「今年は2000本安打を達成することができました。しかも本拠地の千葉で多くのファンの方の前で達成できたので本当に嬉しかったです。でも一方で、チームは5位に終わってしまいましたからね。僕自身、もっとチームの勝敗に貢献できる働きができていればという悔しさが残るシーズンでもありましたね」

 シーズン終了後のZOZOマリンスタジアム。今年この場所で2000本安打を達成した福浦和也がしみじみと振り返った。


今シーズン、プロ野球史上52人目の2000本安打を達成した福浦和也

「一時は諦めていた2000本を打てたことも周りの人たちのおかげです。井口(資仁)監督、鳥越(裕介)ヘッドを含め、チームのみんながいつも声を掛けてくれたことも力になりました。打席に立つたびに記録が近づくたびにファンの人もたくさん見に来てくれましたし、あれだけの歓声を送ってくれた。最後は声援で打たせてもらったと言っていますけど、本当に最後は気力で打てたと思います」

 愛されて四半世紀──今シーズン、幕張の町ではそんなコピーとともに刻まれた”福浦安打製造所”の作業着を着たマリーンズファンの姿をちょくちょく目にした。

 千葉県習志野市出身。習志野高校から卒業する前年千葉に移転してきた千葉ロッテに入団した。生まれてこの方、千葉を出たのは3年間の浦和の寮生活だけ。マリーンズひと筋25年で、2000本安打を達成した福浦をファンは”俺たちの福浦”と謳(うた)う。マリーンズにとって特別な選手であるだけでなく、現代の野球界におけるフランチャイズプレーヤーとして、最たる存在であることがわかる。

「僕がここまでやれるなんて誰も思っていなかったでしょうね。当の本人ですら想像が及びませんでしたから(笑)。あの、背番号70のひょろひょろピッチャーがよくここまで続けてこられたと思います。たしか入団時の目標は『1日も早くマリンのマウンドに上がる』でしたからね。

 僕、(習志野)高校時代に一度もマリンで投げたことがなかったので、なんとかピッチャーで頑張りたかったんですよ。半年ほどで、山本功児さんに『バッターになれ』と言われてしまいましたが、最初は転向が嫌で逃げ回っていましたからね。でも、その言葉がなかったら、今の僕はここにはいなかったわけですからね」

 93年ドラフト7位──福浦のプロ野球におけるキャリアは、その年の最後に名前を呼ばれた”最下位指名選手”からはじまった。

 世代の一番下から入団した福浦は、今シーズン中日の岩瀬仁紀、同じ昭和50年生まれの西武・松井稼頭央が引退したことで、来季からは巨人の上原浩治とともに球界最年長の冠をいただく。

 それは同年代の野手では誰よりも長く現役を続けた選手の意味でもあるが、福浦は”球界最年長”という言葉には率直に「嫌ですね」とかぶりを振る。

「僕の同級生には、高橋由伸や松井稼頭央、上原浩治とか、すごい選手がたくさんいました。僕にとって彼らはライバルなんですけど、それ以上に特別な存在です。やっぱり負けず嫌いだったんでしょうね。僕なんて打つだけですから『バッティングだけは絶対に負けたくない』という思いを常に持ってやってきました。同級生とは一緒のグラウンドに立っているだけでも楽しかったんですよ。ピッチャーと対戦したり、一塁に出塁してきた選手と言葉を交わしたり、めちゃくちゃ意識はしていました。

 とくにカズオくん(松井稼頭央)の存在は大きかった。ルーキーの時から二軍でも一緒にやってきましたからね。ここ最近はご飯を食べに行くたびに『1年でも長くやれるように一緒に頑張ろう』とずっと言っていました。2000本も彼の前で打てましたしね。花束を持ってきてくれた時も、『来年も一緒に頑張ろう』って思っていたら……辞めちゃった。全然知らなかったんですよ(笑)。まぁ、さみしくなりますけど、こればっかりはさみしくとも各々の人生ですから、しょうがないですよね」

 ロッテ選手の2000本安打は、球団生え抜きの左打者として同じ”安打製造機”の異名を持つ求道者、榎本喜八氏以来の偉業。42歳9カ月での到達は、元中日・和田一浩氏に次ぐ2番目の年長達成である。

 しかし、多くの関係者は福浦の打者としての価値は数字以上のものがあると口を揃える。福浦が師と仰ぐ故・山本功児氏は生前「本来ならばもっと早く2000本を達成できる選手。ただ、どんなに腰が悪くても決して痛いとは言わずチームのために試合に出続けた」とよく口にしていた。

 福浦とともにプレーしたOB選手も「足がない福浦のヒットは、ほとんどが完璧に捕えたもの。同じ2000本でも価値が違う」と、打者として最大級の賛辞を送る。

 そんな福浦の25年の野球人生を以てしても「バッティングはわからないことだらけ」と言う。

「掴んだように思えても、すぐにすり抜けていく。若い時は『何とかヒットを打って一軍に残りたい』とただがむしゃらに喰らいつき、レギュラーになれば”打って当たり前”と見られているなかで結果を残していく難しさがありました。

