東映アニメのプロデューサーに必要不可欠な5つの信条「どれみ」「デジモン」の関弘美Pに聞く

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現在好評発売中の『タイムスリップ! 東映アニメーション 80s〜90s GIRLS』と『ヒストリー 東映アニメーション 80s〜90s BOYS』は、1980年代から90年代にかけての東映アニメーションのアニメ作品をまとめたムック本です。
そのムック本にも掲載されている、東映アニメーションの90年代を語る上で外すことができない名作「おジャ魔女どれみ」と「デジモンアドベンチャー」。
この2タイトルを担当した関弘美プロデューサーにインタビューを行いました。後編では、関プロデューサーがプロデューサーになるまでの道のりや、プロデューサー論についてうかがっていきます。

前編はこちら


男女雇用機会均等法以前、メディアの仕事の募集はなかった


──前編では、「おジャ魔女どれみ」と「デジモンアドベンチャー」に関するお話をお聞きしました。後編では、そこに至るまでの歴史をお聞きできればと。関さんが東映アニメーションに入るまでを教えていただけるでしょうか。

関 男女雇用機会均等法というものが施行されたのが1986年。私はその前に早稲田大学を卒業していました。4年制の大学を出た女性がメディアの仕事に就こうと思っても、全く募集されてなかった。一般職もデスクワークもない。「若干名」と書かれていることはあっても、その場合はお取引先の会社の社長や役員のお嬢さんじゃないとダメだった。

──私は1990年生まれなんですが、正直「すさまじい時代だな」と思ってしまいます。

関 「クリスマスケーキ」なんてことも言われてましたね。四年制の大学を出ていても、コネがあっても、当時は25歳までに結婚して辞めなきゃいけない。結婚して仕事を続ける選択肢もほぼなかった。早稲田の稲門シナリオ研究会というサークルに所属して、四年で卒業したけれど、さあ就職できないしどうしようか、と。そこで「少なくとも文章を書くことはできるな」と思ったので、学校を卒業してから2年か2年半くらいは雑誌のライターの仕事を幅広くやっていました。ホットドッグプレスの創刊にも関わりました。慣れちゃうと居心地は悪くない世界だし、自由度が高いし、あの頃の雑誌は黄金期だったので、ぶっちゃけそこそこ儲かってて……23〜4歳で、フリーの月収が40万くらい。

──相当稼いでいる! それだけ稼いでいると、「出版の世界でいいや」と思ってしまいそうです。

関 逆に言うと、そこで「やばい」と思ったわけ。本来行きたかった映像の仕事ではないのに、安住してしまう気がしていた。そっちのほうがよっぽど怖かったですね。それに、雑誌って1年経つと、同じ記事の繰り返しになるんです。夏になると「この夏、女の子をゲットするためのハウツー!」みたいなのを、手を変え品を変え(笑)。2年やれば「もう十分だ」。早く映像の仕事に行かなければ、と思いました。


25歳が限界点だった。企画部のアルバイトへ


──でも、映像業界に正社員の採用枠はない。どうやってこの業界に?

関 当時の女性はみんなそうだったけど、アルバイトですね。日給6400円。アルバイトに入る話は、学生時代の経験からのコネクションでいただきました。学生時代、東映の子供番組のシナリオを2本だけ書いたことがあるんです。

──そのきっかけになったのはやはり稲門シナリオ研究会ですか?

関 OBにあたる人に、日活の映画監督・シナリオライターの大和屋竺さんや、映画監督の鈴木清順さんがいて、サークルが開催した早稲田祭のシンポジウムに来てくれたんです。そのときに、大和屋さんに私が書いたちょっと長いシナリオを読んでもらいました。

──それで「この人は書ける!」と?

関 逆ですね(笑)。ダメ出しをい〜っぱいされました。「何が書きたいのかわからない」とボロクソで……ただ一か所だけ褒められたのは、「君の台詞にはセンスがある。これはおじさんには書けない」。それがご縁で、大和屋さんが東映の実写の子供番組シリーズ構成をやるときに、シナリオを書くチャンスをいただきました。あくまでも映画好きの大学生のレベルだったので、3稿か4稿直されて時間切れ。プロのシナリオライターさんに直してもらって、連名という形になりました。

──そのシナリオ経験があったから、東映にアルバイトとして入れることになった?

