語られてこなかったゴーン被告の父親の意外な過去が過去の新聞報道からわかった(写真:Ammar Abd Rabbo/ABACAPRESS.COM)

「私が驚いたのは、彼は20年もテレビで取り上げられているのに、この話がいっさい表に出てこなかったことだ」。そう言いながら、カルロス・ゴーンの元同級生はコーヒーに視線を落とした。

別の元同級生は、「彼がその話を私にしたことはない。そもそもこちらから聞くことだってなかった」と話す。レバノンの首都ベイルートでは長年、カルロスの父親は“無言の会話”で語られてきた。言葉ではなく、表情を変えたり、肩をすぼめるしぐさでされる会話だ。同情(「大変だったに違いない」)や、非難(「あの父親にしてあの息子あり」)、あるいはその両方を伴って、彼の物語は語り継がれてきた。

何の噂かって? 彼の父ジョージにまつわる噂だ。

新聞の見出しを何度も飾ったジョージ

自伝『世界市民』によると、カルロス少年にとっての英雄は祖父ビシャラ・ゴーンだった。祖父は飢饉のために、ベイルートの北に位置する山岳レバノンのサルバ村を離れ、ブラジルに渡った。その地で富をなし、カルロスの父ジョージを含む8人の子供をもうけた。

日本経済新聞の「私の履歴書」によると、カルロスは幼少期にリオデジャネイロからベイルートへ移り住んだ。当初、父親はブラジルに残って仕事をしていた、としている。

が、その父ジョージの名は、1960年にフランス語の主要メディアだった日刊紙ロリアンの大見出しを数回飾っている。その年、カルロスは6歳で、父は37歳だった。

4月22日のロリアンの一面の大見出しにはこう記されている。「ソーファーで発見された謎の死体は密輸に従事する神父。両替商ジョージ・ゴーンなど5人の共犯者を逮捕」。同紙によると、ブロス・マサド神父はジョージら共犯者の助けを借りてダイヤモンド、金、貨幣、麻薬を密輸しており、4月17日に射殺された。

同紙によると、撃ったのはおそらくジョージで、理由はおそらく金銭トラブルである。動機としては、マサドはガーナで手に入れベルギーで売り抜けたダイヤモンド1.5キロの売却収益25万レバノンポンドをジョージに支払う必要があった。神父が経済事案に関与するのはショッキングな話ではない。レバノンでは長い間、神父は在外コミュニティーと故国にとどまる人たちとの間の銀行サービスを提供していた。

事件の3日後にジョージは逮捕された。事件は何度かロリアンの一面で取り上げられた。「ジョージ・ゴーンは殺人事件への関与を否定」と、日刊紙の大見出しに記されている。後に警察は、マサド神父を最初に撃った容疑で第2の男を逮捕した。だが、その男は、ジョージが「2発目を撃って、殺害した」と主張した。

7月14日に、捜査判事は被告2人に死刑を求めた。1カ月後、同紙はバーブダ刑務所でのジョージの辛苦について報じている。伝えられるところでは、ジョージは到着するやいなや看守に賄賂を渡した。「彼らをかわいそうに思ったから。彼らは私のところにやってきて嘆き、悲しんだ。彼らを救うことができると思ったからそうした」と、裁判官に説明している。

脱獄に失敗したジョージ

ジョージは刑務所の主となり、半ば自由に過ごした。前述からわかるように、この刑務所は“ざる”だったので、囚人と看守は近所の賭博場によく遊びに出かけた、とロリアンは報じている。

実際には、ジョージは資力を生かして、脱獄の準備を整えた。脱獄は8月4日の明け方に実行された。共犯者らはブリキ屋から盗んだのこぎりで10日かけて窓格子の桟を2本取り外して通路をこしらえ、(ジョージの殺人の共犯者を含む)囚人11人が脱走した。だが、脱獄者たちはジョージを……置き去りにした。

看守が発見したとき、ジョージは「マットレスの上にじっと座って、何本もタバコを吸っていた」とロリアンは報じている。ジョージは、「私は眠っていた。警察官の叫び声がして、それで目が覚めた」と説明した。

ロリアンは別の見方も示していた。脱獄者がこしらえた通路は肥満体のジョージには狭すぎた。本当に脱獄を望んでいなかったのでないとしたら、共犯者の脱獄を準備して、その代わりに自身の殺人罪を免れさせる手紙を書かせるつもりだったのではないか、と同紙は後に推測している。脱獄の数日後に、ジョージは囚人47人を率いて、ハンガーストライキを行った。同刑務所はジョージをベイルートの要塞刑務所に移送した。