 首位打者を獲った頃は『こう振れば、こう打てるんだな』とか、『こうやって力を抜けば、そこに落ちるんだな』という”ヒットを打つコツ”を掴みかけたことはなんとなくありました。振ればヒットになるような、いわゆるゾーンに入る感覚もありました。

 だけど、そう簡単に掴ませてくれるほど甘くなかったということですね。ベテランになってからは、なかなか思い描くような動きができなくなっていきますが、その世界を一度見てしまうと、またあの場所を目指そうとする。何度も試してはみたのですが、やっぱりなかなか。

 また、代打になったことで4打席あったものが1打席での勝負になり、対戦する投手はセットアッパーやストッパーになる。同じ”ヒット”ではあっても時代時代で、まったく違った意味があったと思います。年数を重ねていくうちに、1本の重みというものをより感じるようになりましたね」

 1本の安打を打つために若い頃はチームの誰もが認める練習量で力をつけてきた。やがて年を重ねると、慢性的な腰痛や首痛など身体の不調と付き合いながら、ケガをしない調整や体調管理でコンディショニングに細心の注意を払ってきた。

 不動の一塁手がDHとなり、代打とチーム内での役割が変わっていくなか、43歳となったベテランは、形が変わろうとも、その1打席に掛ける準備への姿勢は変わらない。

「準備も練習もこれでいいというものはないと思うんです。若い時はがむしゃらに練習をしても、それに耐えられる体力がありましたが、年を重ねていくとそうはいかない。身体のコンディションも、日によって全然違いますからね。今日調子がよくても、翌日には『バットが重い』『身体が重い』となってしまうことも珍しくない。身体の調子を見極めながら、今日はどれぐらいやれば、一番いい状態で打席に向かえるかですね。

 年齢を重ねていくと、やっぱり凡打の内容が変わってきたように感じることがあります。以前まではいい当たりができていたものが、最近では三振が増えていたり、差し込まれていたりします。相手の攻め方を見ても、年を取るとついていけなくなる”速い真っ直ぐ”の割合がやっぱり増えています。

 僕自身、年齢のことはあんまり言われたくないけど、周りはそうは見てくれませんからね。だから、僕は逆に速い真っ直ぐを狙いに行きますよ。まだ引っ張れますから(笑)。肉体で衰えるところは、頭の方で補うようになっていると思います」

 一般的にベテランになってからの2000本は、記録達成を区切りにして引退する選手も少なくないなか、福浦は来季も現役を続けることを選んだ。

「辞める選択もなきにしもあらず……でした。だけど、もう少しやりたかったんです。今年も夏場に二軍に落ちました。朝は早いし、グラウンドはめちゃくちゃ暑いし、体力的には厳しいですよ。だけど、僕はそこでも野球の楽しさというものを感じることができた。もちろん、一軍でやるのが当たり前でなければいけないんですけどね。

 やっぱり、あのマリンの大歓声を聞いていたら、このままでは終われないですよ。この人たちの前で1本でも多くヒットを打ちたい。リーグ優勝を果たして、ZOZOマリンで井口監督を胴上げしたいという心残りがどうしてもありますからね」

 最後に求めるものはチームの優勝と井口監督の胴上げ。福浦は2005年のマリンガン打線、2010年の史上最大の下剋上と二度の日本一を経験。そして1998年の18連敗と、マリーンズの強い時も、弱い時も知り尽くしている。ここ数年低迷するチームが優勝するために必要なものは何かという質問に「今のチームも個々の選手の能力は決して劣らない」と即答した。 

「昔から勢いに乗った時のうちは本当に強い。それは今も同じだと思います。個々の能力や意識が、日本一になった時の選手に劣るということはないと思います。ただ、今の子は性格的にマジメで、気持ちの優しい子が揃っている気はしていますね。今の選手たちだって乗ればガッといく力はあるんです。だけど、ちょっと負けが込むと沈んでしまう。そういう時に恐いものなしで前に進める、西岡剛みたいな若い選手が出てくるといいですよね」

 現役26年目のシーズンとなる2019年は、頭から二軍打撃コーチを兼任する。安田尚憲(ひさのり)、藤原恭大(きょうた)など、将来のマリーンズを背負って立つ若い左打者を育てる指導者としての役割を求められるなか、1人の打者としても負けるつもりはさらさらない。

「まずは自分がグラウンドに立ち続けることです。まだバリバリ振れるし、飛ばせるという姿を見せること。そして若い選手たちに、チームが勝つという経験をさせてあげたい。僕が2000本を打った時、みんな我がことのように喜んでくれた。あの喜びを、次は優勝で分かち合いたいと思います。自分の引き際がどういうものになるのかはまだわかりませんが、自分の中でやり切ったと思える時がユニフォームを脱ぐ時なんでしょうね。

 だけど、僕は欲深いんです。やっぱりいくつになっても、全部の打席でヒットを打ちたい。杖をついて打席に立っても……って言ったら、さすがに怒られますかね(笑)。だけど1日でも長く、日本の、千葉の、ZOZOマリンで、ずっとヒットを打ち続けられるように頑張りたい。それが今の正直な気持ちですね」