ジョブズ神話を相対化?現代のAppleを反映『スティーヴ・ジョブズ』

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ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。映画『スティーヴ・ジョブズ』を題材に語り合います。


ダニー・ボイルとアーロン・ソーキンが組んだ、のに……


藤田 今回は、ダニー・ボイル監督の『スティーヴ・ジョブズ』。『スティーヴ・ジョブズ』は、ロンドンオリンピックで芸術監督をやったダニー・ボイル監督の新作です。過去には『トレインスポッティング』や『スラムドッグ$ミリオネア』で知られていますね。
 脚本が『ソーシャル・ネットワーク』でザッカーバーグを描いたアーロン・ソーキン。この二人の新作が、何故かジョブズを描いたもの。で、期待は高まるわけですが……いやぁ、悪い意味で期待を裏切ってきましたねw

飯田 率直に感想を言うと、『スラムドッグ』方式でbased on a true storyをやろうとしたら事実にすくわれちゃったかな? と。ただ、めっちゃ誉めているひともいるので、好みの問題かも。

藤田 正直、ぼくも点が低めですね。あんまりジョブズに思い入れはないのですが、全体がバタバタしすぎていたかなぁ。新製品の発表会のプレゼンの直前までを、別の時代で三回描く。その三幕をベースに、社内での人間関係や家族トラブルを描く構成は野心的なんだけど、ひたすら言い合いしすぎてて緩急がないってのと、見せ場を「外し」過ぎな感じがした。
 全体の印象は、北野武監督の『アウトレイジ』っぽいというか。ひたすら「馬鹿野郎」「アップル2に献辞しろ」みたいな話。編集は、時間をぽんぽん回想などと飛ばして重ねる奇妙な実験風味でしたが。(敢えて言えば『Dolls』とか『座頭市』みたいな)

飯田 ジョブズと共同創業者のスティーブ・ウォズニアック、自分で招いたけどAppleから自分を追い出した元ペプシのジョン・スカリー、長らく認知しなかった娘のリサなどとの確執なんて、観に行くような人はみんな知っている話でしょう。養子云々は前に別の映画でもやられていたし。
 なにより僕は、西海岸文化の香りがほとんどしないジョブズ像に「それは違うよ!」(C)ダンガンロンパと叫びたくなったw ドラッグまみれの『トレスポ』撮った監督なんだから、ジョブズのLSD体験も逃げずに描いてほしかった……。
それにたとえば作中にも出てくる「NeXT Cube」のシンプルデザインはジョブズが禅に傾倒して「削ぎ落としたものがすばらしい」みたいな思想から来ているはずで、そういうアメリカナイズされたZENをはじめとするいかがわしい文化とジョブズは切り離せないはず。でもそれをオミットしたから、逆にどういう人間なのかがちょっとわかりにくくなっている気がする。

藤田 西海岸文化の匂い少ないですよね。なんか「劇場=ヨーロッパ風味」の場所が多くて、不思議でした。イギリス人だから?
 それと、ダニー・ボイルって、テクノとかをうまく使ったスタイリッシュな演出が得意な人なんだけど、今回はジョブズがネタなのにそれも封印されまくっているのも不思議でした。

ジョブズの西海岸風味、キチガイっぷりが物足りない!


飯田 ジョブズなんてとんでもないエピソードがいっぱいあるわけだから、普通にやったらそれなりにおもしろくなるはずなんだけど、この作品は意図的に「俺たちが見たいジョブズ」とか「俺たちが見たいジョブズが背負っているカルチャー」をハズしてくる。そこが引っかかる。アーサー・C・クラークとアラン・チューリングに言及するくらいなら、ヨギ・ガンジーとかスチュアート・ブランドとかに言及してよ! ティモシー・リアリーを出せとは言わないから……

藤田 クラークと『2001年宇宙の旅』が冒頭に出てきたのは、少し驚きましたが、でもあんまり意味がない。

飯田 ただ、観方を変えてみると、ダニー・ボイルってジョブズとほぼ同世代(一歳違い)で、ジョブズが1955年、ボイルが56年生まれ。60歳くらいですか。ジョブズをまったく抜きにして、そのくらいの年の人間が、自分の人生、過去と折り合いを付ける映画だと思えば、ありなのかもしれない。人生のそれぞれで付き合う人間って変わっていくことが多いし、その都度、過去の友人や同僚との距離は変わっていく、と。

