「レイプ妊娠でも中絶禁止」自由の国アメリカでそんな不自由がまかり通るワケ
■人工妊娠中絶への賛否で揺れたアメリカ大統領選
アメリカの大統領選では「人工妊娠中絶反対か容認か」というトピックが、常に大きな比重を占めている。これは日本から渡米した私には理解のしづらい問題であった。
渡米前アメリカは自由で先進的な国であるとぼんやりしたイメージを抱いていた。私が住むボストンは、ハーバード大学やMITのある学究的かつリベラルな都市であったこともあり、実際その感覚のまま過ごしていた。しかし、そんなボストンでも宗教的な慣習に違和感を抱いた事を覚えている。
ピューリタンの入植地であったボストンでは、私が渡米した2002年当時、「日曜に酒類が買えない」という州法があった。これは「Blue laws」と言われ、今では緩和されて午前10時以降なら買うことができる。しかし外で酒類を飲むことは禁止されているため、紙袋に包んで隠し飲んでいる人を今でもよく見かける。
さらに1972年に最高裁で違憲とされるまで、避妊具の購入を既婚者に限定したマサチューセッツ州法が存在していた。中絶を施行している非営利組織の「プランド・ペアレントフッド」の周辺では、常に中絶反対の集団がプラカードを持って陣取っている。進歩的なはずである私の周囲でも、「トランプは支持できないかもしれないが、プロチョイス(中絶を容認する)民主党の候補に票を入れることは絶対にない」と言いきる人がいる。
■強い信仰心、生活に近い宗教
スイス人の同僚がかつて、ヨーロッパに比しアメリカの方がはるかに保守的だ、と漏らしていた。たしかにヨーロッパ人の宗教観は日本と似ており、教会に通う人の数はさほど多くはない。
米国のシンクタンクであるピュー研究所による最近の調査では、アメリカと西欧諸国ではキリスト教徒の割合などは似通っていたが、「キリスト教が非常に重要」と答えた人の割合はアメリカでは68%だが、イギリス6%、ドイツ9%、オランダ38%などヨーロッパは概して低い。アメリカは特に信仰心が強く、宗教が生活に近いのだ。
ピュー研究所によると2020年現在、アメリカ国民の約7割がキリスト教徒であり、その中でも聖書の記述を忠実に解釈するプロテスタント諸派である福音派(エヴァンジェリカルズ)は25.4%とされている。
聖書では、生命の授受は神の手に属しており、エレミヤ1:5と詩篇139:13-16には、人が胎内で創造される神の役割についての記述がある。また、出エジプト記21:22-25では胎児を死なせた人に殺人と同じ罰を課していることから、確かに中絶は聖書の教えにそぐわない。
宗教的な信条はその人の生活だけでなく、国の政策にも影響を与えている。合衆国憲法修正第1条は政教の分離を規定している。ただ、これは特定の宗教と国家の分離を定めたもので、宗教と国家そのものの分離を求めたものではないと解釈されている。
■挽回する保守派……各州で広がる中絶規制法
アメリカでは1900年ごろにはほぼ全ての州で中絶は禁止されていた。これに対し、最高裁が中絶を規制するアメリカ国内法の大部分を違憲無効とした1973年の「Roe v. Wade(ロー対ウェイド)」という判決がある。
妊娠を継続するか否かの決定はアメリカ市民としての身分の広範な定義が盛り込まれた合衆国憲法修正第14条に規定されているプライバシー権に含まれると判示したもので、この判決後それまでの中絶禁止法は概ね廃止された。
しかし、保守派は黙ってこの判決を受け入れていたわけではない。中絶に規制をかけるべくたゆまない努力を続けてきている。特に近年盛り上がりを見せており、待ち時間の延長で中絶を受けにくくするなど2011年以降483にも上る中絶規制法案が各州で成立するに至っている。また、一部の過激派は中絶医を射殺したり、中絶施設へのテロリズムなどの暴力事件も起こしている。
トランプ政権下の2018年から2020年にかけては、いわゆる「ハートビート法」(胎児心拍が確認される妊娠6週目以降の中絶を禁止する法案)を可決する州も相次いでいる。2013年ノースダコタで成立した後、オハイオ、ジョージア、ルイジアナ、ミズーリ、アイオワ、ケンタッキー、アラバマ、ミシシッピー州でも相次いで可決されたが、いずれも「ロー対ウェイド」を根拠に違憲とされ、下級審で発効を阻止されている。
