「後悔だけはしたくなかった」。錦織圭之介さん(38歳)はそう話す。父の病気のため、新卒で入った三菱商事を30歳で退職。家業の出版社「東洋館出版社」を継いだ。それから8年、同社は教育現場を支える本を出し続けている。まったくの異業種から斜陽産業に飛び込んだ決断の背景を聞いた――。

※本稿のインタビューは2020年3月6日に収録しました。

■祖父と父から「家業を継げ」と言われたことはなかった

--錦織さんは東洋館出版社(東京・文京区)の3代目ですね。家業を継ぐことは、いつから意識されていたのですか。

撮影=プレジデントオンライン編集部

父の病気がわかるまで、まったく意識していませんでした。この会社は私の祖父が創業し、父が2代目でしたが、二人から「家業を継げ」と言われたことは一度もありません。

--新卒で三菱商事に就職されています。

就職活動では「自分のやりたいことができる会社に入りたい」ということしか考えていませんでした。私は「社会に貢献できる仕事がしたい」という思いが強く、金額に置き換えて、最大の社会貢献ができるものはエネルギー関連だと考えました。

中東の産油国は、消費税がなかったり、医療費や教育費が無料だったり、手篤い社会保障を提供していますが、それが可能なのは自国に資源があるからです。ならば日本やその周辺にある資源を新たに実用化できれば、この国はもっと豊かになる。そのために「メタンハイドレート」の実用化を仕事にしたいと考えました。採用面接でもそのことばかり話しました。

■父の病気をきっかけに、商社の仕事がますます楽しくなった

--三菱商事に就職が決まったとき、お父さまはどんな反応でしたか。

実は父もかつて商社勤めをしていたんですよ。そして40歳で会社を継いだ。父も商社での生活が楽しかったようで、私に対しても「就職するなら商社がいいんじゃないの」という感じでした。

三菱商事に入社後は、まず数字を読めるようになりたいと思い、最初の2年間は経理を経験させてもらいました。その後エネルギー部門の営業に移って念願だった資源関連の仕事に従事し、毎日本当に楽しく仕事をしていました。

ところがそんな時、父が病に冒されているとわかったのです。5年生存率が数%と言われる膵臓がんでした。それが2007年のことで、父はまだ55歳でした。

その病名を聞かされた時、自分の中で何かが変わったんです。それまで父がいるのは当たり前で、その大きな存在に守られている感覚があった。ところがその父がいなくなるかもしれないと思った瞬間に、「自分は一人で生きていかなければならないのだ」という自覚のようなものが生まれた。そして商社の仕事に対しても、初めて本気になれたんです。もちろんそれまでも真面目にやっていましたが、真剣さの度合いが上がって一層仕事にのめり込んでいくような感覚があった。だから変な話ですが、父が病気になったのをきっかけに、私自身は商社の仕事がますます楽しくなっていきました。

■「何をやり残したら自分は後悔するだろう」と考えた

--その時点でも、ご自分が家業を継ぐとは考えなかった。

撮影=プレジデントオンライン編集部

そうですね。ただ、その一方で父はどんどん弱っていくわけです。体重100kgほどだった父が、あっという間に細くなっていった。そして最後はベッドの上で動けないほど衰弱しました。

父はすごく頑張ったんですよ。亡くなったのは60歳で、病気が判明してから5年間を生き抜いた。ただ、自分自身でも日に日に弱っていく過程がはっきりとわかっただろうし、「なんで自分が」という無念さもあったはずです。そして何より、やり残したことがたくさんあったと思う。「あんなこともこんなこともやっておけばよかった」という後悔がきっとあったはずです。

そうやって死と向き合っている人間を間近に見て、私も改めて「自分もいつか死ぬんだよな」と実感しました。そして、「自分が死ぬ時は絶対に後悔したくない」と思った。では、何をやり残したら自分は後悔するだろうと考えると、それは父の出版社を継ぐことじゃないかと思ったんです。

