬物依存から抜け出せず、家の中で花火を何発も打ち上げて自宅が全焼。

 乳飲み子を抱いて竹田さんは裸足で逃げ出した。

 離婚を決め、ひとり親になると、昼も夜も働き詰めの生活が待っていた。竹田さんは疲労をごまかすように、また覚醒剤に手を出してしまう。

「早朝から風俗で働き、夜遅くまで水商売で働く生活は睡眠もまともにとれず、気づけば、子育ての忙しさを理由に覚醒剤を打つようになっていました」

 28歳のとき、3度目の結婚。夫婦そろって薬漬けの日々が続いていたある日、職務質問され、覚醒剤不法所持で逮捕。初犯のため執行猶予がついた。

 だがその矢先、2人は中国窃盗団の片棒を担ぎ、詐欺を手伝ったことで現行犯逮捕。34歳のとき、笠松刑務所で懲役4年の刑に服することになった。

前科者への冷たい仕打ち

 刑務所の中で過ごした4年の間に、竹田さんは病を発症した。腹痛と出血に苦しみ刑務官に訴えたが、「詐病でしょ」と言って取り合ってもらえなかった。

 半年後、懲罰になっても構わないと思った竹田さんは、「検査しろ!」と刑務官につかみかかった。

 結果は、子宮がんで全摘出。

 帰りの車の中で泣く竹田さんを見て、刑務官は、「嫌だったら、こんなとこ来なきゃいいんだ」と吐き捨てた。

 医療刑務所に移送され、手術と治療を終えた半年後、4年の刑期を終えて出所。

 待ち受けていたのは厳しい社会の現実だった。

「地道に昼の仕事をしないと“普通の人じゃない”という感覚があって。やり直そうと思って、スーパーのレジ打ちのアルバイトを始めました。

 でも、1か月たったころ、店長から“隠していることがあるよね。前科あるでしょ。そういうのウチいらないから”と突然言われてクビになり、バイト料ももらえませんでした。

 仕事にも慣れて、顔見知りのお客さんができてきたころで……悔しかったですね。生き直そうとしても、働かせてもらえない……愕然としました」

 その後、クラブでママの仕事を始めた。水商売に戻っても、覚醒剤や犯罪には手を染めたくないとの思いで、仕事は慎重に選んだという。

 6年後、風俗店で働く女性の相談に乗る「ラブサポーター」に転身。占い師に弟子入りし、勉強も始めた。

 友人の佐野さん(仮名=53)が当時を振り返る。

「出所後に知り合ったのですが、自分のことよりも人のために何かをするとなるとすごいエネルギーが出る人でした。“仕事は人を喜ばせること。その喜びを得るチケットを私から買ってもらった。だから、私は頑張る”と言っていたことをよく覚えています」

 仕事が波に乗ってくると、竹田さんは服役中の夫と離婚。夫の詐欺事件に加担した罪を償うため、弁護士を通して弁済を申し入れた。

「ヤクザの世界では“夫に言われたことはやるのが当たり前”で、善悪の判断がつかなくなっていた。すごく後悔しています。ただ、弁済を申し出ても“気持ちが悪い”と受け取らない方もいて……。服役したから、罪を償って終わりだとは思っていません」

 新たな一歩を踏み出した矢先、摘出した子宮がんが卵巣に転移していたことが発覚。再び試練に直面する。

息子が語る、母への想い

「どうして、こんなつらいことばかり起きるのか……」

 竹田さんは自分の人生を呪った。

 唯一の心残りは、ひとり息子の旭彦さんのことだった。

 出所後、息子に会いに行き、「お母さん、もう長くないかもしれない。ごめんね」と詫びた。

 中学生になっていた息子は、ただひと言つぶやいた。

「長生きしてな」

 竹田さんはわが耳を疑った。

「“えっ、私長生きしていいの?”と……。自分の存在を肯定された気がして、じゃあ、しっかり生き直そう。覚悟を持って生き直そうといった思いが湧き上がってきました」

 この息子のひと言が、本気で生き直すきっかけを与え、竹田さんは、少女たちの相談事業や自立準備ホームの寮母など「支援活動」に精を出していく。

 息子の旭彦さんは母親をどう思っているのだろうか。

「僕にとって母は、たまに帰ってくる人で、世間でいう“単身赴任中のお父さん”みたいな感じでした。実の父親と暮らしていましたが、まわりの友達もひとり親が多く、みんな家族のように育ちましたから、寂しさはありませんでしたね。