関 「企画書が書けて、パイロットを作るときの短いシナリオを書ける人」という条件付きで、企画部のデスクワークのアルバイトのお話があったんです。「最初はデスクワークだけど、あなたの前任者はアシスタントプロデューサーになっています」と言われて、チャンスだ!と。当時は25歳で、再就職するとしたら限界点。このチャンスを逃すと、こういう形で勤めることはできなくなってしまうと思っていたので、飛び込みましたね。

──企画部のデスクワークはどのようなお仕事を?

関 視聴率を調べたり、漫画を読みまくって一週間に一本企画書を出したり……企画書って、テレビ局は本命1本だけじゃ受け取ってくれなくて、「他にないの?」って言われるんですよ。だから私が書いていたのは、メインのプロデューサーが推したいメイン企画じゃなくて、ダミーの企画書。ダミーなんだけど、もっともらしくいかにも当たりそうに書かなきゃいけないし、あくまでも本命が引き立つように8割くらの寸止めで書く。そのテクニックがどうやら私にはあった(笑)。

ウィットに返すたくましさ、酒席のコミュニケーションが欠かせなかった


──当時のアニメ業界にも実写業界にも、ほとんど女性がいませんでした。今女性が働いている環境よりも何十倍も大変だったと思うのですが……。

関 うん、今の時代であの環境だったら、たいていの女性はもはや我慢できないと思う。でもあの時代はそれが当たり前で、みんな同じ環境で働いているわけだから、我慢することは特別なことではなかったですし、不思議なことにそれなりに楽しかったですね。ジーンズで会社に行くと「なんで東映動画の女性はみんなスカートをはかへんのや」とか言われたけど。そこで「え〜、買うお金ないんですよ、買ってくださいよ!」とウィットで返すことが求められていた。

──明るく言い返すことでストレスを溜めないのが大事だった。そんな中でも、これは許せないと記憶に残っていることはありますか?

関 唯一ひどいと思ったのは、結婚したときですかね。当時の社長に結婚の報告をしたら、結婚式に祝電を打ってくれたんです。それを知った直属の上司が「アルバイト風情が、生意気に結婚式を報告して、祝電をおねだりした」みたいなことを言ってきて! 「いま、アルバイト風情って言ったわよね〜!?」とムカついたのを今でも覚えてます。だから私は、そういうことを言う人を許せない。30年も前のことだけど、当時の自分が憤ったことを思い出しますね。

──企画部のデスクワークから、アシスタントプロデューサーになるきっかけになった出来事はなんでしょうか。

関 デスクワークをやっていたのは2年半。その間に「明日のナージャ」の企画書を書いたんです。もちろん絵はまだ入ってなくて、企画意図や登場人物の名前や設定、おおざっぱなストーリーを書いたものだったけど、当時の上司に見せたらすごく褒められて「この子は制作現場においてもやっていけるかもしれない、結婚もしてるから恋愛沙汰の心配はないし、お酒も飲めるし」と。最近の若い人はそもそもあんまりお酒を飲まない人が多いですね。私はおじさんたちとお酒を飲むのは嫌じゃなかったけど、意外とそれが苦手な人も多いみたい。制作の現場は下は18歳、上は65歳以上と、ものすごく年齢の幅があるんです。自分の世代とだけ仲良くしていちゃ、プロデューサーは務まらない。


──年上とも年下ともコミュニケーションをとらなければいけない。

関 そこで重要なのが年代。その人が何年生まれかって情報はすごく大事なんだけど、それを言ってくれる人ばかりではない。そういうときはね、「5歳の時になんのアニメ見てた?」って聞くんですよ!最近は再放送が充実してるから、ちょっと気を付けないといけないけどね(笑)。あとね、幅広い年齢の人と話すことが大事なのは、そのときにはぴんとこなくても、頭のどこかにそういう話が入っていると、いつか生きてくるんですよ。たいていの人生の問題は必ずアドバイスしてくれる人がいます。

