インバウンドの街に変貌した秋葉原に古参のオタクは何を思うのか。(PIXTA=写真)

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■なぜ秋葉原から「本当のオタク」がいなくなったのか

世界有数の電気街として知られる東京・秋葉原は、テレビやPCなどの家電からコンデンサや抵抗器といった電子部品まで、機械なら何でも手に入るだけでなく、アニメグッズやゲームセンター、メイドカフェなどサブカルチャーの街としての側面も持つオタクの街。それが一般的なイメージだろう。

しかし、今の秋葉原の実態は観光客向けの形骸化した萌えとインバウンドの街であり、オタクの街ではない。それが秋葉原に10年以上通う私の意見だ。

現在ではPCパーツや電化製品はECサイトの価格競争により、秋葉原で買ったほうが安いという状況はほぼなくなり、すぐに欲しいという状況以外では秋葉原で買う理由を見出せない。もちろんセールで最安値になることもあるが、かつてのように、フラッと訪れても得な買い物はできない。

全盛期の秋葉原は、店員もオタクだった。商品のことを尋ねると、自らの経験やマニア同士の評価を踏まえ、強い熱量で商品の説明をしてくれた。

中古スマートフォン販売店で某社のスマホを買おうとした私に対し「カタログ上の数値は優秀だけど、すぐに熱暴走するので使い勝手は悪いです。やめたほうがいい」と商売っ気のない、それでいてここ以外のどこでも聞けない、ありがたいアドバイスをしてくれたことは、今でもはっきり思い出せる。

そして映画「電車男」のブーム後、秋葉原という街にスポットライトが当たるにつれ、秋葉原の魅力でもあったグレーゾーンは「内輪同士で秘めるもの」から「その存在を拡散するもの」に変わり、縮小の一途を辿った。

知識がなければ何に使うのか見当すらつかないようなPCパーツや、国内での使用は電波法に触れる拡張機器、これまた使い方によっては法に触れる「マジコン」などを扱う店は思い出の中にしか存在しない。“西のアキバ”として知られる大阪・日本橋には、グレーゾーンに入るような商品などを扱う店が散見され、昔の秋葉原を思わせる。

もちろん、モラルや法に反するものを排斥することや、誰にでもわかりやすい説明をすることは間違ったことではない。ただ、欲望と理性が同居する薄暗かった店が明るい飲食店になっているのを見ると寂しい気持ちになる。

■大資本が経営するメイドカフェが乱立している

萌えの形骸化も深刻だ。メイドやAKB48を秋葉原で見ることについては、拒否反応を起こすオタクが多かったと思うが、私自身は嫌いではなかった。内向的なオタクにとって「ただ、自分の中で消化する」というコンテンツは、相性が悪くないように思えたし、萌えに秋葉原はうまく順応できた。

メイドカフェが流行り始めた当初は、働く女性のプロ意識がいい意味で低く、メイドという設定と女性の性格が起こす化学反応が面白かった。文化祭のようにチープな店内で、メイドカフェとは何なのかを自分なりに解釈する。客の想像力に委ねられた世界は、他のどこでも味わい難いものであったように思う。

しかし、メイドカフェに外国語のメニューが置かれ、トリップアドバイザーに登録されるころには、大資本が経営するメイドカフェが乱立していた。店内には“初めての秋葉原”に浮かれる観光客と、紋切り型の役割を演じるメイドが増え、その場を解釈する余地はなくなっていった。

■観光客向けのフィギュアは、市場価格より数倍高い

インバウンドの流行も、街を変化させた。駅前の家電量販店では中国語の話せるスタッフが店内を巡回し、駅前のレンタルショーケースには外国人観光客が買うことを期待しているのか、市場価格より数倍高いアニメのフィギュアが並ぶ。

外国人に迎合したものが増えるたびに、マニアックな話のできる店員も、ショーケースに並ぶ非売品のフィギュアも少しずつ減っていく。

この街を、意思を持った1つの生命体として捉えたとき、街が進化しようとする方向性に我々オタクが組み込まれていなかったようだ。私にとってはつまらない街でも、ほかの誰かにとって楽しい街であれば、それは秋葉原が誰かに求められていることにほかならない。秋葉原を訪れるたびに寂しい気持ちに襲われようと、私はこの街の行方を最後まで見届けたい。

(フリーライター 山野 祐介 写真=PIXTA)