「美空ひばりの息子」という運命、没後30年をプロデュースした加藤和也の半生
9月29日、『NHKスペシャル AIでよみがえる美空ひばり』という番組が放送された。七色の声をもつといわれたひばりの声をAIで再現、彼女自身が歌ったことのない新曲を披露したのである。ひばりにゆかりのある人たちが見守る中、AIによって「美空ひばり」は見事に再現された。歌声を聴いて慟哭に近い姿を見せていたのが、息子である加藤和也(48)だった。
【写真】記念館になっているひばり邸、幼いころの家族ショットほか
母の“仕事場”、劇場で育った幼少時代
不世出の大歌手だった美空ひばりが亡くなって30年。加藤はまだ16歳だった。母亡きあとの30年にわたる月日を、彼はどうやって過ごしてきたのだろうか。
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東京都目黒区青葉台─。美空ひばりがかつて過ごした家が、今は記念館になっている。その応接室に現れた加藤は、穏やかな実業家というイメージだ。
「あのAIには参りましたね。紆余曲折を経たけど、最後はおふくろの声そのものだった。科学技術ってすごいなあと感心するしかありませんでした」
応接室には、かつて美空ひばりが座っていた椅子がカバーをかけて大事に置かれている。30年間、誰も座ることのないまま、部屋の中心に椅子はある。
「おふくろが亡くなったときは、ものを考える余裕がまったくありませんでした。メディアに気づかれないうちに病院からおふくろを家まで運び入れることしか考えていなかった。静かな環境で家に入れてあげたかった。泣いている暇もなかった気がしますね」
加藤は「おふくろ」と呼ぶが、彼は美空ひばりの養子である。ひばりの弟・哲也さん夫婦の長男として生まれた後、両親が離婚。物心つく前からひばり宅で過ごしていた。ひばりとは一卵性母娘と言われた祖母・喜美枝さん、ひばり、運転手や付き人、お手伝いさんなど多くの大人たちに囲まれて育つ。来客も多い家だった。
美空ひばりは、「ファンがいるところに自分から行く」タイプのアーティストだった。毎年、全国ツアーがあり、名古屋の御園座や東京の新宿コマ劇場では2か月公演も珍しくなかった。どこへ行ってもチケットは売り切れる。加藤が幼いころ、ひばりはツアーに彼を連れて行った。
「劇場で育ったようなものです。おふくろの仕事場ということはわかっていても、まだ小さい僕にとっては遊園地でした。いたずらもしましたね。本番直前に音響の目盛りを全部めいっぱいに上げてしまったり、ドライアイスを各フロアのトイレに放り込んで3フロアくらい真っ白になってしまったり。そのたびにおふくろには叱られました」
家でもときどきいたずらをしていたらしい。お手伝いさんとして家事万端を取り仕切っていた辻村あさ子さん(69)が当時を振り返る。
「いたずらがひどかったとき、かーくん(和也)をボイラー室に入れちゃったことがあるんです。哲也さんにも厳しくしつけてほしいと言われていたので。だけど、あとから自分でボイラー室に入ってみたら狭いし暗いし、小さかったかーくんはさぞ怖かっただろうと思って(笑)」
それでも決してのびのびと育ったわけではない。常に大人に囲まれていたから、いたずらをしながらも“空気を読みまくる子”だった。心から親切にしてくれる人、いい顔をしながらも内心、邪魔だと思っている人を見分ける力は鍛えられた。
ひばりの付き人だった関口範子さん(79)は、こんなエピソードを覚えている。
「周りはお嬢さん(ひばり)がかーくんを溺愛して甘やかしたというけど、意外と厳しかったですよ。劇場から帰るとき、お嬢さんは車の窓を開けてファンの方たちに手を振るんです。隣に座っているかーくんは、仕事が終わったのだからママを自分だけのものにしたい。だからその手を押さえる。そうするとお嬢さんは、“ファンの方たちがいるから、ママは大好きな歌を歌うことができるの。ママが歌を歌えるから、あなたもちゃんとごはんが食べられるのよ”と丁寧に言い聞かせていました」
1年のうち3分の2近くは劇場に出ていたひばり。だが自分が幼稚園に入ると地方には連れていってもらえなくなる。5歳の加藤は、幼稚園の入園試験ではテスト用紙に何も書かず、平均台を歩くテストでも乗らなかった。
