あのダンテでさえ気絶した「道ならぬ恋」の結末
(写真:Fast&Slow/PIXTA)
人は何かを禁止されると、むしろその物事が気になって仕方なく、逆の行動に走ってしまうもの。「開けてはいけない」という約束を破って、世界中に災いをもたらしたパンドラの失敗のツケを払い続けているというのに、まったく懲りないというのは人間だ。
「禁断」と形容されると、そこらのリンゴですら魅惑的なアイテムになってしまうが、やはり道ならぬ恋は古今東西どこの人でも興味をそそられる。いうまでもなく、万国共通の大好物である人目をはばかる恋は、文学にも度々登場し、安全な場所から男女の深淵をのぞきこみたい読者を惹きつける。
『アンナ・カレーニナ』、『グレート・ギャツビー』、『ボヴァリー夫人』、『蓼喰ふ虫』……文化や言語が違っても、危険な情事は色褪せない鉄板ネタである。
のびのび恋愛を謳歌していた平安人
日本の古典文学も決して例外ではなく、むしろ積極的に道徳に反した恋を語る。『蜻蛉日記』は裏切られた妻のやるせなさを訴え、『和泉式部日記』は愛人の(稀な)勝利を見せびらかし、『源氏物語』ときたらはいろいろありすぎて、不倫のデパートといっても過言ではない。
一夫多妻制度が主流で、政略結婚が盛んに行われていたことも相俟って、平安貴族は複数の女性を自由に訪ね、のびのびと恋愛を謳歌していた。そもそも彼らの性的な倫理観は現代とかなり異なり、「不倫」という概念があったかどうかすら怪しい。
源氏君や在原業平のごとく、綺麗な人を見かけたら愛せずにはいられないというのは平安人の掟、相手の身分さえ問題がなければ、パッションに身を任せてOK。それに従って、そこにあったのは、倫理的にアウトという「不倫」よりも、ふわふわと移り変わる心、夢中になるような「浮気」である。なんて自由、なんておおらかな時代!
その一方、地球の反対側の様子を見てみると、話はまるで違う。日本では覗き放題、夜這いし放題だったのに対して、ヨーロッパに生まれてしまった中世のレディースたちは城壁に囲まれた城に閉じ込められ、自らの美貌を恥じることを命じられていた。
キリスト教が浸透していた中世のヨーロッパでは、貞操が何よりも重んじられていたからこそ、悪事に手を染めたら真っ先に地獄行きだと思われていたし、男女ともにビクビクして生きていたわけである。
モーセの十戒の中でも、そのコンセプトが特別に強調されている。第6戒「姦淫してはならない」(プロテスタントでは第7戒)、第9戒「隣人の妻を欲してはならない」(プロテスタントでは10戒)とあるが、行為自体はダメというのはもちろんのこと、空想にふけることすら罰せられているのだ。不倫より罪深いと思われる殺人に対して、「殺してはならない」とさらりと片付けているところを見ると、いかがわしい関係がどれだけ快く思われなかったかがうかがえる。
その結果、「恋=罪」という図式は、アモーレ帝国であるイタリアにおいても深く根付いており、その発想は今でさえ国民の意識の彼方にこびりついていると言える。
肉欲に溺れた男女が堕ちた地獄
そして、イタリア語の父こと、ダンテ先生も聖書マニアとして、もちろんこの話題について『神曲』で触れずにはいられなかった。場所は第二圏、愛欲者の地獄だ。
『神曲』は壮大な詩篇だが、最初から最後まで空想の世界である。大食いの罪を犯した者はケルベロスに噛まれながら、泥濘にのたうち回る。高慢だった人は、重い石を背負い、腰を折り曲げる。生前妬みや嫉妬心を抱いた人はまぶたを縫いとめられている。どれも怖くて、的確な因果応酬というか、倍返しの世界だ。
恋に焦がれて、欲望に溺れた愛欲者を待ち構えている地獄もバラ色のものではない。肉欲に身を任せた彼らや彼女らは、永遠に休むことなく、暴風に吹き流され続ける。
その壮絶な風景を眺めているダンテは、荒れ狂った風に吹かれつつも寄り添っている2人の亡霊に気づく。その2人は、ダンテと同じ時期に生きた人であり、切なくて悲しい邪恋に酔ってしまった男女だ。
フランチェスカはラベンナ領主の娘だったが、政略結婚で近所の町リミニの偉い人、ジャンチョット・マラテスタと結婚させられる。しかし、ジャンジョットは足が悪くて、容姿にも恵まれなかったので、彼女が嫌がりすぎて取引の成立に何らかの支障が出たら困るとみんなが思い悩んでいた。そこで、ハンサムな弟パオロを替え玉にして結婚式が行われたわけだ。