裁判は1960年10月6日に始まった。法廷はジャーナリスト、見物人、そして、ベイルートや故郷の村から「バス3台とタクシー15台」でやってきた殺害された神父の親戚でいっぱいになった、とロリアンは報じている。ジョージは1人で裁判に臨んだ。共犯者とされる者は逃亡しており、不在のまま裁判が行われた。その共犯者はその後も捕まることはなかった。

1961年1月9日、ジョージはマサド神父殺害の共犯者で、教唆(きょうさ)したと認定された。そして、死刑を宣告された。判決を聞いたジョージはその場に倒れ込んだと、ロリアンは翌日の一面に判決の前と後の顔写真を掲載して報じた。

父親のことはいっさい話さなかった

判決によると、聖職につくことになっていたジョージは、20年前に神学校のベンチでマサド神父と出会った。それから何年も後にナイジェリアのラゴスで偶然再会し、密輸で得られる莫大な利益を約束して神父を堕落させた。

ジョージのせいでマサド神父は、アフリカ、欧州、アジア間で貨幣、ダイヤモンドその他の禁制品を運ぶ、最も「怪しまれない運び屋」になっていた。だが、ジョージは、神父の殺害を決意した。あまりに欲深くなって、ジョージを騙そうとしたからだ。

裁判官は、ジョージが神父の殺害を統率したと結論づけている。ジョージは殺人に立ち会ったが、発砲はしなかった、ともしている。「こうした事情があったこの殺人は、新聞の大見出しを飾り、刑法第549条に従ってジョージ・ゴーンを予謀殺罪で死刑とした」と、傍聴したロリアンの記者は淡々とした筆致でつづっている。

父が死刑を宣告されたとき、カルロスは7歳だった。当時、彼はベイルートにある超名門のイエズス会系のコレージュ・ノートルダム・ドゥ・ジャンムールに通っていた。「イエズス会士と過ごした年月は私にとってとても重要なものだった。私は規律や、競争と卓越の感覚を学んだ」とカルロスは語っている。

小学校のときは手に負えない児童だったカルロスは、中学・高校ではおとなしい生徒になって、よい成績をとり続けた。父親のことは?「その話はいっさいしなかった」と、ある元同級生は話す。別の元同級生は、絶対にその話をしないように、と学校側からたいへん厳しい指示があったことを覚えている。

1962年12月20日、控訴審で死刑判決が破棄され、ジョージは15年の有期刑に減刑された。そして、1970年11月に刑務所から釈放された。

ゲーム終了? すっかりというわけではない。釈放の4カ月後にジョージはまた逮捕された。今度はベイルート中心部ハムラ通りのホースシューカフェでだ。買い手を装った警察官にはめられたジョージは、3万4000ドルの偽札を所持しているところを見つかった。

刑務所から釈放されて以来、ジョージはイタリアから輸入した印刷機で偽札を刷っていた。「逮捕されるまでに100万ドル分の偽札を流通させていた」と、ロリアンは報じている。

逮捕翌日にジョージは、刑務所のドアから引きはがしたアルミニウム片で手首の静脈を切り裂いて自殺しようとしたという。

ロリアンは当時の記事の再掲や、これについてのコメントはしていない。今回、筆者が当時の新聞記事の写真を利用したいと問い合わせたところ、拒否された。

父親の葬儀にはひっそりと参加

同級生によると気性が穏やかだったというカルロスは、勉強に情熱を燃やしていた。1971年、17歳のときにパリに出て、リセ・スタニスラス入学に備えた。

1972年11月27日、ジョージは再び判決を言い渡された。今回は3年の有期刑だった。その年、カルロスは18歳の誕生日を迎えている。1974年2月、20歳のときに10人ほどの外国人とともにエコール・ポリテクニークに入学。学生証の「国籍」欄には「ブラジル」と記載した。「彼はレバノン人ではなく、ブラジル人と付き合っていた」と、当時の親友は振り返る。

その後、ジョージが新聞で大きく取り上げられることはなくなった。ベイルート市民は、1975年の内戦勃発の混乱に乗じてブラジルに戻ったと推測している。ある友人によると、ジョージの葬儀は2006年ごろにリオデジャネイロのサン・フランシスコ・デ・パウラ教会で執り行われた。妻ローズは列席していた。そして、息子カルロスも。

(敬称略)