師匠は弘兼憲史「つるピカハゲ丸」のむらしんぼの語るまんが道「コロコロ創刊伝説」インタビュー
「コロコロコミック」を卒業した大人のための漫画雑誌として話題を呼んでいる「コロコロアニキ」。
ただいま発売中の第5号では「あまいぞ!男吾」「ハイパーダッシュ!四駆郎」「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」の新作などなど、当時を知る人には涙を禁じ得ない連載陣に加え、巻頭特集が「高橋名人」だったりと、まさにおっさんホイホイな雑誌だ。
そんな「コロコロアニキ」の中でも大注目なのが、のむらしんぼ先生の連載漫画「コロコロ創刊伝説」。
名前の通り「コロコロコミック」黎明期の裏話を描いた漫画なのだが、コレが熱い!
当時、少年漫画、青年漫画などと比べ、一段低く見られていた児童漫画の復権を目指して「コロコロコミック」を立ち上げた編集者や漫画家たちの熱いドラマを、長年コロコロで活躍してきた、のむらしんぼ先生が描き出している。
元「コロコロ」少年はもちろん、全漫画好き必読の漫画なのだ。
そんな「コロコロ創刊伝説」第1巻の発売を記念して作者の、のむらしんぼ先生に自身の「まんが道」を訊いた!
──のむら先生は、子どもの頃から漫画家になりたいと思っていたんですか?
のむら いや、子どもの頃は同時通訳か、映画の翻訳家になりたいと思っていました。漫画はよく読んでいたんですけどね、「オバケのQ太郎」とか「伊賀の影丸」とか……。
とはいえ、住んでいたのが北海道の田舎だったし、東京に行かなくちゃ漫画家になれないと思うじゃないですか。遠い夢の世界だと思っていたんです。
──大学に進んで、立教大学では漫画研究会に入っていたんですよね。
のむら 高校が進学校(ラ・サール高校)だったんで、とりあえず東京の大学に行こうということで、一浪して立教大学の文学部仏文科に入ったんです。文学部に入れば、小説の書き方を教えてくれると思ってたんで。その頃は小説家になりたいっていう気持ちもあったんですね。
でも、いざ授業がはじまってみると「アーベーセーデー」とか文法ばっかりやってて、小説の書き方なんて全然教えてくれないの。「いつ教えてくれるんですか!?」って聞いたら「そんなのやらないよ! 小説書きたいなら早稲田の文芸に行けばよかったじゃん!」って言われて。文学部の中にも色々あるんですねぇ……(笑)。
──ああ、その区別が付いていなかったと。
のむら そんな頃、漫画好きな先輩のアパートに遊びに行ったら、手塚治虫先生の「きりひと讃歌」とか、大人向けの漫画がいっぱい置いてあったんです。
田舎者だったもんで、それまで「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」といった少年漫画しか知らなかったんですよね。青年漫画ってエッチなものだと思ってたんですよ。その先輩の家ではじめて青年漫画を涙流しながら読んで……。「あぶさん」とか「三丁目の夕日」とかね、すごく面白いなって思いましたね。
──そこで、大人が読む漫画もあるって知ったんですね。
のむら 「漫画って子どもだけが読む物だと思ってたけど、表現者として自分の思いを伝えることも出来るんだ!」って。学校の授業が全然面白くなくて虚しくなってる時期だったし、漫画を描いてみたいという思いがふつふつと湧き上がってきました。
それで「考えてみれば、もう東京にいるんだから漫画家も夢じゃないのかも!?」と思って2年から漫研に入ったんだけど、漫研もまた虚しくなって幽霊部員になっちゃったんですよね……。
──いよいよ漫画を描ける環境になったのに!?
のむら 「オレはプロの漫画家になる!」って言ってたんだけど、「あんなヘタクソがなれるわけがない」とか陰口が聞こえてくるんですよ。まあ、メチャクチャ絵がヘタクソでしたからね。
当時は「漫画研究会」といっても「研究会」というよりは「批評会」だったんですよ。「あの漫画つまんね〜」とか「あれはダメだ」だとか言ってるだけ。
──漫画は描かない人たちだったんですか?
