サッカーなのに「永久欠番」になった伝説選手5名

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野球チームにはよく「永久欠番」というものがあり、歴史と伝統あるチームほどそれが多いことで知られる。

ニューヨーク・ヤンキースに至ってはなんと21もの永久欠番があるため、主要なものは大部分それによって占められているのだ。

一方サッカーではそれに比べると多くはないものの、伝説的な選手がいる場合はそれが設定されている場合もある。今回は『Sportskeeda』から「永久欠番を捧げられた5名の伝説選手」を特集しよう。

ペレ

クラブ:ニューヨーク・コスモス(10)

基本的に10番が永久欠番になることはない。誰もが付けたがる番号であるからだ。しかしそんなナンバーを永久欠番にしたクラブがニューヨーク・コスモスであり、そうさせたのはブラジルの伝説ペレだった。

サントスで20年近くを過ごしたペレは、サッカーを根付かせようとしていたアメリカのニューヨーク・コスモスへと移籍。そこで3年間プレーした。

そしてニュージャージー州にあるジャイアンツ・スタジアムで彼の引退試合が行われ、前半はニューヨーク・コスモス、後半はサントスの選手としてプレー、そのハーフタイムに引退セレモニーがあり、10番は永遠にペレへと捧げられた。

ニューヨーク・コスモスは一旦解散してしまったものの、後に独立リーグで復活。現在もペレが付けた10番、そしてジョルジョ・キナーリャが付けた9番が欠番である。

ハビエル・サネッティ

クラブ:インテル(4)

サネッティはサッカーというスポーツを彩った最高のサイドバックの一人だ。インテルセリエA615試合出場という驚異的な数字を持ち、代表も含めた全公式戦では1114回のプレーという記録を持っている。

彼はインテルの歴史上最高のキャプテンでもあり、5回のスクデットに加えてチャンピオンズリーグ優勝というタイトルも掲げた。ジュゼッペ・メアッツァでの19年間、その13年でアームバンドを巻いていた。

そんな彼のキャリアに敬意を評し、インテルはサネッティが着用していた4番を永久欠番とし、そしてクラブのフロントスタッフとして迎え入れることを決断している。

ヨハン・クライフ

クラブ:アヤックス(14)

世界で最も有名で、世界で最も素晴らしいサッカー選手の一人であるヨハン・クライフ。彼がいたからこそトータル・フットボールが生まれ、バルセロナに「ティキ・タカ」という文化が生まれた。

3回のバロンドールを受賞した彼はアヤックスでそのプロキャリアをスタートさせ、エールディビジを8回制覇した。のちにバルセロナへと移籍し、選手としても監督としても「変革」をもたらす男になった。

2007年にクライフが60歳の誕生日を迎えた際、アヤックスはその貢献に敬意を評して14番を永久欠番にすることを決断。残念ながら彼はその8年後にこの世を去ったが、アヤックスは本拠地を「ヨハン・クライフ・アレーナ」と名を変え、再びレジェンドへの称賛を表している。

パオロ・マルディーニ

クラブ:ミラン(3)

パオロ・マルディーニは、あらゆるサッカー選手の中で最も影響力があるディフェンダーだった。父親であるチェーザレの足跡をたどるようにミランでプレーし、25年間のプロ生活をそこで過ごした。

黄金時代のチームを支え25回のメジャータイトルを獲得。セリエA優勝7回、ヨーロッパのカップ戦5回という目覚ましい実績を手にし、1000試合以上でプレーした。

25年間ミランに貢献したことを考えれば、クラブが3番を永久欠番にすることは当然だった。ただユニークなのは、彼には「息子がミランでプレーしたときには3番を与えられる」という権利が与えられていることだ。

ディエゴ・マラドーナ

クラブ:ナポリ(10)

そしてペレと同じように「10」を永久欠番としているのがナポリであり、その賞賛は英雄ディエゴ・マラドーナに向けられている。バルセロナで2年を過ごしたアルゼンチンのスターは、1984年にナポリにやってきた。

決して強豪ではなかったチームを史上初のリーグ優勝に導き、強豪へと進化させた。ファンからも絶大な人気を獲得し、彼が着用していた10番は永久にマラドーナのものになった。

【写真】マラドーナ、代表とクラブで忘れられない「12のユニフォーム姿」

彼は昨年11月に突如60歳という若さでこの世を去ることに。ナポリはすぐにスタジアムの名前をスタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナに変え、英雄の死を悼んだ。