実父との交流は心の支え
「それでも幼稚園には受かってしまったんですが。それ以来、家にはいつも誰かがいたけど、おふくろたちがツアーに出てしまうと僕はひとりで食事をするような生活。地方に行っているなら、まだあきらめもつく。都内の劇場に出ているのに、なかなか会えないときは寂しかったですね」
加藤に大きな影響を与えた実父の哲也さんは、加藤が4歳のとき銃刀法違反で2年の実刑に。だが出所後は、加藤の心の支えになっていた。
「おふくろの許可を得て、よく父のところには遊びに行ったり泊まりに行ったりしていました。親父はけっこうべらんめえなしゃべり方をするタイプで、“てめえのことばかり言うんじゃねえ”“てめえなんかエラくないんだから勘違いするな”とよく言っていましたね。
いま思うと、美空ひばりという人のために家族は振り回されざるをえなかった。親父も『美空ひばりの弟』という立場が窮屈だったんじゃないでしょうか。でも、出所後は、おふくろの舞台のプロデュースをばあちゃんと一緒にするようになって生き生きしていました」
哲也さんは本当に心優しい人だったと、お手伝いの辻村さんは言う。
「地方ツアーに私はついていきません。かーくんが学校へ行くと、哲也さんは“今日はオレが何か作ってやるよ”と食事を作ってくれたり、“たまには映画でも見ておいで”とお小遣いをくれたり。あまりに優しすぎたから、いろいろな人につけ込まれたんじゃないでしょうか」
その優しさは、加藤にも受け継がれていると辻村さんは言う。彼が小さいとき、熱を出して寝込んでいた辻村さんのもとに、ビニール袋に氷を入れて額にそっとのせてくれたのだ。
「今思い出しても、たまらなくうれしかった」と彼女は言う。
祖母、そして実父の死
甥にあたる加藤とひばりの間に養子縁組が法的に成立したのは、加藤が7歳のとき。玉川学園の附属小学校に入学したその年だった。
「学校から帰ったら、ばあちゃんとおふくろが待っていて、ここに座りなさいと。ピンときましたよ。週刊誌もあったし噂も聞いていた。親父とおふくろが姉弟なのはヘンだし。でも、ずっと『ママ』と呼んでいたおふくろから、はっきりと養子だと聞かされて複雑な気持ちにはなりました。部屋に帰って泣いたのは覚えています。悲しかったわけじゃないけど、ヘンな孤独感がありました」
美空ひばりは、時間があれば学校行事にも参加していた。入学式には、加藤とともに電車を乗り継いで学校まで行った。地方へ行くときは、加藤に語りかけるテープを残して行った。交換日記を始めたこともある。母になろうと一生懸命だった大歌手の素顔が見えてくる。
加藤が見ているテレビのアニメなども一緒に見ていた。
「僕に付き合ってくれているのかと思ったら、僕がいなくても『北斗の拳』などをおもしろがって見ていましたね。偏見のない人でした。歌だって、ジャンルに優劣があるとは思っていなかった。パンクロックなども、すすめると聴いていました」
何度も一緒に遊園地に行ったが、1時間でも2時間でもきちんと並んだ。特別扱いを嫌う母だった。
加藤が10歳のとき、美空ひばりにとってもっとも大切なマネージャー兼プロデューサーであった祖母が亡くなる。そして、波乱に満ちた加藤の10代が始まった。
「ばあちゃんが亡くなった2年後、今度は親父が亡くなりました。親父はばあちゃん亡き後、おふくろを支え、自主興行をやろうとがんばっていた。美空ひばりにジャズを歌わせたのは親父です。演歌以外を歌うことにファンのみなさんには葛藤があったと思うけど、親父は明らかに美空ひばりを活性化させましたね」
加藤は父と2日後に焼き肉に行く約束をしていた。体調を崩して入院はしていたが、それほど早く逝ってしまうとは……。まだ42歳の若さだった。すぐ帰宅するようにと学校で言われた加藤は、駅のホームで親子連れを見かけ、緊張の糸が切れて号泣した。
「僕が10歳のころ、クリスマスにふたりでタキシードを着て赤坂のコパカバーナというクラブに行ったことがあるんですよ。連れて行かれたという感じだったし、子どもにはおもしろくない場所だから、僕はすぐに帰ってしまったけど、親父は男同士でそういうところへ行きたかったんでしょうね。大人になってから、いろいろ話したかったなと思うことがあります」
