「つるピカハゲ丸」のむらしんぼが、藤子・F・不二雄、小林よしのりから受け継いだ心
「コロコロコミック」を卒業した大人のための漫画雑誌として話題を呼んでいる「コロコロアニキ」。
そんな「コロコロアニキ」の目玉連載といえるのが、「とどろけ!一番」「つるピカハゲ丸」など長年コロコロで連載を続けてきた、のむらしんぼ先生がコロコロ黎明期の裏話を熱く描いた自伝的漫画「コロコロ創刊伝説」だ。
「コロコロ創刊伝説」第1巻発売記念インタビュー第2弾では、引き続き、のむらしんぼ先生の「まんが道」を訊く!
第一弾はこちら
弘兼憲史先生のところでアシスタントをしながら、コロコロと出会い、児童漫画一筋で突き進んできた、のむら先生の「児童漫画」への思いとは。
そして、あの「ゴーマニズム」小林よしのり先生との意外な交流も!?
──弘兼先生のアシスタントをしながら、本格的にプロの漫画家を目指していたわけですよね。新人賞に投稿をしていたんですか?
のむら そうですね、その頃「小学館新人コミック大賞」っていうのがはじまったんですが、オレ、第1回から応募しているんですよ。
そしたら、いきなり最終選考の17人くらいに残って「やったー!」って思いましたね。「全応募者248人中の最終選考に入れるなんて、あと一息でプロになれる!」って。
後になって聞いたら、全応募者248人といっても、半分くらいは子どもたちが鉛筆描きで送ってきたような原稿で、最終選考に残ってやっと「最低限漫画として読めるレベル」ということらしいんですよ。
そこからプロになるには、まだ何個も壁を越えないといけない。
──どんな漫画を投稿していたんですか?
のむら やっぱり文学に憧れがあったんで、ストーリーの面白さを伝えられるような青年漫画を描いていたんですよね。
でも弘兼先生から「お前に青年漫画は10年早い」と言われて、第2回は児童漫画部門に応募しました。結局、それも最終選考止まりだったんですけど。
ところが、しばらくして小学館から手紙が届いたんですよ。「応募原稿を見た、ぜひ会いたい」って!
そこで「コロコロ創刊伝説」にも出てくるコロコロ初代編集長の千葉さんと、初代担当の平山さんに会ったんです。まだコロコロ創刊前だったから袋がなくて「少年サンデー」の黄色い袋にオレの原稿が入れられててね。「やったー、サンデーでデビューできるんだ!」って思いましたね。
これも後に聞いたら、コロコロ創刊前で漫画家がいないから、サンデーのボツ原稿入れの中からオレの原稿を拾ってきたらしいんですけど……。
それから平山さんが担当編集になってくれて「君を育てて、次の賞では最低でも佳作を受賞させるから付いてきなさい!」と言ってくれたんです。結局、次の賞に出すまでに半年かかりましたが。
まずは「描きたい世界観を持ってこい」と言われて、ノートに箇条書きで17本くらいアイデアを書いていったら、平山さんが目を通して「しんぼちゃん、コレは行けそうだな」って。それがデビュー作になる「ケンカばんばん」だったんです。
もうホントに何回も絵コンテを描き直して完成させたんですけど、平山さんがすごく褒めてくれたんですよ。
自分が死ぬ病だと勘違いしていた番長が、病気じゃなかったと分かって、涙を流して泣き笑いするシーンがあるんですけど、「この表情はすごい!」って。
技術的にデッサンがどうこうじゃなくて、弘兼先生に叩き込まれた「感情を絵でどう表現するか」ってことなんですよね。
今なんか締切に追われて描いちゃって、感情と表情があってなくて、後でがく然とする時がありますけど……。読んでいる方は読み飛ばしちゃって気にしないかもしれないけど、自分的には悔しいですよね。
これだけ長いこと描いてきても、まだまだ漫画って奥が深いなって思います。
──その「ケンカばんばん」でデビューして、「とどろけ!一番」「つるピカハゲ丸」で人気漫画家となるわけですが、自分の漫画がブームになるというのはどんな気持ちなんですか?