のむら 週に1本、課題の4コマ漫画を描くくらいでしたね。あとは、自分の得意な絵ばっかり描いてるんです。同じ角度のバストアップとか……。それで絵が上手いと思い込んでるの。
でも漫画を描こうと思ったら、ストーリーを作って、コマを割って、カメラワークやセリフも考えなくちゃいけないでしょ? そこまでやってる人はほとんどいなかったですね。趣味で描いているような人ばっかりでした。
──そんな頃、弘兼憲史先生と出会うわけですよね。
のむら あの頃の漫研部員って似顔絵のバイトが回ってくるんですよ。朝から晩まで30人くらい描くんですけど、当時の相場からすると、かなりいいバイト代がもらえたんですよね。だから喜んで行ったら、その似顔絵を描いているところに弘兼憲史先生が通りがかって……。
──それは、たまたま?
のむら たまたま買い物してたみたいです。「どこの漫研?」って聞かれて、「立教です」って答えたら「オレは早稲田出身だ。『少年サンデー』とかでたまに描いてるんだよ」と。それで名前を聞いたら「弘兼」って言うから「ああっ、弘兼憲史さんですか!」「よく知ってるな!」って。
弘兼先生が新人賞で出てきた時から「スゴイ作家だなぁ」って注目してたんですよ。絵は独特というか……失礼だけど決して上手くはないんだけど、話作りがすごくて印象に残ってて。
それで先生も気をよくしたのか分からないけど、「何時に終わるんだ、その頃に迎えに来るから」って。そのまま先生のところにアシスタントとして入ったんですよね。
柴門ふみ先生も半年くらい早くアシスタントとして入っていて、もう先生と婚約してたんじゃないかな? ……まあ、それくらいの時期ですね。
──すごい出会いですよね。そこから本格的に漫画を描くように?
のむら 運命の出会いだったと思いますね。弘兼先生には漫画家としての魂、精神論を叩き込まれました。
「お前は絵が描きたくて漫画家になりたいの? 話が描きたくて漫画家になりたいの?」って聞かれて「何言ってるんですか、話が書きたいから漫画家になりたいに決まってるじゃないですか!」と答えたら、「お前は物になる」って言ってもらえてね。漫画家は話を読ませてナンボ、笑わせてナンボですから。
──絵を上手に描いて得意になっている漫研の連中とは違うぞと。
のむら 柴門ふみ先生も、それからしばらくして「P.S. 元気です、俊平」で連載をはじめますけど、絵はまだまだでしたからね。……オレがいうのも何ですけど(笑)。
弘兼先生だって、初期の読み切りとかはあんまり上手くない。でも、絵は描いてればある程度、プロレベルの絵になっていくもんですから。
弘兼先生のところでは、効果線の引き方だとか、パースの取り方、スクリーントーンの削り方……そういう絵の技術的なことは全然教わらなかったですね。そんなのは本を買ってくれば載っているじゃないですか。
──それよりも内容の部分を叩き込まれたと。
のむら 印象に残っているのは「漫画家の目はカメラだ」っていうことですね。
一番最初の「スター・ウォーズ」を先生と一緒に観に行ったことがあるんですが、見終わって「さー帰ろうかな」と思っていたら、先生は「もう1回見よう」って。
1回目は純粋に映画を楽しんで、2回目は漫画家の目として、カメラワークや物語の構成をじっくり研究するらしいんですよね。オレはそんなこと考えたこともなかったですもん。
先生に教えてもらった、そういう「漫画家の魂」みたいなものは今でも役立っていると思います。
──弘兼先生とは今でも交流があるんでしょうか?
のむら 今でも何かと気にしてもらっていますよ。
「つるピカハゲ丸」も終わって、仕事がなくて苦しんでいた時期に、出版社のパーティーで一緒になったんですけど、ある編集さんから「さっき弘兼先生にあいさつしてきたんだけど、いい師匠を持ったね。『今、しんぼが苦しんでるから、どうかひとつよろしくお願いします』って頭を下げられたよ」って。
本当に嬉しくってね……。嬉しかったんだけど、先生をつかまえて「先生、格好つけすぎ!」って言っちゃいましたね(笑)。
──いい話だったのに、なんで言っちゃうんですか!
のむら 本当は感動したんだけど、余計なことを言っちゃうんですよ、オレは。……でも本当にありがたいですよね。
そういう、先生との思い出は「コロコロ創刊伝説」にも載っていますから、是非読んでください!
(北村ヂン)
続く→その2
発売中の「コロコロアニキ」第5号では、「コロコロ創刊伝説」第1巻の続きが読めるぞ!
