長谷川穂積が選ぶベストバウト。「日本武道館が水を打ったように…」
デビューから引退までの17年という長さは、長谷川穂積にとってどういう感覚なのだろうか。1999年の初試合から、リングに上がること計41回――。その17年のキャリアを自身に総括してもらった。
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長谷川穂積が17年間のボクシング人生を振り返る長谷川穂積インタビュー@後編
―― 世界チャンピオンになれると思ったのはいつですか?
長谷川穂積(以下:長谷川) 明確に覚えてます。ウィラポンに挑戦(2005年4月16日)する直前です。それまでは、「なりたい」とは思っても、「なれる」とはまったく思わなかったんで。それでも、判定で勝ったデビュー戦の後に、「目標は世界チャンピオンです」って堂々と言ってるんですよね(笑)。
長谷川 自分が特別だとはまったく思ってないです。アマチュア経験もなく18歳でプロになり、キャリア5戦の時点で3勝2敗。日本ランカーにすらなれないんじゃないかと思ってました。
―― 少しずつ、実力と自信をつけていった感じですか?
長谷川 徐々にですね。実際1個、1個、勝っていくしかないですから。それが積み重なっていく。これ勝った、これ勝った。気づいたら、「あ、本当に世界戦が決まった」くらいの感覚です。「これで勝ったら、本当に世界チャンピオンや」みたいな。
―― しかし、当時のチャンピオンのウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)は、辰吉丈一郎選手や西岡利晃選手など、名だたる日本人ボクサーを退け続けた絶対王者でした。
長谷川 ですね。相手が世界チャンピオンだと思うと緊張するじゃないですか。だから、「タイの噛ませ」や思って試合をしたんです(笑)。めっちゃ覚えてるんですけど、そう思うと全然怖さもなくて、4ラウンドくらいまで「弱いな」と。でも、5ラウンドからウィラポンが前に出てきて、そっから、ちょっとしんどかったですね。
―― 3-0の判定勝ちは、想定内でしたか?
長谷川 正直、採点はまったくわからんかったんで、この試合に関しては運がよかったなと思いました。判定負けだったとしても、不服なく受け入れていたし。今日は運がよかったなと。
―― なるほど。
長谷川 ただ思い返せば、ちょうど僕がジムに入ったころに、ウィラポンが世界チャンピオンになったんです。「いつか挑戦したい」って言ってたんですよね。みんな笑ってましたけど。ウィラポンはそのまま6年間チャンピオンを守って、本当に挑戦できた。言霊なんですよ。思ったこと、なりたいこと、全部叶ってきてるんで。デビューしたとき、友だちに「チャンピオンのまま引退する」とも言ってたんですよね。
―― チャンピオンになってから1年後、ウィラポンと再戦(2006年3月25日)しています。
長谷川 うわっ、絶対負けるって思いましたね、1回戦って強さを知ってるんで、もう「噛ませ」だとは思えない。しかも、あんな強かったのに、(前回の)1回目は計量を失敗してる。俺を舐めてた部分もあったと思うんです。きっと今度は万全でくる。ヤバッ、思って。
まあでも、負けたら負けたでしゃあないなと、ずーっと思ってました。試合中も、「負けてもしょうがない」って。最後の最後、9ラウンドに倒す瞬間まで、勝てると思えなかったです。ものすごい追い上げられてたんで。この日も運がよかったんですよ。勝てたのは運です。
―― しかし、あのウィラポンに2度勝った。「俺、すごい!」とはなりませんでしたか?
長谷川 当時は本当に運がよかったくらいしか思ってなかったですね。逆に今なら、「俺、すげーじゃん」ってなってたと思います(笑)。あのときって、自分が何者かまったくわかってないんですよ。まったくわかってないから、ウィラポンに勝っても、ただウィラポンに勝っただけちゃうかなって感覚。ヘナロ・ガルシア(メキシコ/2006年11月13日)、シンピウィ・ベトイェカ(南アフリカ共和国/2007年5月3日)、シモーネ・マルドロット(イタリア/2008年1月10日)にも勝った。でも、防衛を重ねても、ただそいつらに勝っただけやろうなという感覚。自分が強いどころか、世界チャンピオンになった自覚もまったくなかったですね。
―― 「ボクシング界の救世主」「日本のエース」と呼ばれ始めました。ボクシング界を背負っている感覚はありましたか?
