人生100年時代だからこそ、いざという時に支え合い、誰か頼れる人がいるという安心できる社会を築くべきでは?(写真:motortion/PIXTA)

孤独は健康に悪影響をもたらす。世界では今、孤独が「現代の伝染病」として、大きく取りざたされているが、日本では、孤独がポジティブにとらえられがちだ。

著書『世界一孤独な日本のオジサン』の中でも述べたように、寂しく不安な思いであるlonelinessの「孤独」は、1人の時間を楽しむsolitudeとはまったくの別物。健康を害すると言われているのはロンリネスのほうの孤独である。

ロンリネスの孤独は自立・独立の意味ではなく、物理的に独居や独身であるかなども関係はない。頼る人も支えてくれる人もいない「孤児」のような不安定な精神状態を指している。

人間は本来、群れの中で生きる社会的動物であり、そこからはぐれることは精神的に大きなストレスを与えられると言われている。「1人の時間が楽しい」と感じる人は問題がないが、孤独の不安や寂しさを長期にわたって我慢することは、心身にとって決して望ましいことではない。

「孤独」は社会的なつながりの欠如から生まれる

時として孤独に耐えたり、1人で沈思黙考する時間も必要だが、人生100年時代に、20年も30年も「孤独」を感じながら生き続けることは容易ではない。「孤独を愛するものは野獣か、そうでなければ神である」とは哲学者アリストテレスの言葉である。虐待やいじめなど、日本の多くの社会問題のB面にはつながりの欠如、孤独という問題が隠れている。


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誰にでも居場所があり、寄り添う人がいる社会を目指しているイギリスなどの国々と比べ、日本ではまったくこの問題に手が付けられていないのが現状だ。50万人とも100万人ともいわれる「引きこもり」の問題も、こういった観点から解決策を見いだそうという機運もない。

最近は、定年退職後に引きこもる男性も増えている。川崎市に住む中橋実さん(66歳、仮名)はそんな「孤独の恐怖」と葛藤する1人だ。中橋さんは都立高校で30年以上、教鞭をとって60歳でリタイヤした。現役時代は、不登校の生徒の家を訪ね、相談にのったり、心中しようと失踪した生徒を、東北まで追いかけていったほどの「熱血教師」。仕事はまさに天職で、生徒に頼られ、やりがいを感じる毎日だった。

退職後はボランティアでも……と考え、昔関わった団体に足を伸ばしたが、考え方が合わなかった。仕事を失って感じたのは、「誰もが自分をないがしろにしている」という感覚だ。現場で仕事をしている時は「それなりにきりっとしていた」。しかし、仕事を失うと、「自分は何者でもない」という無力感にさいなまれるようになった。

その焦燥感に追い打ちをかけるように腰を痛め、激痛に苦しめられた。医者からは「車いす」もありうると宣告され、不安が募る中、ゆっくりと杖を突いて歩いていると、歩行者や自転車に乗った人からは「邪魔だ」という目線や言葉をぶつけられる。「社会から排除されるべき存在なのか」と、すさまじい孤独感に襲われた。

「孤独は美徳」「孤独を楽しめ」といったあまたの孤独万歳本も手に取ってみたが、どの著者も、結局はつねに取り巻きに囲まれている有名人。「地獄のような孤独の本当の苦しみを味わったことのない人ばかり」。慰めにはならなかった。

身体が不自由になってくると、世間の冷たさが特に身に染みる。もしかしたら、悪意を持っていないのかもしれないが、すべての人が自分に敵意を持っているようにも感じてしまう。くすっとした笑いが「嘲笑」に思えた。

「クレーマーは怒りもあるが、寂しくて誰かと話したくて電話をしているところがある」。銀行の窓口で行員に話しかけている高齢者を見ると「誰も話を聞いてくれないから、聞いてくれる人がいることがうれしいのだろうな」と想像した。

「俺は〇〇商事の取締役だったんだぞ」と路上で言いがかりをつける男性、電車の中で大きなベビーカーを通路をふさぐように止め、スマホをいじり、ほかの乗客の迷惑を顧みない女性……。そんな姿を見るたびに腹が立ってたまらなくなった。「暴走老人はリスペクトされないことへの怒りが生み出している」。小さなことでもキレてしまうようになった自分に嫌悪感を覚え、自分もそんな風になってしまうのではないかと悶えた。「孤独は人を阿修羅にする」。絶望感しかなかった。