 小3のときに一緒に暮らした時期があり、楽しかったことを覚えています。僕は朝が苦手で、毎朝母にフライパンを叩いて起こされたのが思い出かな(笑)」 

 現在、29歳の若さでリフォーム会社の社長を務める旭彦さん。「グレずにまっすぐ育ったことが不思議……」と母親である竹田さんが漏らしていたことを告げると、こう笑い飛ばした。

「中学生のとき、付き合った彼女のお父さんが配管工で、住み込みで働き始めたんです。その職場が昔気質の超スパルタ教育!仕事が厳しすぎて、グレる暇もありませんでした。この師匠のおかげで誰よりも早く一本立ちすることができました」

 中学2年生のとき、長く会えずにいた母親から一通の手紙が届き、刑務所に入ったことを知ったという。

《会えなくなってごめんなさい》

 そう手紙に綴った竹田さんは、「私を捨てた母親と、自分も同じことをしている」と猛省していた。

「私は母が借金取りに追われ失踪したときに“捨てられた” “母に愛されていなかった”と思い、母のことを恨みました。ところが息子は私が刑務所にいたときも“なぜ?”と責めず、恨み言ひとつ言わない。そんな息子を見て、私も母を恨んではいけないと思うようになりました」

 2019年11月、数えで50歳を迎えた竹田さんは、生前葬を行った。生きているうちに、出所後に出会った人々へ感謝の気持ちを伝えたい。そんな思いから、誕生パーティーも兼ねて開いたという。

 会場にはおよそ80人の友人が集まった。喪主を務めた息子の旭彦さんが挨拶に立ち、

「母の子どもに生まれてよかったと思います」

 と話すと、竹田さんは大粒の涙をこぼした。

 旭彦さんはその日のことをこう振り返る。

「出所後にたくさんの人と出会って、母のために集まってくれるって……それだけ今の母は愛されてるってことじゃないですか。それが、すごいことだなと思って。薬物で捕まっていたような人がちゃんと立ち直れた。そこを尊敬していますね」

 旭彦さんの誕生日には、毎年「生まれてきてくれてありがとう」のメッセージが母親から必ず届くという。

「黒い世界には戻れない」

 現在、竹田さんは、風俗店で働く女性の相談に乗る「ラブサポーター」の仕事や、占い師の仕事で生計を立てる傍ら、自立準備ホームの寮母や相談事業もこなし、全国で講演会も行っている。

 今年1月、神奈川県・横浜市で竹田さんの講演会が開かれた。非行少年や子どもの支援活動に携わる多くの人が、竹田さんの言葉に耳を傾けていた。

「どん底まで落ちても命さえあれば、いくらでもやり直すことができる。今朝起きられたこと、ご飯を食べられたこと、そんなことにも感謝して生きていけたら幸せ。そう思える人を1人でも増やせるように、この仕事に携わっていけたらと思っています」

 元受刑者で、現在は出所者の支援に携わる30代男性は、講演会の感想をこう話す。

「自分も虐待を受けて育ち、施設生活が長かった。ケンカが原因で少年院に入った経験もあります。出所後、社会に出ていくことがいちばん大変というところに共感しました。味方になってくれる人がいたら、その人を裏切らないために、自分もちゃんと生きようとまじめになれる。僕もそんな存在になりたいですね」

 竹田さんが講演会で必ず、投げかける言葉がある。

「みなさん、私と同じ環境で生きてきたら、私のようにならない自信はありますか?」

 前科者をひと括りに“自業自得”と切り捨てず、罪を犯す前の境遇にも目を向けてほしい─そんな思いが込められている。

「黒歴史を語ると、批判されるし、最初はしんどかった」

 と前置きし、竹田さんは罪を犯した過去を赤裸々に語る理由を話してくれた。

「今を見てほしいんです。過去のことに囚われるだけなら、前に進めない。私は私の黒歴史を変えたい。禊というか、白い修正ペンでちょっとずつ白い面を多くして、生き直せることを証明するために話しているんです。真っ黒を真っ白にすることだってできると。だから黒い世界に戻ることは絶対できないんです」

 その言葉には、いまだ竹田さんも「更生」の最中であるような気持ちがうかがえた。

 出所者を自立準備ホームに迎え入れるたび、「竹田さんを裏切れない」と語り、自立していく人が1人、また1人と増えていく。そのたびに、「私もこの人たちを裏切れない」という竹田さんの誓いも強くなっていく。先を歩く、生き直しの先輩として─。

【個人相談窓口】相談できる相手がいない方、苦しくなったらツイッターからDMください。竹田淳子@lovesapojt1101

〈取材・文/島 右近〉

 しま・うこん ●放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。