長谷川 全然ないです(笑)。日本のエースとか、やめてほしかったくらいですね。
―― ただ、当時の勢いは、まさにエース。負ける気がしなかったんじゃないですか?
長谷川 そうですね。負ける気がしませんでしたね。特にKO勝ちが続いた8、9、10度目あたりの防衛戦は。
―― 負ける気がしなかった自信の根拠は?
長谷川 天狗だったってことじゃないんです。当時、勝てば勝つほど練習を増やしていたので。しかも、「ボクシングの神様が俺にはついてる」って気持ちでやってましたから。それは負けないですよね。間違いなく誰よりも練習をしている、というのが自信の根拠でした。
―― 今では当たり前のように耳にしますが、日本人ボクサーが「ラスベガスでやりたい」「他団体王者と統一戦をしたい」と発言したのは、長谷川選手が初めてだったと記憶しています。
長谷川 3度目の防衛をしたくらいですね。ロスで試合を観戦したことがあったんです。さすが本場やなって盛り上がりで。こんなとこで試合ができたらいいなと。どうせやるなら、最高と呼ばれるリングに立ちたかったし、そこでやるならばビッグマッチ、統一戦だろうなと。
―― しかしその後、あまり海外進出の夢を語らなくなりました。ちょうど、母親のガンが発覚した時期と重なります……。
長谷川 それは全然関係ないです。海外は「行きたい」と言って行けるもんじゃない。ずっと言ってたからって、決まるものでもない。だから言葉にはしませんでしたが、1回、1回、勝っていったら大きい試合が決まり、そこで勝てばラスベガスに行けるだろうと思っていました。
―― なるほど。
長谷川 まさに、その大きな試合がフェルナンド・モンティエル戦(メキシコ/2010年4月30日)です。ここで勝っていれば、次は絶対にラスベガスだったでしょう。負けたから叶いませんでしたけど、チャンスをいただけました。本田(明彦/帝拳ジム)会長に助けていただいたなと感謝の気持ちが大きいです。
―― 今、モンティエル戦でこうしていればよかったと思うことはありますか?
長谷川 一切ないですね。もちろん、試合前にモンティエルの映像を見て、ちゃんとコンディションさえ作れたら負けないと思ったんですけど。やっぱり人生、どこに落とし穴があるかわからなかったですね。
―― キャリアでもっとも印象に残っている試合はどれですか?
長谷川 2階級制覇のタイミング、ファン・カルロス・ブルゴス(メキシコ/2010年11月26日)との試合です。負けたら自殺するくらいの気持ちでやってましたから。あそこが、キャリアの頂点というか。あれ以上の瞬間はないですね。
―― では、ご自身が思う、長谷川穂積のベストバウトは?
長谷川 モンティエル戦が、そのひとつであることは間違いないです。あれはいい試合でした。僕が負けた瞬間、日本武道館が水を打ったようにシーンとなった。あんなこと、これから先もないんじゃないですか。
ベストは、ウィラポンとの2試合目です。最後に倒せたということもあるんですけど、僕が持つすべての技術を使った戦い方ができたんで。あの試合で放ったコンビネーションを打てるのは僕しかいないと、今でも思っています。
―― そのころの長谷川穂積と、3階級制覇したころの長谷川穂積、どちらが強いですか?
長谷川 ウィラポンに勝ったころです。余裕で。勢いもあったかなと。ただ、試合をすればどちらが勝つかといえば、話は別というか。加齢とともに身体能力や反射神経が落ちていくのは当たり前で。ただ、ボクシングという競技は年齢とともに変わるというか。近代ボクシングは、フロイド・メイウェザーの出現で少しずつ競技自体が変わっていった気がします。
―― 具体的には、どういうことですか?