加藤はしんみりとそう話す。さらに2年後、今度はひばりの末弟である武彦さんが亡くなる。同じく42歳だった。
「このころからおふくろは酒量が増えていったんです。母と弟たちに相次いで死なれて、つらかったでしょうね。僕も急に寂しくなった」
荒れた思春期、中高時代
中学に入り、加藤は自立心が芽生えていく。ひばりに口答えすることも多くなった。勉強はそれほど好きではなかったが、担任と気が合い、学校が楽しかった。一方でバレーボール部に入り、弱小チームを大会で優勝させる立役者になったりもした。
当時の加藤の様子を、玉川学園の2年後輩であり現在の妻である有香さんはこうふり返る。
「私たちは当時、彼のことを“美空加藤”と呼んでいました。運動神経はよかったけど、とがった一匹狼というイメージでした。彼はバレー部、私はバスケ部で、コートが隣同士。ボールがバレー部のほうに行くと、彼は怒るんだけど、私がボールを取りに行ったときは、彼、きちんと手渡してくれた。案外、優しいんだなと思った記憶があります」
心の中に誰も想像できない孤独を抱えた少年だったのかもしれない。それでも中学時代は担任に甘えられたし、チームスポーツなどで捌け口があったのだろう。
ところが高校に入ると様子が変わってくる。外部からも生徒が入り、教師も「大人」として接するようになる。
「もともと学校は好きだから朝早くから行っているんだけど、授業に出る気になれずにサボってしまう。先輩たちとつるんでいたものの、折り合いが悪くなって、生意気だと言われて“先輩風吹かすんじゃねえ”と言い返したり」
そして、ついに校内でケンカをし、相手をケガさせてしまう。胸ぐらをつかんだら手をねじられ、その痛さでキレてしまったのだという。後日、ひとりで相手の家に謝罪に行き、父親に許してはもらったものの、無期停学になった。高校に入学して2か月もたっていなかった。
そのころ、母ひばりは全国ツアーに出ていたが、最終日の福岡で、脚の痛みと気分の悪さを訴えて緊急入院した。
「どうせ停学だし、だったら福岡へ行こうかな、と。そのときはそれほど重い病気だとは思っていませんでした」
ところが福岡へ行ってみると、大腿骨骨頭壊死と肝硬変という病名を告げられる。身内は加藤だけだったから医師の説明もひとりで聞いた。
肝硬変の原因は酒だった。「飲みすぎを止められなかった」ことを今も加藤は悔やんでいる。だが、ひばりの立場になれば数年の間に母親と弟ふたりに死なれてしまったのだ。飲まずにはいられなかったことは容易に察しがつく。
今でも忘れない、沈黙の10秒間
治療は順調に進み、夏には退院できた。そして翌年春の東京ドームこけら落としでの『不死鳥コンサート』が決まるのである。
「僕は無期停学が解けて試験を受けにひと足先に帰京したんですが、テストはまったくできないし、学校をやめてもいいかなと思っていました。夏休み明けに授業をさぼったら職員室に呼び出された。先生たちがずらりと並んで、僕がやめますというのを待っている雰囲気があったんです。なんだか寂しかった。大好きな学校だったのに。それでキレちゃったんですよねえ」
ごちゃごちゃ言うんじゃねえと叫んで、ポケットからタバコを取りだし教師の目の前で吸いながら、「こんな学校、やめてやらあ」と職員室を出た。生意気でしたねえ、と加藤は含み笑いをする。
意気揚々と学校を出たものの、さて、母にどう報告するか。駅の公衆電話の前を何往復もしたという。結局、電話できたのは1時間半後だった。
「おふくろは勘のいい人だから、“どうした? 何かあった?”って。学校をやめてきたと言ったら、10秒くらい沈黙がありましたね。次に“で、どうするの?”と。友人とバンドを組んでパンクロックをやっていたので、音楽の勉強をしたいと答えました。“あんたね、学校へ行くより大変よ。最終学歴が中卒じゃ苦労するわよ”と言われました。それでも、最後には“次のことを考えられるなら、いいんじゃない?”と。見ていないようで、おふくろは僕のことを見てくれていたんだなと思いましたね」
その後、ひばりは体調を崩していく。それなのに翌'88年の東京ドームでの『不死鳥コンサート』は伝説に残るステージとなった。相当、具合が悪かったにもかかわらず、舞台は完璧だった。