のむら さすがに、一瞬は天狗になりましたけど……すぐに虚しくなっちゃいましたね。
──漫画家として最高の瞬間じゃないですか!?
のむら もちろん、漫画が売れて、小学館漫画賞なんかも頂いて、アニメ化もされて、お金もどんどん入ってきて……。当時は億単位のお金が入ってきてましたからね。嬉しいことは嬉しいんですけど。
ただ、金がないのは困りますけど、金があったからといって幸せになれるわけじゃないというのがつくづく分かりました。
「こんなもの描いて金ばっかりもらって、長者番付で新聞に載っても、世の中の役に立っていないじゃないか」っていう気持ちが強かったんです。
──大人からの評価が欲しかったということですか?
のむら 正直、ある時期までは児童漫画しか描けないということにコンプレックスを感じていましたね。もともと作家志望だったこともあり、「ハゲ丸」を描いていても「こんなの大人には通用しないんだ」って思っていたんですよ。
大人漫画の作者って、文化人扱いされるじゃないですか。そういったものに変な憧れを持っていたんですね。弘兼先生と柴門ふみ先生に対してすごくコンプレックスがあったの。
──そういう気持ちからは脱却できたんですか?
のむら 読者の子どもたちからのファンレターで気持ちを変えることができましたね。
「ハゲ丸」がヒットしていた頃、小学4年生の肝臓病の男の子と文通をしていたんですけど、その子のおばさんから「正月は家に戻れてお雑煮も食べられました。その後、病院に戻ってから亡くなりました。棺桶には、のむら先生からもらった色紙やハゲ丸の単行本を入れて……」って手紙をもらって、涙ボロボロ流しちゃってね。
他にも「学校ではいじめられているけど、家に帰ってハゲ丸を読んでいると忘れられます」っていう手紙をくれた女の子とか。
児童漫画なんて、大人漫画と比べたら何の役にも立っていないと思っていたんだけど、ちゃんと役に立ってたじゃないかと。
その時、野村克也監督の「一生一捕手」っていう言葉があるでしょ? 同じようにオレも「一生一児童漫画家」でいいのかなって思いましたね。大尊敬する藤本弘(藤子・F・不二雄)先生みたいに、子どもたちのために一生漫画を描いていこうと。
……正直、大人漫画の方が儲かるんですよ。大人の方が金持ってるから! でも、オレは一生児童漫画家でいいやって覚悟しましたね。
のむら 児童漫画といえば、よしりん(小林よしのり)先生とのやりとりも思い出しますね。
──小林先生の「おぼっちゃまくん」も「ハゲ丸」と同時期にブームになっていましたもんね。
のむら その頃、福岡で一緒にサイン会をさせてもらったことがあるんですよ。そこで、「“のむらしんぼ”はもっと児童漫画をがんばらなくちゃいかんっちゃ!」と言われたんです。
「ワシの漫画は小学5年生くらいからがターゲットだから、小学生に入りたての子が、のむらしんぼの漫画を読んで『漫画ってつまんないんだ』って思ったら、ワシの漫画につながらない。ワシにつなげるためにも“のむらしんぼ”にがんばってもらわなくっちゃいかんっちゃ!」って。
……そんな風に思っていてくれたんだって感動しましたね。
──小林先生がそこまで児童漫画に対して熱い思いがあったとは、ちょっと意外ですね。
のむら いやー、小林先生はいつでも熱く真剣に漫画のことを考えている人なんですよ。
それからずっと、オレはコロコロで描き続けてきたんですが、藤本(藤子・F・不二雄)先生が亡くなった直後には、児童漫画の新人賞である「藤子不二雄賞」の選考員の依頼が来たんですね。
オレ、藤子先生の弟子でもないし、その頃は「ハゲ丸」も終わって、「コロコロ」で人気のないような漫画を描いていた時期なんで自信もなかったんですよ……。でも、神様から「お前がやるんだよ」って言われたような気がしましたね。
そんな話を頂けること自体が光栄なことですし、コロコロで児童漫画を描き続けてきてよかったって思いましたよ!
