「べっぴんさん」149話。視聴率が急降下したのは、先週で最終回だったと思った人が多いからか
連続テレビ小説「べっぴんさん」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)第26週「エバーグリーン」第149回 3月30日(木)放送より。
脚本:渡辺千穂 演出:安達もじり
戻ってきた藍(渡邉このみ)にすみれ(芳根京子)は、夢のお告げにならって、うまく言葉にできないことに傾聴しようとする。
「べっぴんさん」大ピンチ! 148話の視聴率は18.1%だった。
たぶん、何人か、先週で終わったと思っているのだ。まだ終わってないから戻っておいでー。
さて、149話では、紀夫(永山絢斗)が藍(渡邉このみ)遺言みたいなことを言った。
「(写真はみるひとによって変わるもので)優しさや幸せを感じることができた藍の心が豊かなんや。
その豊かな心をずっと持ち続けていなさい」
この台詞は視聴者への制作側の言葉にも聞こえる。
「べっぴんさん」を良いなと思う人は心豊かな人らしい。では、がんばって心豊かにレビューしたいと思います。
「子育ては思うようにいかないけれどそれがまた楽しい」という亡き父母の言葉を頼りに、自分の過去を例に出し、辛抱強く、優しく、心の声を聞こうとすると、藍は「写真に写った人は、みんな優しい顔してた、みんなの幸せな顔を残せるんだろう」と思って中身を見たくて分解したと告白する。
塾へは、流されて行ったものの、行く意味がみつからず行きたくなくなったとも告白。こちらは、藍の様子に戸惑っていたさくらにも見覚えのある経験で、ようやく娘に心を開くことができた。
「目には見えなくてもずっと見守っているよ」とはな(菅野美穂)の言葉どおり、「子供の成長を見届けることができず亡くなってしまったお母さんの言葉」が何十年経って、ひ孫の代にも役に立つ。
「べっぴんさん」は、最初に亡くなってしまったはな代表とする、時の流れのなかにたくさん存在する志半ばで亡くなってしまった人たちがのことが通奏低音になっているように見える。
死はけして無ではない。死んでもなお「おまえらはお父さんお母さんの“べっぴん”や」(五十八)と肯定してくれる父母に力をもらうすみれは、その気持を子供や孫に託す。
先祖代々の写真が並び、見守ってくれている気持ちを感じながら、「きょうだいっていいねえ」と思うすみれとゆり。「幸せいうのはひとりだと感じられんもんなんやな。誰かと分かち合えてこそや」と満足そうにつぶやく潔(高良健吾)。
このドラマの高良健吾を観ていると、彼が出演した若松孝二監督の遺作で中上健次の小説を原作にした映画「千年の愉楽」(2013年)を思い出す。「生まれて死んで生まれて死んで・・・」という人間の営みが描かれていた。「べっぴんさん」も甘い作風に見えて「生まれて死んで生まれて死んで・・・」を「淡々と」見つめたドラマのように思う。
一方で、「おまえらはお父さんお母さんの“べっぴん”や」や「幸せいうのはひとりだと感じられんもんなんやな。誰かと分かち合えてこそや」とかあったかい共感も狙う。いろいろな体験や感覚をもった人たちに響くところをつくる苦労が偲ばれるが、あっちにもこっちにも配慮し過ぎかなあと思う。その配慮を美しくひとつの作品にまとめあげるのがものづくりであって、インタビューなどで「見た人によって違う感覚云々」と話すのならまだしも、作品のなかで登場人物に託して防御しているように見えて、なんか、なんかな・・・です。でも、こんなふうに感じるのはドラマ的にいえば、私の心が狭いだけってことなんでしょう。そうなるともう何も言えなくなりますね。あと、2回、心豊かになりたいです。
(木俣冬)
脚本:渡辺千穂 演出:安達もじり
149話はこんな話
戻ってきた藍(渡邉このみ)にすみれ(芳根京子)は、夢のお告げにならって、うまく言葉にできないことに傾聴しようとする。
「べっぴんさん」大ピンチ! 148話の視聴率は18.1%だった。
たぶん、何人か、先週で終わったと思っているのだ。まだ終わってないから戻っておいでー。
「(写真はみるひとによって変わるもので)優しさや幸せを感じることができた藍の心が豊かなんや。
その豊かな心をずっと持ち続けていなさい」
この台詞は視聴者への制作側の言葉にも聞こえる。
「べっぴんさん」を良いなと思う人は心豊かな人らしい。では、がんばって心豊かにレビューしたいと思います。
「子育ては思うようにいかないけれどそれがまた楽しい」という亡き父母の言葉を頼りに、自分の過去を例に出し、辛抱強く、優しく、心の声を聞こうとすると、藍は「写真に写った人は、みんな優しい顔してた、みんなの幸せな顔を残せるんだろう」と思って中身を見たくて分解したと告白する。
塾へは、流されて行ったものの、行く意味がみつからず行きたくなくなったとも告白。こちらは、藍の様子に戸惑っていたさくらにも見覚えのある経験で、ようやく娘に心を開くことができた。
「目には見えなくてもずっと見守っているよ」とはな(菅野美穂)の言葉どおり、「子供の成長を見届けることができず亡くなってしまったお母さんの言葉」が何十年経って、ひ孫の代にも役に立つ。
「べっぴんさん」は、最初に亡くなってしまったはな代表とする、時の流れのなかにたくさん存在する志半ばで亡くなってしまった人たちがのことが通奏低音になっているように見える。
死はけして無ではない。死んでもなお「おまえらはお父さんお母さんの“べっぴん”や」(五十八)と肯定してくれる父母に力をもらうすみれは、その気持を子供や孫に託す。
先祖代々の写真が並び、見守ってくれている気持ちを感じながら、「きょうだいっていいねえ」と思うすみれとゆり。「幸せいうのはひとりだと感じられんもんなんやな。誰かと分かち合えてこそや」と満足そうにつぶやく潔(高良健吾)。
このドラマの高良健吾を観ていると、彼が出演した若松孝二監督の遺作で中上健次の小説を原作にした映画「千年の愉楽」(2013年)を思い出す。「生まれて死んで生まれて死んで・・・」という人間の営みが描かれていた。「べっぴんさん」も甘い作風に見えて「生まれて死んで生まれて死んで・・・」を「淡々と」見つめたドラマのように思う。
一方で、「おまえらはお父さんお母さんの“べっぴん”や」や「幸せいうのはひとりだと感じられんもんなんやな。誰かと分かち合えてこそや」とかあったかい共感も狙う。いろいろな体験や感覚をもった人たちに響くところをつくる苦労が偲ばれるが、あっちにもこっちにも配慮し過ぎかなあと思う。その配慮を美しくひとつの作品にまとめあげるのがものづくりであって、インタビューなどで「見た人によって違う感覚云々」と話すのならまだしも、作品のなかで登場人物に託して防御しているように見えて、なんか、なんかな・・・です。でも、こんなふうに感じるのはドラマ的にいえば、私の心が狭いだけってことなんでしょう。そうなるともう何も言えなくなりますね。あと、2回、心豊かになりたいです。
(木俣冬)