「生きた脳細胞」の活動を3Dモデル化、データベースを無料公開──米研究所が挑む「壮大な計画」の始まり
てんかん[日本語版記事]の患者や腫瘍性脳障害の患者にとって、ときには下へ下へと突き進むことが回復への唯一の道となる。頭皮の下、頭蓋骨の下、健康な灰白質の下へとメスを入れ、腫瘍や過剰に活性化して発作を引き起こしている神経ネットワークを切除する。手術が終われば、切除された余分な白質や灰白質はごみ箱、あるいは焼却炉行きになる。
だが、すべてが捨てられるとは限らない。少なくとも、シアトルでは。
シアトルの多くの病院の医師たちはここ数年、こうした脳のかけらや塊を保存して氷の上に固定したあと、大急ぎで白いヴァンに載せてアレン脳科学研究所に送ってきた。同研究所の研究者たちは脳組織を生命維持装置につないで延命し、個々のニューロンの形状や活動、相互作用を観察する。そして研究所は2017年10月27日、これらの細胞を見ることのできる無料データベースを初めて公開した。
そのデータベースを見ると、ヒトの脳内の神経回路をかつてないほど詳細かつ緻密に観察できる。だが、これははるかに壮大な計画の始まりにすぎない。最終目標は、ヒトの脳細胞の完全カタログをつくりあげることにあるからだ。
今回初めて公開されたのは、数百の生きているニューロンの電気生理学的記録だ。サンプルはすべて、最近シアトル近辺で脳神経外科手術を受けた36人の患者の脳から切除されたもの。このうち100個のニューロンについて、研究者たちは分岐構造を再現した3Dモデルを作成した。
このモデルの特徴は、電気的な活動パターンをシミュレーションできることにある。研究者たちは、ニューロンが脳内部のどこからどこまでに位置しているかを確認したり、神経ネットワーク内を電気が流れシグナルが伝わる様子などを自分の目で見たりできる。そのシグナルは筋肉を動かすものかもしれないし、記憶をつくりだすものかもしれない。
「つい30分前まで、それは誰かの脳の一部だったのです。もしかしたらファーストキスの記憶を保持している部分だったかもしれません」。アレン脳科学研究所の代表兼主任研究員、クリストフ・コッホはそう話す。「健康な脳組織の活動を個々のニューロンのレヴェルで分析するというのは、まったく前例のない試みです」
ようやく研究が進んだニューロンの発火
ヒトの脳の研究にはさまざまな厄介事がつきものなので、脳のマッピングのほとんどは、マウスや死後のヒトの脳組織を基に行われている。死んだ脳細胞からでも、染色して形態の特徴を記録することで、細胞のかたちについて多くを学ぶことはできる。だが、神経回路の機能については何もわからない。それらはもはや発火(細胞が活動電位に達すること)することはないからだ。
そのため、手術後の脳細胞を延命して活動を維持するために、医師たちは豆粒サイズの組織を氷漬けにしている。脳組織は、代謝速度を落として劣化を防ぐため、凝固点の一歩手前(約4℃)に保たなければならない。
アレン脳科学研究所に到着したサンプルを、研究者たちは、ひとつがシリコンウェハーほどの厚さの何十という薄片にスライスする。それぞれの薄片は、研究所で独自に開発された生命維持機能を備えた特殊な容器に納められる。小さなバスケット状のこれらの容器の中心では、超小型ポンプが生命維持のために酸素の泡を吐き出している。
脳組織を活性させられる時間はわずかだが、研究助手のジョナサン・ティンらはその間に個々のニューロンを分離し、ガラス電極で刺激する。ニューロンと電極の間にギガオームシールと呼ばれる非常に強固な接着を形成することで、微小な電気刺激に反応したニューロンの発火を記録できるのだ。
発火パターンの一つひとつは、ニューロンに固有の特徴を示す[日本語版記事]ため、その機能を特定するのに役立つ。こちらのニューロンは思考を形成し、こちらは感情を生み出す、という具合にである。
「150年の間、神経科学者はニューロンを外見的特徴で分類していました」と、ティンは言う。しかし、人が見かけによらないのと同じで、外見だけでどこまで本当に理解できるだろう? どんな話し方や行動をして、どんなソーシャルネットワークを形成するのかといった特徴を知れば、人物像はもっと明確になる。
「神経科学も同じです」と、ティンは言う。「わたしたちはようやく、形態、電気的活動、遺伝子発現を結びつけ始めたところなのです」
ヒトの脳はまだまだ未知の領域
アレン研究所のデータベースには、電気生理的記録と3Dモデルに加えて、約1万6,000個のニューロンの遺伝子発現情報も収められている。
「シングルセル・トランスクリプトミクス」と呼ばれる新興分野の研究者たちは、さまざまな種類の脳細胞において発現しているすべての遺伝子を研究対象としている。そして米国立衛生研究所(NIH)は17年10月23日、アレン脳科学研究所およびその共同研究グループに、今後5年間で1億ドルの研究予算を承認し、形態、生理的特性、接続特性、遺伝子発現に基づくヒト脳細胞の分類研究を奨励した。
ただし、研究予算の大部分は、マウスの脳細胞の完全分類アトラスをつくるプロジェクトに使われる。これは哺乳類では初の試みであり、13年に米国政府が打ち出した「脳イニシアティヴ」の一環となる。
この計画の目標は、脳神経回路に関する理解を深め、てんかん、アルツハイマー病、筋ジストロフィーといった疾患の新たな治療法確立に役立てることにある。カリフォルニア大学バークレー校の細胞生物学者ジョン・ガイは、アレン研究所およびほか4つの研究機関と共同で、今後5年間でマウスの脳のすべての細胞を記録・分類することになっている。
マウスの脳は角砂糖ほどの大きさで、アレン研究所に運び込まれるヒトの脳組織と同じくらいである。だが、ヒトの組織サンプルとは異なり、前頭葉から延髄まで、すべてのパーツが揃っている。ヒトの脳ほど複雑ではないが、恒温動物初の脳細胞完全カタログをつくるうえでは、シンプルに越したことはない。
それで、未知の部分はあとどれくらいなのだろう? 「ほとんど全部です」と、ガイは言う。「今後5年間で知見を倍増できるはずですが、それでも99.9パーセント以上は未知のままです」
こうした脳マッピングプロジェクトの本当の目標は、ヒトの脳のハードウェアを解明することだ。ヒトに特有の脳機能について何らかの洞察が得られるかどうかは、幸運を祈るほかない。