長谷川 拳闘からボクシングに変わる、と言うか。若い奴は拳闘なんです。勢いだけで通用しますから。でも、僕ら年長組は、勢いだけの拳闘ではもう身体が持たない。ボクシングをより競技として捉えて、より戦術的に戦う必要はありますよね。技術、経験は高まりますから。
―― 昨年12月のWBCの総会で、フロイド・メイウェザー・ジュニア(アメリカ)とツーショットの写真を撮っていましたね。
長谷川 オーラ、すごかったですね。オーラって見る側が相手に対して作ってるもんだと思うんです。僕がそういう目で見てるからなんでしょうけど、ホント、オーラがすごかった。キラキラしてますよね。現役・引退含め、錚々たるボクサーがいたんですが、誰とも写真を撮らなかったですけど、唯一、メイウェザーだけとは写真を撮りました(笑)。
―― キャリア最終戦となった昨年9月の試合、「決まるのが1〜2週間遅ければ引退していた」と言っていました。キコ・マルチネス戦(メキシコ/2014年4月23日)も、自身で設けたリミットぎりぎりで決まりました。ドラマチックですね。
長谷川 偶然ですね。ただ、偶然ではあっても、僕が誰かのボクシング人生を歩めないのと同じように、僕のボクシング人生も他の誰かでは歩めないという自負があります。僕のキャリアを、勝った負けたを書き出せば、紙1枚か2枚、そんなもんです。
ただ、世界チャンピオンになり、母親にガンが見つかり、もう一度チャンピオンになり、また負けて、もう一度王者に返り咲き、チャンピオンのまま引退した。絶対に僕にしか歩めなかった道、僕にしか描けなかったストーリーだと思うんです。「ボクサー長谷川穂積」を好きだった人は、そういう物語を含めて好きでいてくれて、僕がチャンピオンであろうが、なかろうが、どんなときでも会場に見に来てくれたんだと思うんです。本当に感謝しかありませんね。
―― 今は現役選手に日本ボクシングを託すような感覚ですか?
長谷川 がんばってほしいですね。ただ、今言ったように、僕しか僕のボクシング人生を歩めないのと同時に、当たり前ですけど、彼らのボクシング人生は彼らにしか歩めない。彼らしか紡げない物語がある。ある意味、当然なんですけど、誰にもできない、歩けない道を歩いてほしいです。だから、もちろん応援しますけど、僕が何か言えるようなことはないですね。
―― もしも漫画なら、ウーゴ・ルイス(メキシコ)に勝って3階級制覇した瞬間が最終回だと思いますが……。
長谷川 そうですね。ただ人生は、こっからが長いんでね。今考えているのは、自分自身も身体を動かすようなボクシングジムが作れたらと思っています。あとは、困ってる選手がいたら手を差し伸べられるような、組合のようなものができたらいいなとも。もちろん、試合のコメンテーターのような仕事も続けたいです。ただ、どんなことをするにしても、現役時代を応援してくださった人たちをガッカリさせるようなことはしたくないですね。
―― 過去・現在を問わず、戦ってみたかった選手はいますか?
長谷川 前からずっと言っていますが、ノニト・ドネア(フィリピン)とはやってみたいですね。過去形ではなく、もしもドネアから声がかかるなら、現役復帰すると思います。ドネアに『キャリアの最後にお前とやりたい』って言われたら、やるに決まってるんですよ。来月って言われたら無理ですけど、きっちり時間を取ってくれるなら。絶対にやります。
―― 戦ってみたかった日本人選手はいましたか?
長谷川 日本人は正直、いなかったですね。世界戦までに、散々日本人選手とは戦ってきたんで。もういいかなって。
―― 最後に、多くのファンに改めてメッセージをください。
長谷川 現役時代は応援、ありがとうございました。これから新しいことに挑戦するので、応援していただけたらうれしいです。ただ、未来に何が起こるか、僕だってわからない。ポッといい話が湧いたら、来年の年末くらいに復帰してる……なんてことがあるかもわからない。もし復帰するなら、そのときは応援してください。
【profile】
長谷川穂積(はせがわ・ほづみ)
1980年12月16日生まれ、兵庫県西脇市出身。168.5センチ。サウスポー。真正ボクシングジム所属。1999年11月にプロデビューし、2005年4月、プロ20戦目での世界初挑戦で王者ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)を倒してWBC世界バンタム級チャンピオンとなる。その後、世界王座に5年間君臨し、その間に10度の防衛に成功。2010年4月に王座から陥落するも、同年11月にWBC世界フェザー級王座を奪い取る。2016年9月、WBC世界スーパーバンタム級王者となって3階級制覇を達成して引退。生涯戦績41戦36勝(16KO)5敗。
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