自分がこれまで生きてこられたのは、東洋館出版社という会社があり、そこで働いてくれる人たちがいたおかげです。私は中学から私立に通わせてもらい、そのくせ学生時代はろくに勉強もせず野球ばかりやっていたのですが、そんな好き勝手をさせてもらえたのも父の会社と従業員の存在があったから。その人たちのために自分は何かすべきだし、それをやらずに死んだら間違いなく後悔するだろう。それで家業を継ぐことを本気で考え始めました。

三菱商事の退職を決断させたのは、東日本大震災だった

--それでも商社は魅力の多い仕事にみえます。一方、出版業は斜陽です。なぜ家業を継ぐことを決断したのですか。

商社での人生は本当に充実していたし、会社というフィールドを使ってやりたいことがやれるというオポチュニティの多さも魅力でした。でも父が段々と弱っていく中で、2011年3月に東日本大震災が起きた。同年9月に三菱商事を退職したのは、震災がきっかけでした。

出版業界が右肩下がりであることは知っていました。でもその時は、ダメならダメでいいと思った。倒産するならしてしまえ、というくらいの気持ちでした。それを恐れてチャレンジしなかったら、死んでも死に切れない。そんな人生を送るくらいなら、たとえ失敗しても父の会社を継いだほうがいい。そう思いました。

もちろん商社にもやり残したことはあるし、正直に言うと、今でも戻りたいなあと思うことがあります。でも、これもひとつの人生ですから。

■「いつか社長になるが、まだ社長ではない」という中途半端さ

--まったく未経験の出版の世界に、3代目の新米社長として転じました。どんな苦労がありましたか。

撮影=プレジデントオンライン編集部

正確には、私が東洋館出版社に入社した時点では父が社長として在籍中でした。そこから父が亡くなるまでの1年間は、「いつか社長になるが、まだ社長ではない」というのが私の立場でした。

当時を振り返ると反省ばかりです。父は抗がん剤の影響で気力体力ともに低下していたので、私は「父の代わりを務めなければ」と会議でもあれこれ意見したんですよ。でも父としては、息子が何を言っても「お前にはまだ早い」と聞く耳を持たない。一方、従業員たちは父と私のどちらを見ればいいかわからず困惑し、社内は混乱しました。

たとえ事業承継を視野に入れたタイミングでも、あくまで船頭は一人であるべきだ。これがその時に学んだことです。それに気づいてからは、会社の置かれている状況や課題を把握することに努めました。

■従業員は真面目で優秀だが、「本気度が足りない」と思った

--実情を把握してみて、東洋館出版社はどんな会社だと感じましたか。

東洋館出版社の事業の意義を実感できたことが私にとっては大きかったです。父はよく「教育は国家の礎である」と言っていました。東洋館出版社は教育書専門の出版社として、なかでも「教科教育」と呼ばれる分野に注力してきた。つまり、学校の先生が授業をする時の参考にしたり、授業の準備を手助けしたりするための本です。

教育には、親が与える教育もあれば、塾や予備校が与える教育もありますが、やはり子供にとって学びの場といえば学校です。だから学校の先生が教える内容がしっかりしていなければ、しっかりした子は育たない。最近は教師の質が低下していると言われますが、だったらなおさら先生たちも良い授業をするために勉強する必要があります。だから先生の学びを手助けし、授業の質を高めることを目的とした出版物を届けることは、私が考えていた以上に大きな社会的意義がある。そう思えたことで、私自身がこの会社に入った意味も明確になりました。

--社長に就任してからは、社内の業務や組織風土をどう変えていったのですか。

うちの従業員は皆、真面目で優秀なんです。そのことで社長の私もかなり救われてきました。ただ一方で、小さな会社だけにムラ社会になりがちな面もあった。何か新しい取り組みを始めても途中で放置され、最後までやり遂げられない。「できなくても仕方ないよね」と従業員がお互いにかばい合い、「それじゃダメだろう」と厳しいことを言う人もいなければ、「絶対にやり抜こう」と強力に推進する人もいない。一言で表すなら、「本気度が足りない」ってことでしょうね。それは大きな課題でした。