特筆すべきはアメリカ南部ルイジアナ州で2019年5月、胎児の心拍が確認された後は中絶を、これまで例外とされていた近親相姦やレイプによる妊娠についても禁じ、中絶手術を施行した医師には禁錮99年の刑が言い渡される可能性があるという、極めて厳しい中絶規制法が成立したことであろう。
日本のどこかの知事が「生命は神から授かった神聖なもので、それを守るために中絶を禁止する法案を可決した」とツイートすることは考えられないであろうことから、アメリカの宗教依存の高さを垣間見ることができる。
■保守派が優勢になった最高裁
大統領選前に話題になったアメリカ最高裁判事の任命も、やはりこの問題と密接な関係がある。
司法判断の最後の砦である最高裁は公正を保つため保守・急進の判事数のバランスもとれていたが、2018年7月に中道派の最高裁判事が引退してこの均衡が破れ、最高裁が保守派に有利な判断を下す可能性があるとの期待が高まっている。最高裁の判事は大統領が指名し、上院の承認を経て任命される。最高裁の判事は終身制なので、欠員補充は長期的な影響を考え、保守派にとっても急進派にとっても大きな関心となる。
2020年10月にトランプ大統領に指名されたバレット氏は、末のダウン症の男の子を含めて7人の子どもを育てる敬虔なカトリック教徒として知られ、以前から中絶には反対の立場とっている。
この任命で保守派が9人中6人と圧倒的多数となったため、中絶反対派は差し止めされても最高裁まで争い、そこで「ロー対ウェイド」判決を覆すことを目的として活動を継続している。連邦レベルでの中絶の権利が覆されると、2020年10月現在中絶を制限する法案が可決されているアメリカ南部、中西部の22州という大きな地域で中絶が違法になる可能性がある。
■中絶規制法案が発効したらどうなるのか
最高裁判決が覆され実際に中絶規制が発動された場合、どのような影響があるのか。
アメリカのシンクタンクであるガットマッハー研究所によると、アメリカでは望まない妊娠、中絶ともに1980年代にピークを示した後、減少傾向にあり、2017年には自然流産を除く全妊娠の18%が中絶に至っている。
2014年、約75%の中絶は貧困層または低所得者によるものであった。人種的には黒人女性の中絶が1000人あたり27.1人と最も多く、最も少ない白人女性10人の2.5倍以上である。原因は人種差別や経済的理由による医療、医療保険へのアクセスの悪さによるものとされているため、中絶規制は低所得者や黒人の生活や健康に直結する問題であると言える。
バーモント州のミドルべリー大学のマイヤース教授の報告では、現在、アメリカでは各州に少なくとも中絶施設が1つあり、妊娠可能年齢の大多数の女性はそういった施設に車で1時間以内の場所に住んでいる。もし「ロー対ウェイド」が覆されると、41%の女性は近隣の施設が閉鎖になり、これらの女性は現在平均36マイルの距離が280マイル先まで中絶施設がなくなり、年間9万3500人から14万3500人が適切な中絶のサービスが受けられなくなると予想されている。
2017年現在、アメリカ全体では年間86万件程の中絶が施行されたが、これにより14%程度(10万件)減少し、望まない妊娠が増えると予想される。ここでも、移動にかかる費用や休暇を確保できない貧しい女性が特に影響を受けると予想されている。
■中絶規制の女性や子供への長期的影響
カリフォルニア大学サンフランシスコ校による、望まない妊娠を中絶した女性とできなかった女性を長期追跡比較調査した結果(Turnaway Study)によると、中絶ができなかった場合、破産や強制退去など社会的に不利な記録を残す可能性が増加し、貧困(2014年の定義では3人家族で世帯収入が$19,790以下)に陥るリスクが4倍、失職のリスクも3倍となる。