藤田 ああいう人間らしい弱さのあるジョブズを描くのは意外性としてはどうですか? アーロン・ソーキンって、『ソーシャル・ネットワーク』でも、IT業界の、人間味がないと思われているような人が、「実は結構素朴な感情で製品作ってました」オチをやったじゃないですか。今回、それの二番煎じの部分がうまくいっていない感じがしました。揉めているのと、ヒューマンな結末が、乖離しちゃっている。

飯田 サイコパスすれすれの偏執狂だからジョブズはあそこまでのことができたわけで、普通の人間がするような苦悩ばかりを描かれても、彼の凄さの由来が不可解になっちゃうよね。公式の伝記にまで「ジョブズは禅に傾倒したが、すぐ沸騰する気分屋なところは変わらなかった」みたいなことを書かれているひとなんだよ?w 「ジョブズ」と名前が付いていなかったほうが、素直に感動できたかな。

藤田 三回目の発表会では随分と人間らしくなってきちゃって、しかも結果、父と娘の愛の話に着地したか?って感じは唐突でしたねぇ(のちのiPodとかiPhoneが娘との交流から着想を得ているらしく描写はあるとはいえ)。サイトCinema a La Carteさんの考察では、三回目は、病気を患った後のジョブズに意図的に風貌を寄せているとのことなので、それに起因する心情の変化を背後に読み取らなきゃならないのかもしれませんが。

飯田 でも1回目、2回目のあたりだって「果物だけ食ってれば風呂に入らなくても臭くならない」って信じていたような本物のジョブズのマジキチ感はなかったよw

藤田 そういうのはなかったですねw 献辞は入れてやれよって本当に思ったw 「NeXT Cube」も意味わからないし、周りはマジ大変だなとは思った。

飯田 公式の伝記でもけっこうあけっぴろげだけど、『アップル・コンフィデンシャル』とかで描かれているジョブズは本当にどうかしてるからね。エレベータで遭遇したAppleの社員に「マリファナやったことあるか?」って聞いてそいつが詰まったら「お前、クビ」って言っちゃう人間だよ?(本当かどうかは議論があるエピソードですが)
 ボイル版ジョブズに比べたら孫正義のほうが狂っていて凄いやつに見えるでしょう。本当は孫正義の100倍くらい頭がおかしいのがジョブズだから。

ジョブズ神話の相対化?


藤田 ぼくのこの映画の印象では、劇場型犯罪者のように自己イメージを作り、同時に製品のイメージ=ヴィジョンも作っていく、ヘンな人という感じでした。舞台へのこだわりや、記者の書くストーリーへの拘りなどでも(スカリーが直接そう指摘していましたが)

飯田 イギリス人的なジョブズ解釈はああいうものなのかな。

藤田 ジョブズ神話を相対化しようという狙いはあったかもしれないですね。映画全体は、ジョブズを全く知らない人が見ても人間関係がよくわからないでしょうし、狙いどころが見えにくい。既にあるジョブズ神話の書き換えを狙ったというか。ジョブズは、自分で神話を勝手に作るやつ、みたいに描かれていましたね、ボイル版では。それとの対決と考えれば、狙いはわからなくはないけど、失敗していると言わざるをえない。

飯田 妙に前提知識を要求するつくりになっているよね。たとえばAppleのエバンジェリストとして知られるガイ・カワサキがどういうひとなのか、固有名詞は出てくるけどまったく説明がなかったり。「みんな、ここで描かれるようなAppleのストーリーは知ってるよね?」という前提になっている。つまりジョブズを知らない人向けには作られていないんだけど、でも知っている人が見ると「全部知ってるよ!」という映画になっていて、もったいない。
 ただジョブズ以降、あそこまで破天荒な起業家がいるかと言えば、イーロン・マスクくらいかなと思うわけです。そういう意味では、失われた色彩を回顧させ、取り戻したいと人々に思わせるトリガーとしては意味がある。
残念ながら、ジョブズが死んでからのAppleはかつてほどのワクワクする感じはないしね。はからずも、そういう時代を反映した映画になってしまった、とも言える。「人間」が経営する時代のApple映画。

藤田 監督の作品歴の中では明らかに異質で、ダニー・ボイルらしさを期待して観に行くと、ちょっと外されると思う。

飯田 もっとカットばんばん割って高速展開する映画かと思ったよね。「スティーブ・ジョブズの深イイ話」みたいなものが観たいひとにはいいんじゃないでしょうか。

藤田 ぼくは『スティーブ・ジョブズのアウトレイジ』説を推しておきますw