作品ごとに学び、成長していくプロデューサー


──関さんが初めてアシスタントプロデューサーとして担当した作品は「レディレディ」。

関 「明日のナージャ」が認められてアシスタントプロデューサーになったけれど、だからといってすぐに作れるわけじゃない。「ナージャ」の企画書は二番目の引き出しの奥に入れて、ほかのプロデューサーのアシスタントにつきました。「レディレディ!!」の企画書も書きました。実はプロデューサーは別の作品をやりたがっていて、あくまでもダミーの企画として書いたものでした。なのに、なぜかその企画が通っちゃったんですよ。

──8割の力で書いていたはずなのに!

関 後で聞いてみたら、企画を見たバンダイさんが、「キャンディキャンディの木型が使える」と思って、トップの企画じゃないのに決めてしまったらしい。当時の私にとって「スポンサーの事情で決まる」というのはカルチャーショックでしたね。企画書が素晴らしいから通るわけじゃないんだ、お金を出す人たちがやる気を出さなきゃ通らないんだ……と知って、プロデューサーという仕事の仕組みの一端が見えました。当時としては下剋上を狙ったように見えますから、すごくいじめられましたね。


──翌年には「ハロー!!レディリン」が放送されます。「レディレディ!!」の続編ですね。

関 ほとんど関わってないですが、この作品に関しても大きな学びがありました。スポンサーは変わっていないけど、テレビ局とタイトルは変わっている。それはテレビ局の提供料の関係です。スポンサーが「局を変えてでもこの作品を続けたい」と思うくらい玩具の調子がよかったんですね。スポンサーがついてきてくれれば、局を移動しても続けられる……この学びはのちの担当作品にも生かされました。

──作品ごとに学ぶものがあって、それを次の作品に活かしている?

関 プロデューサーにつきまとういろんな問題を、アシスタントのときにどれだけ経験できるかで、プロデューサーになったときの自信の違いになりますね。うちのプロデューサーを見てると、ひとつの作品を終えるたびにみんな何かしら学んでいる。あと私の場合、ライターをやっていたころの経験も生かされています。コンセプトやキャッチフレーズ、開いた時の1ページ目の言葉がどれだけ大事かは、ライターの仕事から学んでいる。出版社さんとも、ライター時代から全方位外交だったので、うまく付き合えていました。

──そうやってアシスタントプロデューサーとして経験を積んで、ついに「GS美神」でプロデューサーに。

関 でも、27歳のときにある人から直接こう言われましたよ。「女性がプロデューサーになるのは、東映グループじゃあと20年は無理だね」。47歳まで待たなきゃいけないの、と思って呆然としました。

──それは……そこで心が折れて、諦めてしまう人もいたと思います。

関 諦める人って、それがきっかけで諦められるわけだから、それはそれで幸せかもしれない。諦めるってこと自体は悪いことじゃなくて、別の人生が開けるかもしれない。言い方は悪いかもしれないけれど、「諦められるレベルの夢だったんだ」って思えば、別の道を探すこともできるじゃない? 諦められない人の方が実はつらいんですよ。27歳くらいで言われてすごくきつかったけれど、諦められなかった。

──女性のプロデューサーが世の中にほとんどいない時代で、キャリアのモデルになるような人もいない……。

関 アニメ業界には全くいませんでした。でもね、テレビ局には、女性がプロデューサーとして名前を出してる番組がいくつかあったんですよ。TBSの石井ふく子さん、NHKの「おしん」の岡田由紀子さん。そしてついに、アニメ業界でも、「うる星やつら」の松下洋子さんが出てきた。それを心の糧にして、諦めないでおこうと思ったの。東映ではまだ前例がないかもしれないけれど、世の中の波が来るんじゃないかなと。