■これまでは学校の先生からの「持ち込み原稿」を断れなかった

さらに問題だったのは、編集が持ち込み原稿を断れないこと。うちは教育書専門なので学校の先生からの売り込みが多いのですが、断る勇気が持てず押し切られてしまう。教育の世界は狭いし、これまでのつき合いやしがらみもあったのでしょうが、何でも引き受けていたらつまらなくて売れない本ばかりになってしまいます。

こうした悪しき慣習や社内の空気は断ち切らなければならない。そこで社長になったとき、「私を悪者にしていいから、自分が作りたくないものは全部断れ」と明言しました。「新社長がやるなと言っているから」と私を理由に使えばいいからと。そして著者ではなく読者である先生たちに目を向けて、どんな需要があるかを考え、自分が本当に作りたい本を企画してほしいと伝えました。

出版とは本来そうあるべきだし、それが出版の面白さでしょう? 持ち込まれた原稿をそのまま出すなんて、つまらないじゃないですか。だから意識改革にはかなり力を入れました。

やるべきことをきちんとやらないというムラ社会特有の甘さもあったので、規律も正しました。厳しく引き締めたので、反発して会社を離れて行った人もいます。でも結果的にそれでよかった。社長は本気だと伝わり、社内にピリッとした空気が生まれました。ようやくムラを脱却し、会社としてスタートを切れたわけです。

■社長は監督で、社員は選手

--改革の成果は出ましたか。

撮影=プレジデントオンライン編集部

編集者たちがイキイキと本を作るようになりました。それと共に、全体の売上も底上げされました。以前は売れる本もあれば、まったく売れない本もあったのですが、まったく売れない本がなくなって、どれもまあまあ売れるか、すごく売れるかになった。編集者が作りたいと思うもので、それがニーズに合っていれば、結果は出るということです。それを繰り返すことで編集者は自信をつけ、さらに伸び伸びとチャレンジするようになりました。

本人たちがやりたいと思った企画を、社長の私が却下することはほとんどありません。現場でしっかり議論し、「自分たちはこんな本を作りたいし、需要もある」と判断したなら、社長はゴーサインを出せばいい。

スポーツに例えるなら、「社長は監督で、社員は選手」というのが私の考えです。監督ができることは、選手が伸び伸びと楽しくプレーできる環境を用意することと、責任をとることだけ。もちろんチームとして目指す方向性は示す必要がありますが、あとは選手がやりたいようにやらせるのが監督の役目だと思っています。

■「頑張る先生を応援します」というスローガンを変えた理由

--目指す方向性とは、会社で言えば理念やビジョンに当たります。3代目社長として、社内にどのようなメッセージを示したのですか。

撮影=プレジデントオンライン編集部

父の時代は「頑張る先生を応援します」というスローガンを掲げていましたが、私の代になってから「熱意はきっと子どもに届く」に変えました。変えた理由は、読者である学校の先生たちに寄り添う姿勢を示したかったから。

「頑張る先生を応援します」というのは、われわれの会社がどうするか、つまり主語が“出版社”なんですね。それに学校の先生はすでに十分頑張っているのだから、私たちはその努力をそばでサポートする身近な存在でありたいし、「あなたの頑張りは必ず子どもたちに届きますよ」と伝えたい。常に「先生がどうしたいのか」にフォーカスし、“先生”を主語に物事を考える会社でありたいという思いを新しいスローガンに込めました。

--ビジョンから組織風土、人材、現場の業務まで、あらゆるレイヤーで会社を改革されたのですね。

私は家業を継いだ身ですが、「事業承継」という言葉はあまり好きじゃないんですよ。事業をただ受け継ぐだけでは、会社はいずれつぶれる。新しいことをやり続けて、それでやっと既存の事業を維持できるんです。だから守るべきものは守りながら、攻め続けなくてはいけない。父から受け継いだものを使いながら、その上に3代目としてどんな新しい色を塗っていくのか。それを問われているのだと思っています。