パオロを一目見て、フランチェスカはドキッ。「お父様の政治に役に立ちながら、こんなカッコイイ人と結婚できるなんてラッキー」と舞い上がっていた彼女が真実を知ったのは、次の朝だった。
女には魂があるかどうかすら疑われた中世の出来事とはいえ、それはいくら何でもひどすぎる。しかし、神様の前に誓った結婚を解消することが許されず、フランチェスカは文句ひとつ漏らすことなく、現実を受け入れるしかなかった。ところが、親戚となったパオロ君はいつだって近くにうろちょろしており、フランチェスカに熱い視線を送り続けていた。それはどう我慢できようか……。
2人がランスロットとグィネヴィア王妃の物語に読みふけっていたある日、パオロは自らの感情を抑えきれず、フランチェスカの唇に自らの唇をかすかに触れ合わせた。読んでいた物語もまた、有名な不倫の話なのだが、文学の言葉に誘われるがままに、彼らはついに結ばれていく。
フランチェスカが語る「悲劇」
やがて密会を重ねて、夢中になっていた2人の関係を感づいた夫は、その裏切りに驚愕し、怒りのあまり実の弟と妻を自分の手で殺してしまうのだ。その挙げ句の果てに地獄行きですか? とダンテを責めたくなる気持ちは非常によくわかるが、理不尽だと思っても、人間は神様の定めに対して異議を申し立てることなんぞできませぬ。
暴風が少しだけ止み、ダンテは近づいてきたパオロとフランチェスカに話しかけるが、待ってましたとばかりに、フランチェスカは自らの悲劇を語り始める。
【イザ流圧倒的訳】
Amor, ch'al cor gentil ratto s'apprende
prese costui de la bella persona
che mi fu tolta; e 'l modo ancor m'offende.
アモーレは優しい心にすぐ火をつけます
だからこの人は、私の美しい身体がゆえに欲望に溺れた
奪われてしまったその私の身体、あの時のこと考えただけに心が乱れる
Amor, ch'a nullo amato amar perdona,
mi prese del costui piacer sì forte,
che, come vedi, ancor non m'abbandona.
アモーレは愛された者は同じ気持ちを返さなければ許しません
だから私も恋に落ちたの。そしてその気持ちがあまりにも強すぎたので、
ご覧の通り、今でも私を支配し続けるのです
Amor condusse noi ad una morte.
Caina attende chi a vita ci spense.
アモーレによって私たちは同じ死に至りました
私たちの命を奪った人もまた地獄に落ちることになるでしょう
嗚呼、フランチェスカよ、貴女の運命は悲しすぎたのだ……。イタリア語が一切わからなくても、この3つの段落の字面を見ただけで、激しい感情がひしひしと伝わってくる。地獄に突き落とされても、フランチェスカの頭の中には甘くて、切ない、心を揺さぶるアモーレしかなく、その単語はそれぞれの3つの段落の先頭に堂々と登場する。
引用文の2つめの段落の最初の文ときたら、6単語のうち、3つはアモーレから派生している。名詞に過去分詞、そして動詞にまで使われており、まさに愛の文法がその短い一行に凝縮されているのだ。
それを踏まえた上で、きちんと意味のある文章を作り上げ、かつしっかりと韻を踏んでいるダンテ先生、彼の魔法の筆からスラスラと出てくる言葉の巧妙さについて、今さら何かをコメントする必要はあるまい。
フランチェスカが語る最初のキス
フランチェスカの話に興味をそそられたダンテは身を乗り出して、2人が地獄に落ちた理由について根掘り葉掘り聞いていく。そして彼女は自らの運命を狂わせたその最初のキスに思いを馳せる……。
【イザ流圧倒的訳】
Quando leggemmo il disiato riso
esser basciato da cotanto amante,
questi, che mai da me non fia diviso,
ランスロットが夢中になってずっと求めていた
グィネヴィア王妃の口を覆う、そのくだりを読んでいたの
ちょうどそのとき、いまでも離れることがない彼は
la bocca mi basciò tutto tremante.