──関さんの世代で東映で、というと、ほぼオンリーワンの女性プロデューサーですね。

関 いたことはいたけれど、いろんな壁が立ちふさがって辞めていった人も多いですね。男女雇用機会均等法以後に入って、プロデューサーになれそうだったけれど辞めた人たちに対してはちょっと、諦められていいよね、と思っているところがありますね。簡単に手に入った人たちは、簡単に諦めるんだなって。

プロデューサーに大事な5つのもの


──東映の皆さんのお話をうかがっていると、みなさんそれぞれ違う「プロデューサー論」というものを持っているように思います。

関 英語でプロデューサーと書くと「pro(前もって)-ducer(生産する)」。私の解釈では、プロデューサーとは「前もって作るために必要なことを準備する人」だし、「作品のことも前もって考える人」だし、「スタッフを前もって育てておく人」なんですよ。簡単に言うと、「政治」「経済」「教育」「創造」「哲学」のポイントがクリアできないとプロデューサーになれない。

──東映プロデューサー5つのポイント! もっと詳しく教えていただけるでしょうか。

関 「政治」は、どこの会社と組めばうまくいくとか、原作を手に入れるために誰を口説けばいいのかと言う根回しの部分。「経済」は作っていくことを支えるお金周りのことや、作ることによって稼ぐお金のこと。「教育」は自分のスタッフの教育はもちろん、周りの関係会社にもアニメの経済や作り方を教育して、理解してもらわなきゃいけない。「創造」は言葉のまま。そして「哲学」は、こういう言い方をすると照れくさいけど、絶対に「自分の哲学」は持ってなきゃいけないと思います。

──関さんの哲学は?

関 作品には、ターゲットとか視聴者と言われる人たちがいる。エンターテイメントの社会で生きる人たちは、その人たちの人生を考えなければいけない、というのが私の哲学です。

──見ている瞬間だけではなく、人生を考える。

関 作品を作るときは、今の10歳が置かれているリアルな現実を徹底的に調べて、こういう子たちにどういう作品を作ったらいいんだろうと考えます。そのあとに考えなくちゃいけないことは、その後の彼らの人生。世の中がどうなったか。「Butter-Fly」の歌詞の「無限大な夢のあとの 何もない世の中じゃ」……1999年の当時も、バブルはとっくの昔にはじけてるし、暗い世の中になっていたし、子どもの周りに起こるいろんなよくない事件がいっぱいニュースになっている時代で、あのころの気持ちが反映されてる歌詞だった。でもね、それから15年経って、世の中どうなったでしょう。10歳だった子が25歳になって、「ちゃんと就職できてるのかなあ」とか、「昔夢みた仕事につけてる人ってどれくらいいるんだろう」とか、「どんな挫折を乗り越えたかな」と考えるんです。

──「どれみ」はライトノベルで高校生になったどれみたちのお話が展開されていますが、それも決して楽しい話だけではなくて、どれみたちの挫折や悲しみも描かれている作品です。あれはやはり、関さんがそういう気持ちのもとで?


関 そうですね。「どれみ」のライトノベルは全て設定もストーリー展開も監修しています。どれみたちの行く道も、どれみを見ていた子たちが行く道も、決して簡単な道ではない。今の彼女たちが置かれているシビアな状況をしっかり考えて作品を作らないと、失敗してしまう。

──「どれみ」のノベライズだけではなく、最近は「セーラームーン」のリメイクや「デジモン」の後日談にあたるシリーズも展開されています。

関 私はどちらの作品にもかかわってはいませんが、そういう作品全部に通用することだと思いますね。15年後とか20年後に作品を生き返らせるときにすごく大事なのは、手間暇を惜しまず、作品の原点に戻って考えること。だって、もともとの作品は、そういうことをちゃんと考えていたわけだから。「夢を見ろ」とうたった人間は、そのあとほったらかしじゃなくて、その子の人生の15年後にも責任を持ってると思います。夢をうたい上げた人間ほど。

原作の先生と当時の関係者との対談やスタッフ対談がてんこもりのムック本! 「GIRLS」と「BOYS」同時発売中。
『タイムスリップ! 東映アニメーション 80s〜90s GIRLS』 Amazone-hon
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(青柳美帆子)