家以外の「居場所」を探そうとした

家には同じ教師をしていた年下の妻がいて、退職後は専業主夫として、料理、洗濯、掃除をこなしてきた。優しい妻がいるだけマシなのかもしれないが、それでも、家以外の「居場所」がないことが寂しく、むなしいのだ。せっかくの教師の経験を活かしたいと、ボランティアの口を探したが、個別に学校などに申し入れても、受け入れ先は見つからない。

地域のつながりを作ろうと、マンションの住人にあいさつしても、露骨に不機嫌な顔をされることも多い。マンションに、障害のある子どもを持った母親がいた。障碍者の教育にも携わった経験もあることから、「何かお手伝いすることがあったら言ってくださいね」と声を掛けたら、マンションの管理人から、知らない住人には声をかけないでほしいと注意された。

コンビニで、女性店員にサービスを褒めたら、露骨に嫌な顔をされた。ピアノを習いたいと近所で教師を探したが、男性を家に上げるのは抵抗があると断られた。

どんなに歩み寄っても、拒絶される。八方ふさがりの状況で、ただただ、虚無感だけが募っていった。そんな漆黒の暗闇の中で、最近、一筋の光を見いだした。

ネット上で見つけたある曲に惹かれ、その歌い手に連絡をとってみたところ、80代のその男性が直接歌を教えてくれるというのだ。1週間に1回通い、思いっきり声を出して歌う。「生きるっていいね」などと声に出すと、活力がみなぎってくるのを感じる。「歌の力はすばらしい」。もっと練習して、高齢者施設などを回って、人を励ましたり元気づけられたらいいな、そんな夢も持ち始めた。

今のもう1つの生きがいは、かつての教え子と話すことだ。いまだに慕って連絡をくれ、相談にのることがある。ブラックな職場に勤め、疲弊しきった若者の話などにじっくりと耳を傾ける。「何か小さいことでも役に立つという感覚が生きがいになる」と感じる。腰も少しずつよくなってきた。まだ60代。できれば、誰かの何かの助けになりたい。何らかの手立てはないものかと思いをめぐらせている。

人生100年時代だからこそ支え合える社会に

孤独は「喪失」と深い関係性を持つと言われている。若さ、仕事、パートナー、健康……。老若男女を問わず、誰にでも訪れる「危機」だから、海外では、多くの人が自分の問題として捉え、高い関心を集めている。

もちろん、すべての孤独が問題なのではないし、時として、孤独に向き合い、折り合う勇気も求められるだろう。しかし、もし、その孤独が本当に胸をえぐるような痛みをもたらすものであり、それが慢性化してしまうリスクを抱えた場合、個人として忍従を強いるだけではなく、社会として、何らかの対策の方向性を見いだしていく必要があるのではないか。

地域や家族といったこれまでのセーフティーネットが崩壊し、これからは多くの人が「一人」で生きていく時代になる。一人で生きる強さを身に付けながらも、いざという時に支え合い、誰か頼れる人がいるという安心感を担保していたいものだ。

例えば、アメリカでは退職後に、自分の特性や特技に合わせて、ボランティア先をマッチングしてくれるサービスや、退職者たちの活動の受け皿となるNGO、NPOが星の数ほど存在する。

イギリスでは国を挙げて、高齢者や若者向けの孤独対策に取り組んでいる。一方で、つながりの社会資本が極めて脆弱な日本では、このままいけば、誰もが洞穴に閉じこもる「一億総孤独」社会になりかねない。人生100年時代に向けて、支え合いのあり方を真剣に議論すべき時ではないだろうか。

「寄り添う人がいるなら、求めるものがあるなら、無限にうれしく思う。それこそ共生」。中橋さんは最近、なじみの曲にこんな詩をつけて歌っている。「共に生きる」。そんな当たり前の価値観が過去のものとなるディストピアの世界は、実はそう遠くないのかもしれない。