「脚をひきずりながら歩いているおふくろにずっとついていたから、どんなにあのコンサートが大変だったかわかっていました。僕がおふくろの家に来た意味も考えていた。ドームが終わったとき、5万5千人の鳴りやまない拍手が、おふくろを今後も全力で歌に向かわせることにつながると感じました。その瞬間、自分の気持ちがはっきり決まったんです。金髪にしていたのを黒髪に戻し、スーツを買ってある日、おふくろに“手伝わせてください”と頼みました。16歳でした」
ひばりは泣いて喜び、周囲に「私、この子に任せたから」と宣言した。
東京ドームで見事な復活を果たしたひばりに、全国からコンサートの依頼が殺到する。放っておいたらひばりは全部、引き受けかねない。だからこそ、加藤は自分が歯止めになるしかないと決意したのだ。それが運命なのかもしれないと思ったという。
17歳直前、母・ひばり逝く
5月から始まったツアーに加藤は帯同し、裏方として必死に働いた。同時にひばりプロダクションの副社長に就任、「将来、好きなことをしなさい」とひばりが関連会社を作ってくれた。息子が一緒に仕事をしてくれることが本当にうれしかったのだろう。
「おふくろは僕の意見を素直に聞いてくれました。翌年のツアーも、専属のプロモーターに頼むのをやめてひばりプロダクションで自主興行という形をとった。それで大騒動を巻き起こしてしまったけど、おふくろの病状を考えながらツアーの日程を決めていくしかなかったので、あれは正しかったと今でも思っています」
プロモーターにしてみれば、ひばりのコンサートができるかどうかは死活問題だ。長年、築いてきた関係もある。昨日や今日、副社長になった若造に何がわかるかという気持ちもあっただろう。加藤は海千山千の彼らに真摯に対応した。会社の細かな事務仕事も全部覚えようと必死だった。彼には常に完璧に仕事をする美空ひばりの血が流れていたのである。
'88年の不死鳥コンサートから1年後、自主興行のツアーが始まった。スタートは、以前倒れたときお世話になった福岡だ。当時の医師に診察してもらうと、思ったよりひばりの具合は悪かった。彼女はどんなに高熱があってもステージに上がって歌ってきたし、無理も重ねてきた。だから調子が悪くても訴えることはなかったのだ。
「おふくろに無理をさせないスケジュールを組みながら、誰にも病気のことは知られないようにしなければならない。誰かに話したらメディアに漏れる。ひばりが重病だと悟られてはならないんです。17歳のガキですからね、けっこう大変でした」
最終的な病気は特発性間質性肺炎だった。大腿骨や肝硬変も治ってはいなかった。横浜アリーナのこけら落としコンサートが決まっていたが、加藤は中止を決め、ひばりを説得した。ひばりは泣く泣く、ファンのためではなく息子のために生きる選択をする。
一方、加藤も複雑な思いだった。ひばりが元気なら、彼は仕事を手伝わなかった。病気になったからプロデュースすることになったのに、肝心のひばりの身体はもう歌うことに耐えられなかったのだ。
母ひばりは'89年、彼が17歳になる直前に鬼籍に入った。泣く暇もなく、彼は「美空ひばり」を守らなければいけない立場になる。ひばりを過去の人にしたくない、生きているときと同じように歌を広めたかった。
ひばりプロダクションの社長として仕事をするかたわら、知り合いで憧れの人だったブルースシンガー・大木トオル氏のもとで裏方として働くようになった。荷物持ちをし、マイクスタンドを運び、バンドの下働きをする。
誰か信じられる人のもとで新しいことを始めなければ自分自身を保てなかったのではないだろうか。この仕事は6年ほど続けたという。だが、心の中は荒んでいた。自分の会社にアーティストがいるわけではないから、学んだ技術を生かす場はない。会社に行っても何をすべきかわからない。家にいるときは抜け殻のようになっていた。
彼のことを子どものころから知る、元スポーツ紙文化部長の小西良太郎さん(83)は、のちに当時の彼の気持ちの一端を聞いたことがあるという。
「そのころは車に逃げ場を求めていたらしいですね。けっこう無茶な運転をして死にかけたこともあるけど、死んでもいいと思っていたって。10代で4人の身内に死なれて、美空ひばりという大きな呪縛を背負った18歳。そう考えると痛々しくてたまらないよ」
「美空ひばりの息子」という覚悟