(北村ヂン)
続く。→その3
発売中の「コロコロアニキ」第5号では、「コロコロ創刊伝説」第1巻の続きが読めるぞ!
コロコロアニキ公式サイト
そんな「コロコロアニキ」の目玉連載といえるのが、「とどろけ!一番」「つるピカハゲ丸」など長年コロコロで連載を続けてきた、のむらしんぼ先生がコロコロ黎明期の裏話を熱く描いた自伝的漫画「コロコロ創刊伝説」だ。
「コロコロ創刊伝説」第1巻発売記念インタビュー第2弾では、引き続き、のむらしんぼ先生の「まんが道」を訊く!
第一弾はこちら
そして、あの「ゴーマニズム」小林よしのり先生との意外な交流も!?
感情を絵でどう表現するか
──弘兼先生のアシスタントをしながら、本格的にプロの漫画家を目指していたわけですよね。新人賞に投稿をしていたんですか?
のむら そうですね、その頃「小学館新人コミック大賞」っていうのがはじまったんですが、オレ、第1回から応募しているんですよ。
そしたら、いきなり最終選考の17人くらいに残って「やったー!」って思いましたね。「全応募者248人中の最終選考に入れるなんて、あと一息でプロになれる!」って。
後になって聞いたら、全応募者248人といっても、半分くらいは子どもたちが鉛筆描きで送ってきたような原稿で、最終選考に残ってやっと「最低限漫画として読めるレベル」ということらしいんですよ。
そこからプロになるには、まだ何個も壁を越えないといけない。
──どんな漫画を投稿していたんですか?
のむら やっぱり文学に憧れがあったんで、ストーリーの面白さを伝えられるような青年漫画を描いていたんですよね。
でも弘兼先生から「お前に青年漫画は10年早い」と言われて、第2回は児童漫画部門に応募しました。結局、それも最終選考止まりだったんですけど。
ところが、しばらくして小学館から手紙が届いたんですよ。「応募原稿を見た、ぜひ会いたい」って!
そこで「コロコロ創刊伝説」にも出てくるコロコロ初代編集長の千葉さんと、初代担当の平山さんに会ったんです。まだコロコロ創刊前だったから袋がなくて「少年サンデー」の黄色い袋にオレの原稿が入れられててね。「やったー、サンデーでデビューできるんだ!」って思いましたね。
これも後に聞いたら、コロコロ創刊前で漫画家がいないから、サンデーのボツ原稿入れの中からオレの原稿を拾ってきたらしいんですけど……。
それから平山さんが担当編集になってくれて「君を育てて、次の賞では最低でも佳作を受賞させるから付いてきなさい!」と言ってくれたんです。結局、次の賞に出すまでに半年かかりましたが。
まずは「描きたい世界観を持ってこい」と言われて、ノートに箇条書きで17本くらいアイデアを書いていったら、平山さんが目を通して「しんぼちゃん、コレは行けそうだな」って。それがデビュー作になる「ケンカばんばん」だったんです。
もうホントに何回も絵コンテを描き直して完成させたんですけど、平山さんがすごく褒めてくれたんですよ。
自分が死ぬ病だと勘違いしていた番長が、病気じゃなかったと分かって、涙を流して泣き笑いするシーンがあるんですけど、「この表情はすごい!」って。
技術的にデッサンがどうこうじゃなくて、弘兼先生に叩き込まれた「感情を絵でどう表現するか」ってことなんですよね。
今なんか締切に追われて描いちゃって、感情と表情があってなくて、後でがく然とする時がありますけど……。読んでいる方は読み飛ばしちゃって気にしないかもしれないけど、自分的には悔しいですよね。
これだけ長いこと描いてきても、まだまだ漫画って奥が深いなって思います。
「一生一児童漫画家」でいい
──その「ケンカばんばん」でデビューして、「とどろけ!一番」「つるピカハゲ丸」で人気漫画家となるわけですが、自分の漫画がブームになるというのはどんな気持ちなんですか?
のむら さすがに、一瞬は天狗になりましたけど……すぐに虚しくなっちゃいましたね。
──漫画家として最高の瞬間じゃないですか!?