Galeotto fu 'l libro e chi lo scrisse:
quel giorno più non vi leggemmo avante».
震えながら私に接吻したのです
私たちの背中を押したのは、その物語とそれを書いた人
その日はもうそれ以上読み進めることはなかったわ
2人の初キスを捉えた絵画はたくさんあるが、このような官能的で美しい文章が数多くのアーティストの想像を掻き立てたのには頷ける。美しくて若い2人は同じ部屋で静かに本を読んでいる。物語にどんどんと引き込まれて、主人公たちの唇が重なる瞬間は、2人の接吻に反復されている。
ダンテ先生本人は、いろいろなところで自らのミューズであるベアトリーチェに対して情熱的な言葉を書き連ね、結婚した後も彼女を依然として崇拝し続けるのだが、やはり文学に絶賛されたからといって、不道徳な恋が決して許されるわけではない。
そのような教訓を強調したかったからこそ、フランチェスカに物語のことを言及させたとも言われている。それを聞いた師匠は一瞬だまり、考え込んでしまうが、認めたくなくても、美しくて可憐な恋も罪であることを改めて確信するのだ。
地獄に落とされた代表的な人たちが自らのストーリーを語る場面はたくさんあるが、フランチェスカのモノローグはその最初の一例である。ダンテは少し質問を挟むものの、彼女の口から放たれる感情的な言葉を遮ることをしない。愛しいパオロも、一言も喋らないで、彼女の隣ですすり泣きし続けるだけだ。
そして、ダンテは、女性の懺悔を聞き、男性の目から溢れ落ちる涙を見て、感極まって気絶してしまう。再び目を開けたら、もう2人の亡霊はどこにも見当たらず、再び強くなった暴風に吹かれていったのだ。
傲慢者が入り浸る煉獄の第一冠を訪れる時に、死んだら自分もそこにいくだろうと自覚していたダンテだが、彼は自らの政治的な敵も含めて、たくさんの人々を容赦なく地獄や煉獄に落としている。神様の教えに基づいた判断とはいえ、そこは1人の人間が勝手に出てくる幕ではない。
しかし、いけないとわかりつつも、ダンテ先生がつい刺々しいコメントを連発し、罪を犯した人々に対して説教したり、批判したりするくだりは少なくはない。そうした中でも、愛に身を委ねたフランチェスカを前にして、さすがの高飛車のダンテ先生も言葉を失って、憐憫の情に打たれて卒倒する。
本物の恋は、人を殺せるのだろうか
ダンテの時代では、不倫の原因はすべて女にあるとみんなが信じて疑わなかったので、パオロが黙って、フランチェスカが饒舌になるという構造自体は自然な流れに沿っているかもしれない。しかし、その洗練された句を読めば読むほど、妄想気味の私はダンテがフランチェスカに弁解のチャンスを与えたかったと思えてならない。
現に、彼女を悪女に仕立てることも容易にできたものの、文学に造形の深い、教養のある人として彼女の品の良さを際立たせている。本物の恋は、人を殺せるのだろうか、という問いにはダンテは直接答えないが、その代わりに愛の代弁者であるフランチェスカを誰よりも魅力的な女性にしていることから、作者自身の心の揺らぎが見え隠れするのである。
ちなみに、パオロとフランチェスカは実在した人物だが、彼らがジャンチョットに殺されたというダンテの記述を裏付ける正式な記録は何一つ残っていないようだ。真実はどうであれ、彼らの恋は燃え尽きることなく、報われなかった恋人たちの涙と苦悩に脈々と受け継がれているのだ。
おかげさまで、私は今まで平凡な人生を送り、唯一のスリルはといえば、文学の妄想に取り憑かれて別世界のことを空想することぐらいしかない。しかし、いつか激しいアモーレが私のドアにノックしてきたらどうだろうか?
それが去っていくまで大人しく待てるか、それとも飛び込んでしまうのか。その究極な選択はダンテ先生でさえ簡単に判断を下すことができなかった。われわれ平民はきっとお手上げだろう。しかし、地獄にいても、暴風に吹かれても、何もかも失っても、フランチェスカの美しさは、くすんだりしていないことだけは確かだ。そして、本物の恋は本当に人を殺せるのか、という彼女の問いは今後も未解決のままで、人々を悩ませていくことだろう。