22歳のとき、彼は運命の再会を果たす。先輩に連れられていったクラブで、玉川学園時代の後輩で、俳優・浜田光夫氏の娘である有香さんと会ったのだ。彼女は母が始めたラウンジを立て直すため、クラブに変えて経営をしていた。大学との二足のわらじだった。
「私を見るなり“あんた、こんなところで何してるの”って。“こんなところって失礼じゃないですか”というのが再会して最初の会話でした(笑)」
加藤はその後、店に来るようになり、3度目に結婚しようと言った。有香さんは冗談だと思ったが、彼は本気だった。とがった一匹狼だった学生時代の加藤が、そのときは生きてることに疲れているように見えた。
「不良のように言われていたけど、学内で傷ついた小鳥を見つけて先生に“助けてやって”ともっていく優しさをもっていた。その優しさは変わっていませんでした」
有香さんの両親も大賛成。2年後には一緒に住むようになり、正式に結婚した。
「うちはごく普通の家なんですよ。食卓があってテレビがあって、家族みんなでごはんを食べて。彼が私の実家に来て、寝っ転がってテレビを見ているのを見たときはうれしかった。いつも周りを見ながら気を遣って、評価されなくてもいいから嫌われたくないと思って生きてきた彼が、すごく無防備な姿だったから。ずっとひとりでがんばってきたんだなと感じましたね」
伴侶を得た彼は、ようやく精神的に落ち着いていく。有香さんは中学生になったばかりのころ、テレビで美空ひばりの歌を聴き、心を震わせたことがあった。それ以来、「崇拝している」のだそう。「ファン目線」をもっている有香さんに、加藤も徐々に頼るようになった。誰も信じられず、ひとりで「美空ひばり」を守っていくしかないと覚悟を決めた加藤が、ひばりの十三回忌の大イベントから有香さんに意見を聞くようになったのだ。有香さんも店を辞めて、ともにひばりを守ることを決めた。
内に向いていた目が、外に向かって開かれるようになっていく。前出の小西さんは、ひばりさんが亡くなって10年ほどたったころ、突然、加藤から連絡があって再会したのをよく覚えている。
「スーツを着て深々と頭を下げて、“あなたはばあちゃんやおふくろと付き合ってきた人だけど、僕が甘えてもいいだろうか”と。10年彼なりにがんばってきたんだろうけど、漠然と不安があったんじゃないですかね。ひばりさんのイベントを今後どうやっていったらいいかも含めて、これからのことを相談されました。この10年、苦労したんだなとわかった。何があったかは知らないよ。彼はそういうことは言わないから。あいつの魂の遍歴は、オレにとっても謎なんだ(笑)」
ひばりの子であり、プロダクションの社長であり、ひばり伝説を継承していく立場は決して平坦な道ではない。
「それでもあいつは不良だから、奥歯噛みしめてやせ我慢してるんだと思う。美空ひばりを守るというのは、生半可なことじゃありません」
加藤と有香さんの間に子どもはいない。加藤は欲しがらなかったという。自分に子どもがいたら、「美空ひばりを守る」後継者にせざるをえない。それを彼はおそれたのではないだろうか。
さりげなく粋で、気遣いの人
2001年から始まった『マネーの虎』というテレビ番組に、加藤はレギュラー出演する。一般人が自分の夢や目標をプレゼンし、出資者から投資してもらうのだ。加藤は投資する側の「虎」のひとりだ。そこで彼は、世界一のパスタ料理店を開きたいと語った立花洋さん(62)に、980万円をポンと投資した。ほかの虎たちが採算がとれないと危惧していたのに、加藤は「おいしいパスタを食べてもらいたい」という彼の「まっすぐな人柄」だけで大金を出した。自分と似たものをもつ立花に入れ込んだのかもしれない。
立花さんはその後、湘南地域で4店舗を経営、一時は年商2億円までいった。
「社長(加藤)は、“僕を銀行だと思ってください”と言ってくれました。金は出すけど口は出さない、と。ただ、店名だけはピンとくるものにさせてほしい、と。たくさん考えたけど、どれも社長は首を傾げて。何度目かにうかがったとき、僕が出した『ラ・パットーラ』(パスタと居酒屋を意味するイタリア語・ベットーラを合わせた造語)に“それだ!”って。ほかのことにはまったく何も言わなかった」