■シリーズ累計100万部の「板書シリーズ」をリニューアル

そのチャレンジの一つとして、2015年から一般書にも進出しました。主にスポーツ分野の本を出していて、最近は書店からも「教育だけでなくスポーツも得意な出版社」と認知されています。社長自らチャレンジし、時には失敗する姿を見せることで、社員たちも失敗を恐れず新しいことにどんどん取り組んでくれるだろうという狙いもありました。実際に、従業員にも良い刺激になっているようです。

--東洋館出版社の柱とも言えるヒット作品が、シリーズ累計100万部を突破した「板書シリーズ」です。学校の先生が授業で黒板に書く内容がわかりやすく図解され、授業づくりのポイントや学習の進め方が丁寧にアドバイスされています。こういう本があれば先生たちはさぞ助かるだろうと感心したのですが、このシリーズが3月に大幅リニューアルしたと聞きました。これも3代目としての新たなチャレンジですか。

「板書シリーズ」は父が社長だった2003年に発売を開始し、東洋館出版社の歴代作品の中でも桁違いのヒットとなった非常に大事な商品です。私は父からそれを受け継いだわけですが、やはりただ承継するだけではいけない。受け継いだものを進化させるからこそ、大事なこのシリーズを守れるのだ。そう考えて、リニューアルを決断しました。

■「先生っぽさ」を優先した本を作り続けるだけでいいのか

一番大きく変えたのは装丁で、かなり大胆にイメージチェンジしました。目立つ色合いに、カッコよくてスタイリッシュなデザイン。これがリニューアルのポイントです。「板書シリーズ」の中身は非常にソリッドで洗練されたものに仕上げています。だからこの本を使えば、先生たちも子供たちの前でカッコよく授業ができます。だったら表紙のデザインも、内容の品質に見合ったものにしたい。それがリニューアルを決断した理由です。

「板書シリーズ」だけでなく、それ以外の書籍についても、すでに何年も前からカバーデザインはかなりスタイリッシュものに移行しています。今までと同じように「先生っぽさ」を優先した表紙の本を作り続けていたら、やはり先生っぽい本を作っている他社の教育書の間で埋もれていくだけ。本は手に取ってもらって初めて売れるのだから、「カッコイイ本だな」「キレイな表紙だな」と外見で興味を持ってもらうことは大事だと考えています。

--社長に就任して8年がたちました。これから10年先、20年先をどう考えていますか。

撮影=プレジデントオンライン編集部

売上や利益は、事業内容に応じた規模というものがあります。だから紙の本を扱う出版社として、その域を超えるほどの数字を目標にしようとは考えていません。それに数字を目標にすると、社員たちがそれに踊らされて、数字のために作りたくない本を作るようになってしまう。それだけは経営者として絶対にやりたくないんです。だから私としては、社員がやりたいことを気兼ねなくやれる会社を作っていきたい。ただそれだけですね。そうすれば結果的に数字はついてくるだろうし、現に今も売上は伸びているわけですから。

私は60歳で社長を引退すると決めています。こんなことを言うと上の世代の先輩がたから生意気だと怒られるでしょうが、やはりその時代に合った物の考え方や経営の仕方があるはずです。それを70代や80代のオジサンが追いかけられるとはとても思えない。

だから自分で期限を決めて、それまでにやりたいことは全部やる。やっぱり最後に後悔だけはしたくないって思うんですよ。

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錦織 圭之介(にしきおり・けいのすけ)
東洋館出版社 社長
1981年生まれ。2004年慶應義塾大学商学部卒業、三菱商事入社。2011年9月三菱商事を退社し、家業である東洋館出版社へ。2012年12月より現職。東洋館出版社は1948年創業。従業員25名(2020年5月現在)。教育書を中心に約2000点の書籍を刊行しているほか、『初等教育資料』や『新しい算数研究』といった雑誌を発行している。
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(東洋館出版社 社長 錦織 圭之介 構成=塚田 有香)