食料、交通、住居など生活に必須な金銭も欠く可能性が高く、家庭内暴力を振るうパートナーとそのまま一緒にいるケースが多く、自身と子供を暴力の対象におくだけでなく、その後5年以内にパートナーと別離し生まれた子供を結局単独で育てなければならなくなる可能性も高い。
また、子癇(しかん)や産後の過多出血など妊娠合併症のリスクも高く、妊娠関連以外の健康も損なう可能性も高い。そういった女性とすでに一緒に暮らしていた子供は、貧困レベル以下の家庭に育つリスクも3倍高くなり、発達遅延が見られることが多い。
このように、中絶の規制は女性に経済的、身体的な影響を数年単位で及ぼし、その後の人生で望む子どもを好ましい環境で産む可能性も低くなり、女性の生活の主要な悪化要因となる旨の警鐘を鳴らしている。
2017年の女性の生殖に関する権利センターの報告では、テキサス、ルイジアナ、アーカンソー州など中絶規制法案が多数可決されている州では、女性や子供の健康状態が他の州よりも有意に悪く、子宮頚(けい)がん検診や周産期のケアが受けられるようにする低所得者向けの健康保険制度や、出産後の女性や子供の支援制度も乏しいと報告している。中絶規制を立案する際には、女性や子供の長期的な支援政策も考慮すべきであろう。
■「アメリカは宗教大国なのである」
2000年9月、アメリカ食品医薬品局(FDA)は薬剤的妊娠中絶法としてミフェプリストンを承認している。ミソプロストール内服を組み合わせた方法は95%の成功率があり、現行のプロトコルに従って使用すれば効果的かつ安全な方法とされている。
日本では未承認であるが、初期の中絶に限れば搔爬(そうは)法など侵襲的な子宮内容除去術に比して簡便で安全であることからアメリカでは10週までの初期妊娠中絶では多用されつつあり、2017年には39%が内服による中絶となっておりその比率は年々増加している。
安易な中絶につながるとしてこれが中絶規制派の攻撃対象となっているが、米国科学・工学・医学アカデミーの2018年の報告やWHOの勧告では、家庭医や助産師などがプロトコルにのっとり施行した場合でも安全かつ効果的に管理できるとしており、現在の医師による直接処方や診察を義務付ける規制は過剰であるとしている。
2014年にアメリカ産科婦人科学会も簡便性とコスト面からテレメディシンによる薬剤的妊娠中絶を支持しており、本法は望まない妊娠の中絶を希望するが中絶施設へのアクセスが限られた女性にとって有力な解決策になるであろうが、規制と容認両派の議論の焦点となることも予想され今後の動向が注目される。
人種の構成の変化などの理由で、近年福音派を含めたキリスト教徒は減少している。一方、無神論者など特定の宗教を信仰しない人は2020年には22.8%を占め、増加傾向にある。数十年の単位で考えれば、中絶規制の動きは減少していくだろう。ただし、現在のアメリカを理解するうえでは、宗教が果たす役割を軽視してはいけない。アメリカは宗教大国なのである。
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柏木 哲ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院講師
ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院放射線科Assistant Professorとして基礎医学研究室を主宰。慶應義塾大学医学部卒業後、産婦人科医として勤務したのち慶應義塾大学大学院医学研究科修了(博士、医学)。2003年よりハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院にて研究員として基礎医学の研究のため渡米後、市民権を取得しアメリカ合衆国に帰化。マサチューセッツ州ボストン市在住。
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(ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院講師 柏木 哲)