コロコロアニキ公式サイト
ただいま発売中の第5号では「あまいぞ!男吾」「ハイパーダッシュ!四駆郎」「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」の新作などなど、当時を知る人には涙を禁じ得ない連載陣に加え、巻頭特集が「高橋名人」だったりと、まさにおっさんホイホイな雑誌だ。
そんな「コロコロアニキ」の中でも大注目なのが、のむらしんぼ先生の連載漫画「コロコロ創刊伝説」。
名前の通り「コロコロコミック」黎明期の裏話を描いた漫画なのだが、コレが熱い!
当時、少年漫画、青年漫画などと比べ、一段低く見られていた児童漫画の復権を目指して「コロコロコミック」を立ち上げた編集者や漫画家たちの熱いドラマを、長年コロコロで活躍してきた、のむらしんぼ先生が描き出している。
元「コロコロ」少年はもちろん、全漫画好き必読の漫画なのだ。
そんな「コロコロ創刊伝説」第1巻の発売を記念して作者の、のむらしんぼ先生に自身の「まんが道」を訊いた!
●漫画って、自分の思いを伝えることも出来るんだ
──のむら先生は、子どもの頃から漫画家になりたいと思っていたんですか?
のむら いや、子どもの頃は同時通訳か、映画の翻訳家になりたいと思っていました。漫画はよく読んでいたんですけどね、「オバケのQ太郎」とか「伊賀の影丸」とか……。
とはいえ、住んでいたのが北海道の田舎だったし、東京に行かなくちゃ漫画家になれないと思うじゃないですか。遠い夢の世界だと思っていたんです。
──大学に進んで、立教大学では漫画研究会に入っていたんですよね。
のむら 高校が進学校(ラ・サール高校)だったんで、とりあえず東京の大学に行こうということで、一浪して立教大学の文学部仏文科に入ったんです。文学部に入れば、小説の書き方を教えてくれると思ってたんで。その頃は小説家になりたいっていう気持ちもあったんですね。
でも、いざ授業がはじまってみると「アーベーセーデー」とか文法ばっかりやってて、小説の書き方なんて全然教えてくれないの。「いつ教えてくれるんですか!?」って聞いたら「そんなのやらないよ! 小説書きたいなら早稲田の文芸に行けばよかったじゃん!」って言われて。文学部の中にも色々あるんですねぇ……(笑)。
──ああ、その区別が付いていなかったと。
のむら そんな頃、漫画好きな先輩のアパートに遊びに行ったら、手塚治虫先生の「きりひと讃歌」とか、大人向けの漫画がいっぱい置いてあったんです。
田舎者だったもんで、それまで「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」といった少年漫画しか知らなかったんですよね。青年漫画ってエッチなものだと思ってたんですよ。その先輩の家ではじめて青年漫画を涙流しながら読んで……。「あぶさん」とか「三丁目の夕日」とかね、すごく面白いなって思いましたね。
──そこで、大人が読む漫画もあるって知ったんですね。
のむら 「漫画って子どもだけが読む物だと思ってたけど、表現者として自分の思いを伝えることも出来るんだ!」って。学校の授業が全然面白くなくて虚しくなってる時期だったし、漫画を描いてみたいという思いがふつふつと湧き上がってきました。
それで「考えてみれば、もう東京にいるんだから漫画家も夢じゃないのかも!?」と思って2年から漫研に入ったんだけど、漫研もまた虚しくなって幽霊部員になっちゃったんですよね……。
──いよいよ漫画を描ける環境になったのに!?
のむら 「オレはプロの漫画家になる!」って言ってたんだけど、「あんなヘタクソがなれるわけがない」とか陰口が聞こえてくるんですよ。まあ、メチャクチャ絵がヘタクソでしたからね。
当時は「漫画研究会」といっても「研究会」というよりは「批評会」だったんですよ。「あの漫画つまんね〜」とか「あれはダメだ」だとか言ってるだけ。
──漫画は描かない人たちだったんですか?
