大統領の鶴の一声で誕生「インディペンデンス級軽空母」1年で9隻就役 最後の艦は50年現役!
アメリカ海軍が第2次大戦中に大量建造したクリーブランド級軽巡洋艦。その船体を流用して造られたインディペンデンス級軽空母は、改造空母とは思えないほど本格的な造りから重用され、なおかつ長生きしました。その理由をひも解きます。
クリーブランド級の量産中にルーズヴェルト大統領が「要望」
第1次世界大戦に続き、人類にとって二度目の国家総力戦となった第2次世界大戦。この大戦争において、当時、すでに世界最大の巨大工業国であったアメリカが、ありとあらゆる兵器を量産して大量に配備し、さらには同盟国にまで多数供与した事実はよく知られています。そして、そのような兵器の中には「艦隊軽空母」と称される軍艦も含まれていました。エセックス級に代表される大型の艦隊用正規空母でも、はたまた貨物船や油槽船をベースにした小型の護衛空母でもない、「艦隊軽空母」とははたしてどんな艦種なのでしょうか。
スペイン海軍の空母「デダロ」。同艦は、元はインディペンデンス級軽空母7番艦の「カボット」。後方には「ハリアー」垂直離着陸機を載せている(画像:アメリカ国防総省)。
第1次大戦後、列強が政戦略兵器たる軍艦の保有隻数を制限して、戦争の抑止と軍事支出の低減を図るために締結したワシントン海軍軍縮条約と、それに続いて発効したロンドン海軍軍縮条約は、1936(昭和11)年に日本が脱退したため、両条約とも事実上の効力を失いました。こうして無条約時代が到来すると、アメリカは対日戦をにらんで海軍力の増強に乗り出します。
この増強計画に含まれていた排水量1万トン級の軽巡洋艦のプランが、クリーブランド級として結実し、一気に量産されることになったのですが、その流れの中で、ひとつの出来事が起こりました。時のアメリカ大統領であるフランクリン・ルーズヴェルトが、ある要望を申し入れたのです。
ルーズヴェルトは、かつて海軍次官を経験しており、「海軍通」を自負していました。その彼は、対日関係がいよいよ危うくなってきた1941(昭和16)年中旬、海軍の空母建造計画が後手に回っていることを知ります。あくまで、この時点での海軍の予定では、次の艦隊用正規空母の建造は、3年後の1944(昭和19)年とされていたからでした。
1943年中に9隻がそろって就役
事態を危惧したルーズヴェルト大統領は、海軍に対して量産が始まっていたクリーブランド級軽巡洋艦の船体を流用した、軽空母の建造について検討するように命じます。しかし海軍としては、それまでの研究により1万トン級程度の船体では小さすぎて空母としては運用しにくいと判断しており、計画に乗り気ではありませんでした。
とはいえ、そこはお国のトップである大統領直々の要請。そのため、海軍としても「真面目に急いで」検討を始めます。結果はやはり過去の研究と同様でしたが、1941(昭和16)年12月8日にハワイにある海軍太平洋艦隊の根拠地パールハーバーが攻撃され、日本との戦争が始まると、空母の増強が急務となりました。そのため、開戦前の時点では1隻のみを試験的に建造しようと考えられていたクリーブランド級流用の軽空母でしたが、1942(昭和17)年中に一挙9隻の流用が決まります。
1943年7月、就役から半年後の軽空母「インディペンデンス」(画像:アメリカ海軍)。
なお、この9隻は当初軽巡洋艦として竣工する予定であったため、それに見合った艦名がすでに付与されていたものの、空母への「変身」に伴って新たな名前に変わっています。具体的には次の通りです。
1番艦「アムステルダム」→「インディペンデンス」(ネームシップ)
2番艦「タラハッシー」→「プリンストン」
3番艦「ニューヘヴン」→「ベロー・ウッド」
4番艦「ハンチントン」→「カウペンス」
5番艦「デイトン」→「モンテレー」
6番艦「ウィルミントン」→「カボット」
7番艦「ファーゴ」→「ラングレー」
8番艦「バッファロー」→「バターン」
9番艦「ニューアーク」→「サン・ジャシント」
ちなみにアメリカのすごいところは、全9隻がいずれも戦争の趨勢がどちらに傾くか丁々発止の最中だった1943(昭和18)年中に完成している点にあります。
ネームシップにちなんで、インディペンデンス級と命名されたこれら軽空母群は、量産された大型の艦隊空母エセックス級が「標準型艦隊空母」と称されたのに対して「艦隊軽空母」と呼ばれました。
30ノット出る快速性がプラスに
船体が小さいため、インディペンデンス級の搭載機数は33機から45機。これに対して、エセックス級のそれは100機オーバーとなります。しかしレーダーなどの電測兵器は同等のものを備え、最大速力も同じ約33ノット(約61.1km/h)なので、エセックス級との混用が可能でした。この点が、貨物船や油槽船をベースにした小型の護衛空母と最も異なっていた、一番の特徴といえるでしょう。
速力が早く、レーダーなども同じものを積んでいることから、「標準型艦隊空母」の補助として空母機動艦隊に加わることができたのです。しかし、船体が小さいせいで、船としての荒天下での運用は、標準型艦隊空母と比べて難しい部分はあったようです。また同様の理由で飛行甲板も狭小なため、離着艦事故の発生率もやや高かったといわれています。
とはいえ、インディペンデンス級は標準型艦隊空母を支えてよく戦いました。また、旧日本軍の航空攻撃を受けて大破し、味方の手により海没処分された「プリンストン」以外の8隻は第2次世界大戦を生き抜いています。
インディペンデンス級4番艦「カウペンス」の艦橋(画像:アメリカ海軍)。
8隻のうちネームシップの「インディペンデンス」は、1946(昭和21)年に南太平洋のビキニ環礁で行われた水爆実験「クロスロード作戦」において標的艦として用いられ沈んだものの、いくつかの空母は朝鮮戦争に参加したり、フランスやスペインに供与されたりして戦後も軍艦として使われ続けました。
なお、スペインに供与された「カボット」は「デダロ」に改名のうえ、同国海軍の旗艦などを務めて1989(平成元)年8月まで運用されています。その艦歴は46年にもおよんでおり、ここまで長らく第一線で使われ続けると、もとが戦時改造の軽空母だったとは思えないほどです。
当初はその能力が疑問視された軽巡洋艦改造の艦隊軽空母でしたが、「大柄の兄貴分」といえる標準型艦隊空母と伍して、熾烈な太平洋戦争を見事に戦い抜き、アメリカ海軍の勝利に貢献した「功労者」であったといえるのではないでしょうか。