開店するたび、大きな花が届いた。ときには「今日はたまたま近くまで行くので、ちょっと寄っていいですか」ということもあった。
「料理を食べると、最後にのし袋を差し出すんですよ。たまたま来たわけじゃない、ちゃんとお祝いを用意してくれている。しかも、お店の子たちにジュースを買ってあげてと別にくださる。本当に社長は気遣いの人、しかもさりげなく粋なんです」
ところが2年前、立花さんは後継者と決めていた人物に裏切られ、金を横領されて逃げられた。失意の中、すべての店舗を閉鎖したという。
「この先、どうしようか。もう働く気も起こらなかった。缶コーヒーを飲みながら毎日、ぼんやり海を見ていました。そんなとき、加藤社長が昔、騙されたり裏切られたりしたと聞いたことを思い出したんです。詳細は言いませんでしたけど、商売をしているとそういうこともあるよ、と。僕とはスケールが違いますからね、大勢の人が寄ってきたり離れていったりしたでしょう。社長はよく乗り切ったなあ。それだったら、僕ももう少し別の道でがんばってみるかと思えるようになったんです」
「美空ひばりの息子が〜」からの解放
美空ひばりの付き人であった関口範子さん、齋藤千恵子さん、お手伝いの辻村あさ子さんは、ひばり記念館で今も暮らしている。ひばりが亡くなったときも、加藤から「これからどうする」という言葉はまったくなかった。
「お嬢さんが犬好きだったんです。社長は私たちがボケないようにと、10年前に子犬を連れてきてくれた。専務(有香さん)は、敬老の日に長寿の木をくれたんです。だからもうちょっと長生きしそうですと言ったら、社長がそれはよかったって」(辻村さん)
加藤は、「あの3人がそのままいるのは、本当になりゆきなんですよ」と笑うが、ひばりのために尽くしてくれた3人を放り出す気など、さらさらなかったに違いない。
情の濃い加藤は、自分を産んでくれた母が体調を崩していると聞いて会い、何度も食事をともにしたという。母が逝ったときは自宅の仏壇に頭を突っ込み、「母ちゃんがそっちへ行ったから、仲よくしてやって」と言ったそうだ。
彼は昨年、肝炎と膵炎で突然倒れた。全身が真っ黄色になり、集中治療室に入れられて口もきけない状態だった。自身も死を覚悟したが、2週間半後、急に起きて歩くことができた。20キロやせたものの、検査結果は完全に回復。医師も驚いていたという。その一件以来、酒を控えるようになった。まだ死ぬわけにはいかないのだ。
ひばりを守るだけではなく、不世出の歌手をきちんと伝えていかなければいけない。
今年の『第70回NHK紅白歌合戦』では、AI技術によって再び美空ひばりのステージが蘇ると話題だ。また、ファンである有香さんは、ひばりが日系移民のために開いたコンサートの足跡をたどって、ハワイ、ロス、台湾、ブラジルでイベントを成功させたいという夢をもっている。
「今も、僕はばあちゃんと親父が羨ましくてたまらない。僕も、美空ひばりをプロデュースしたかった。
おふくろはもういないけど、忘れ去られることが怖いんです。だから美空ひばりをさらに発展させていくためにどうすればいいかを考えています。それができるのは僕と有香しかいませんから」
加藤が何かを始めたら、「美空ひばりの息子が〜」と必ず言われる。それを避けるために、彼はどこかで自分を押し殺していた。だが有香さんだけは、「好きなこと、やりたいことをしてみたら?」と言い続けてきた。
ひばり没後30年の節目、死をも覚悟した急病からも復活した今なら、「美空ひばりの息子」を気にせず、やりたいことを楽しめると加藤は感じたのかもしれない。たまたま、仕事で知り合った日本コロムビアの早坂昌也さん(50)とパンクロックの趣味が一致、バンド活動を始めるつもりだという。
「もうひと暴れする気になったと和也さんも言っています。何をやっても“パンクですから”って言い訳できますし(笑)」(早坂さん)
美空ひばりの息子として生き、ひばり伝説を守り続けてきた彼が、これからは自分のためにも人生の時間を使えるときが、来たのかもしれない。
取材・文/亀山早苗(かめやま・さなえ)1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、貧困や格差社会など、幅広くノンフィクションを執筆。歌舞伎、文楽、落語、オペラなど“ナマ”の舞台を愛する