のむら 週に1本、課題の4コマ漫画を描くくらいでしたね。あとは、自分の得意な絵ばっかり描いてるんです。同じ角度のバストアップとか……。それで絵が上手いと思い込んでるの。
でも漫画を描こうと思ったら、ストーリーを作って、コマを割って、カメラワークやセリフも考えなくちゃいけないでしょ? そこまでやってる人はほとんどいなかったですね。趣味で描いているような人ばっかりでした。
●弘兼憲史先生との出会いは運命
──そんな頃、弘兼憲史先生と出会うわけですよね。
のむら あの頃の漫研部員って似顔絵のバイトが回ってくるんですよ。朝から晩まで30人くらい描くんですけど、当時の相場からすると、かなりいいバイト代がもらえたんですよね。だから喜んで行ったら、その似顔絵を描いているところに弘兼憲史先生が通りがかって……。
──それは、たまたま?
のむら たまたま買い物してたみたいです。「どこの漫研?」って聞かれて、「立教です」って答えたら「オレは早稲田出身だ。『少年サンデー』とかでたまに描いてるんだよ」と。それで名前を聞いたら「弘兼」って言うから「ああっ、弘兼憲史さんですか!」「よく知ってるな!」って。
弘兼先生が新人賞で出てきた時から「スゴイ作家だなぁ」って注目してたんですよ。絵は独特というか……失礼だけど決して上手くはないんだけど、話作りがすごくて印象に残ってて。
それで先生も気をよくしたのか分からないけど、「何時に終わるんだ、その頃に迎えに来るから」って。そのまま先生のところにアシスタントとして入ったんですよね。
柴門ふみ先生も半年くらい早くアシスタントとして入っていて、もう先生と婚約してたんじゃないかな? ……まあ、それくらいの時期ですね。
──すごい出会いですよね。そこから本格的に漫画を描くように?
のむら 運命の出会いだったと思いますね。弘兼先生には漫画家としての魂、精神論を叩き込まれました。
「お前は絵が描きたくて漫画家になりたいの? 話が描きたくて漫画家になりたいの?」って聞かれて「何言ってるんですか、話が書きたいから漫画家になりたいに決まってるじゃないですか!」と答えたら、「お前は物になる」って言ってもらえてね。漫画家は話を読ませてナンボ、笑わせてナンボですから。
──絵を上手に描いて得意になっている漫研の連中とは違うぞと。
のむら 柴門ふみ先生も、それからしばらくして「P.S. 元気です、俊平」で連載をはじめますけど、絵はまだまだでしたからね。……オレがいうのも何ですけど(笑)。
弘兼先生だって、初期の読み切りとかはあんまり上手くない。でも、絵は描いてればある程度、プロレベルの絵になっていくもんですから。
弘兼先生のところでは、効果線の引き方だとか、パースの取り方、スクリーントーンの削り方……そういう絵の技術的なことは全然教わらなかったですね。そんなのは本を買ってくれば載っているじゃないですか。
──それよりも内容の部分を叩き込まれたと。
のむら 印象に残っているのは「漫画家の目はカメラだ」っていうことですね。
一番最初の「スター・ウォーズ」を先生と一緒に観に行ったことがあるんですが、見終わって「さー帰ろうかな」と思っていたら、先生は「もう1回見よう」って。
1回目は純粋に映画を楽しんで、2回目は漫画家の目として、カメラワークや物語の構成をじっくり研究するらしいんですよね。オレはそんなこと考えたこともなかったですもん。
先生に教えてもらった、そういう「漫画家の魂」みたいなものは今でも役立っていると思います。
●しんぼが苦しんでるから、よろしくお願いします
──弘兼先生とは今でも交流があるんでしょうか?
のむら 今でも何かと気にしてもらっていますよ。
「つるピカハゲ丸」も終わって、仕事がなくて苦しんでいた時期に、出版社のパーティーで一緒になったんですけど、ある編集さんから「さっき弘兼先生にあいさつしてきたんだけど、いい師匠を持ったね。『今、しんぼが苦しんでるから、どうかひとつよろしくお願いします』って頭を下げられたよ」って。
本当に嬉しくってね……。嬉しかったんだけど、先生をつかまえて「先生、格好つけすぎ!」って言っちゃいましたね(笑)。
──いい話だったのに、なんで言っちゃうんですか!
のむら 本当は感動したんだけど、余計なことを言っちゃうんですよ、オレは。……でも本当にありがたいですよね。
そういう、先生との思い出は「コロコロ創刊伝説」にも載っていますから、是非読んでください!
(北村ヂン)
続く→その2
発売中の「コロコロアニキ」第5号では、「コロコロ創刊伝説」第1巻の続きが読めるぞ!
コロコロアニキ公式サイト