競技会場周辺の道路は広く、関係車両以外の通行を禁じられている=7月21日、福島県福島市 撮影/牧内昇平

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 7月23日から東京五輪が幕を開けたが、福島県内ではそれに先がけて21日午前、女子ソフトボール「日本対オーストラリア」の試合が行われた。新型コロナ感染拡大を防ぐため、試合会場の福島県営あづま球場は「無観客」になったが、それだけでなく、スタジアム周辺は大規模な交通規制が実施され、市民が近づけないように隔離された状態になっていた。コロナ禍の中での開催という事情があるにせよ、市民を締め出すような姿勢には違和感を覚える。21日の会場周辺の様子を紹介する。

【写真】炎天下のなか『五輪反対』を訴える市民たち、会場付近の数メートルにおよぶ巨大フェンス

市民が近づけない交通規制

「許可証を持っていますか? 一般の人は通行できませんよ!」

 試合会場の周辺には警察官や警備員が多数配置され、選手や大会関係者、マスメディアを除いて、一般車両が近づくのを一切許さない。

 福島県内で五輪の会場に使われている県営あづま球場は、「あづま総合運動公園」という大きな公園の中に入っている。総合運動公園はその名の通り、球場だけでなく体育館や小さな子どものためのアスレチック施設、遊歩道など、たくさんの施設が整備されている。

 ところが、大会運営側はこの大会に合わせて、スタジアムの周辺、隣接する陸上競技場やテニスコートなどを含む広範囲を、高さ3メートルほどの工事フェンスで囲ってしまった。

 さらに、公園の主なゲートには警備員が立ち、歩行者が通行できないようにしたほか、公園近くの車道にことごとく交通規制をかけ、大会関係者の車両しか通れないようにした。当然、公園内の駐車場も全面的に使用禁止である。

 公園の周囲は田畑が広がるのどかな地域で、コインパーキングや大きな駐車場を併設した商業施設がない。アクセスが非常に悪い状況をつくり、一般市民が実質的に公園に近づきがたい状況を作ったのだ。

「球場を広く覆う巨大フェンス」、「ゲートの閉鎖」、「周辺の交通規制」という、いわば“三重の防護”体制が実施されたのである。

それでも行われた「五輪反対」アピール

 そんな状況でも、五輪の試合会場にできるだけ近づいて、「五輪反対」の声を上げる人びとがいた。

〈中止だ! 東京五輪 No Olympics 〉

〈オリンピックより命を守れ〉

 斉藤春光さん(69)は、数人の仲間たちとプラカードや横断幕をかかげ、五輪反対をうったえた。

「もう、黙ってられないっていう話ですよ。あまりにもひどいじゃないか!」

 斉藤さんは、過酷事故を起こした福島第一原発に近い福島県いわき市に住む。市民団体「脱原発福島ネットワーク」の一員として、日ごろから原発事故の責任追及や、東電による廃炉作業、汚染水の処理方法について、監視を続けている。

 斉藤さんに、何に怒っているのか、アピール行動で何を伝えたいのかを聞いた。

「いちばん怒っているのは、誰も責任をとらない無責任体質です。オリンピックは最初、安倍晋三前首相の『アンダーコントロール』発言で招致されましたよね。そして『復興五輪』と名付けられた。でも新型コロナの感染問題が広がると、政府は『人類が新型コロナに打ち勝った証としてのオリンピック』と言うようになった。そのくせ、感染が防げないとなると、菅首相は『私は主催者ではありません』と言い始めた。IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長も、東京都の小池百合子知事も同じです。誰も責任を取ろうとしない」

 その無責任体質は、原発問題と共通していると、斉藤さんは言う。

「原発事故も、東京電力の当時の経営幹部たちはみんな『あれは部下がやったことだから知らなかったよ』とシラを切っている。原発から生じる汚染水は、はじめ『トリチウム水』『処理水』と言っていました。だけど、トリチウム以外にもいろいろな放射性核種が入っていることがわかり、処理水と言ってもまだ処理できていないだろう、と指摘されると今度は『処理途上水』と言うようになった。

 言い方をコロコロ変えてごまかしている。そして、汚染された水を海に捨てることについて、政府も東電も責任をとろうとしない。みんな無責任すぎる。今の日本の政治・経済・社会を取り巻く病理が、オリンピックと原発の問題に集中して現れている」

 「復興五輪」と喧伝(けんでん)された今回の東京五輪は、斉藤さんにとって、政府の被災地対策の失敗をごまかすためのイベントに過ぎない。

「オリンピックをやる金があるならば、まだ原発事故が回復しないで困っている人がいっぱいいるんだから、被災者支援に回したらどうなのか。コロナだって生活困難に陥っている人がいっぱいいるわけでしょ。そういう人の救済のほうが大事なんじゃないの。政治は本来、困っている人たちのためにあるはずなのに、逆のことをやっている。それが許せない。黙ってられない」

まるで「市民排除の五輪」

 この日、五輪会場のすぐ近くで活動を行った市民団体は、筆者の把握する限りでは斉藤さんたちだけである。それも仕方ない。この日、福島市内では朝10時から気温が30度を超えた。猛暑と大規模な交通規制下で街頭宣伝を行うのは、生易しいことではないだろう。斉藤さんたちは警察官たちによる検問の手前で車を降り、徒歩で1キロ近く歩いてようやく、公園の前までたどりついた。熱中症の心配もあるため、アピール行動は20分ほどで終了した。

 斉藤さんが指摘する通り、原発事故が起きてから10年が経過した今も、福島は「アンダーコントロール」とは程遠い状況にある。たまり続ける汚染水は、多くの人の反対を振り切って福島県沖に放出しようとしている。事故を起こした原発の廃炉作業に終わりは見えず、放射性物質に汚染された地域に住民が帰還できるメドも立っていない。そんな状況を突きつけた斉藤さんたちのアピール行動には大きな意味があると、筆者は感じる。

 もちろん、東京五輪の是非については今や、新型コロナウイルスの感染拡大問題を抜きに語れない。東京都内の新規感染者数がリバウンドを続けるなか、本当に開催が可能なのか。選手村でも感染者が続出している状況を「アスリートファースト」と言えるのか。論点は山積している。

 開幕に先がけて、福島の競技会場周辺を歩いてみてわかったこと。それは、東京五輪が「市民を排除しようとしている」という事実だ。感染が一気に広がるのを避けるために「無観客」で開催するのは理解できるが、市民の憩いの場である公園そのものに近づけないようにする正当な理由はあるのだろうか。県営あづま球場が入るあづま総合運動公園は、東西3キロにおよぶ広大な敷地がある。競技自体が無観客であれば、人びとが大挙してコロナの感染を広げる心配はそれほど考えられない。

 ノーベル文学賞を受賞したジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチに『戦争は女の顔をしていない』という著作がある。それになぞらえて、こうは言えないだろうか。

“オリンピックは市民の顔をしていない”

(取材・文/ジャーナリスト・牧内昇平)