のむら もちろん、漫画が売れて、小学館漫画賞なんかも頂いて、アニメ化もされて、お金もどんどん入ってきて……。当時は億単位のお金が入ってきてましたからね。嬉しいことは嬉しいんですけど。
ただ、金がないのは困りますけど、金があったからといって幸せになれるわけじゃないというのがつくづく分かりました。
「こんなもの描いて金ばっかりもらって、長者番付で新聞に載っても、世の中の役に立っていないじゃないか」っていう気持ちが強かったんです。
──大人からの評価が欲しかったということですか?
のむら 正直、ある時期までは児童漫画しか描けないということにコンプレックスを感じていましたね。もともと作家志望だったこともあり、「ハゲ丸」を描いていても「こんなの大人には通用しないんだ」って思っていたんですよ。
大人漫画の作者って、文化人扱いされるじゃないですか。そういったものに変な憧れを持っていたんですね。弘兼先生と柴門ふみ先生に対してすごくコンプレックスがあったの。
──そういう気持ちからは脱却できたんですか?
のむら 読者の子どもたちからのファンレターで気持ちを変えることができましたね。
「ハゲ丸」がヒットしていた頃、小学4年生の肝臓病の男の子と文通をしていたんですけど、その子のおばさんから「正月は家に戻れてお雑煮も食べられました。その後、病院に戻ってから亡くなりました。棺桶には、のむら先生からもらった色紙やハゲ丸の単行本を入れて……」って手紙をもらって、涙ボロボロ流しちゃってね。
他にも「学校ではいじめられているけど、家に帰ってハゲ丸を読んでいると忘れられます」っていう手紙をくれた女の子とか。
児童漫画なんて、大人漫画と比べたら何の役にも立っていないと思っていたんだけど、ちゃんと役に立ってたじゃないかと。
その時、野村克也監督の「一生一捕手」っていう言葉があるでしょ? 同じようにオレも「一生一児童漫画家」でいいのかなって思いましたね。大尊敬する藤本弘(藤子・F・不二雄)先生みたいに、子どもたちのために一生漫画を描いていこうと。
……正直、大人漫画の方が儲かるんですよ。大人の方が金持ってるから! でも、オレは一生児童漫画家でいいやって覚悟しましたね。
神様から「お前がやるんだよ」って言われたような気が
のむら 児童漫画といえば、よしりん(小林よしのり)先生とのやりとりも思い出しますね。
──小林先生の「おぼっちゃまくん」も「ハゲ丸」と同時期にブームになっていましたもんね。
のむら その頃、福岡で一緒にサイン会をさせてもらったことがあるんですよ。そこで、「“のむらしんぼ”はもっと児童漫画をがんばらなくちゃいかんっちゃ!」と言われたんです。
「ワシの漫画は小学5年生くらいからがターゲットだから、小学生に入りたての子が、のむらしんぼの漫画を読んで『漫画ってつまんないんだ』って思ったら、ワシの漫画につながらない。ワシにつなげるためにも“のむらしんぼ”にがんばってもらわなくっちゃいかんっちゃ!」って。
……そんな風に思っていてくれたんだって感動しましたね。
──小林先生がそこまで児童漫画に対して熱い思いがあったとは、ちょっと意外ですね。
のむら いやー、小林先生はいつでも熱く真剣に漫画のことを考えている人なんですよ。
それからずっと、オレはコロコロで描き続けてきたんですが、藤本(藤子・F・不二雄)先生が亡くなった直後には、児童漫画の新人賞である「藤子不二雄賞」の選考員の依頼が来たんですね。
オレ、藤子先生の弟子でもないし、その頃は「ハゲ丸」も終わって、「コロコロ」で人気のないような漫画を描いていた時期なんで自信もなかったんですよ……。でも、神様から「お前がやるんだよ」って言われたような気がしましたね。
そんな話を頂けること自体が光栄なことですし、コロコロで児童漫画を描き続けてきてよかったって思いましたよ!
(北村ヂン)
続く。→その3
発売中の「コロコロアニキ」第5号では、「コロコロ創刊伝説」第1巻の続きが読めるぞ!
コロコロアニキ公式サイト