「『歴史を直視せよ』という韓国の朴大統領は、元寇の際に高麗人が先兵となり、壱岐・対馬の日本人を虐殺した事実を見よ」と大前氏はいう。(写真=AFLO)

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大前氏の朝は早い。毎朝4時に起床し、世界の500記事をチェックし、NHKBS放送で海外のニュースを視聴する日々を送っている。膨大な情報の中からどのような点を見つけ、行動を起こしているのか。

■「すべてゼロから考えたらいいさ」

フレームワークを用いたアプローチは、大前流の問題解決の典型的な手法だ。私に「気づく力」があるのかどうかはよくわからないが、そういう錯覚を与えているとしたら、その源泉はフレームワーク(を作る)力にあると思う。

「大前さんはどうしてそんな新しいアイデアが出てくるんですか」とよく聞かれるが、自分では「新しいものを生み出している」という意識はほとんどない。

私の場合、何か閃いて新しい発想を得るわけではない。自分自身に質問を投げかけて、それを解くための具体的なフレームワークを作り、それに沿って端的かつしつこく、頭の中で問題解決法を構成して出てくるものにすぎない。問題解決のための論理的思考を血肉になるまでとことん鍛練した結果、どんな物事や現象を見ても、すぐに解決方法が見つかるようになった。これは後天的なものである。

「人が気づかないことになぜ気づくのか」と問われても答えようもないのだが、1つの理由らしきものを挙げるとすれば、私には極めて疑り深い点があるということだ。知っているとか覚えている、ということはなく、「すべてゼロから考えたらいいさ」と開き直って、自分なりの問題定義と問題解決をその都度やっているのである。だから、人の話を鵜呑みにしない。他人の言うことを、そのまま正しいとは思わない癖をつける。そして「おかしい」と特別に違和感を覚えたら、徹底的にその瞬間に考え、調べ上げるのだ。

近頃、中国や韓国が日本を非難するときに「歴史を直視せよ」「歴史を直視しない民族に未来はない」と言うが、余計なお世話である。ならば「自分たちは歴史を直視しているのか」と言いたくなる。実際、直視していない事例を調べてみると山のように出てくる。

たとえば中国。この国を訪れると毎晩憂鬱になる。テレビをつけると抗日戦争の映画ばかりが垂れ流されているからだ。

「抗日戦争に勝利して日本の植民地支配から中国人民を解放したのは中国共産党の功績である」。このように、共産党政府は今でも必死にアピールしているわけだが、それこそ歴史を直視していない。

歴史的に見れば、抗日戦争に勝利したのは蒋介石(あるいは国共合作プラス連合軍)である。戦勝国が集まったヤルタ会談にもカイロ会議にも毛沢東は呼ばれていない。毛沢東が中国本土を統一して蒋介石を追い出したのは、戦争が終わって4年以上が経過した1949年のことだ。

むしろ毛沢東は日本軍と通じていた部分があったようで、A級戦犯と何回も接触していた記録が残っている。中国4000年の歴史は他民族の侵略と漢民族の分裂の歴史。「1つの中国」と言うがそういう概念が何を指すのかも不明である。

韓国にしても、朴槿恵大統領は日本の植民地支配に抵抗した「三・一独立運動」の記念式典で演説し、「加害者と被害者という立場は1000年の歴史が流れても変えることはできない」と述べた。これも歴史を直視できていない発言だ。韓国は中国を何回も侵略しているし、実は日本にも兵を送っている。

フランスとドイツの歴史を振り返れば、加害者と被害者の立場は何度も入れ替わっているではないか。カリフォルニアやテキサスを奪ったアメリカをメキシコは恨み続けているだろうか。朴大統領は元寇の際に日本を襲来した兵の多くが朝鮮半島の高麗人だったことをご存じないようだ。高麗人が先兵となって壱岐・対馬で暮らす日本人を凌辱し、虐殺した“歴史”についてだ。当時、元軍にどれだけの高麗人がいて、いかに好戦的だったか、資料を調べればいくらでも出てくる。

私の父親の出身は対馬だ。「被害者と加害者の関係は1000年の歴史が流れても変えることができない」と言うなら、2度の元寇から800年も経っていないのだから、謝罪や賠償に応じていただいても構わない。「歴史を直視せよ」などという言い草は天に唾するに等しい。アメリカもフランスもスペインもポルトガルも、すべての人は歴史を直視するのが苦手なのだ。

■都知事選の敗北からも気づかされた

人が言うことや世の中の常識とされることを「本当だろうか」と疑い、自分で調べてみるのは、コンサルタント時代からの習い性のようなものだ。今はネットで簡単に情報が得られるが、昔は苦労して調べ、よく人に話を聞きにいっていた。

「日本はいつからこんなに国債を発行して“将来からカネを借りてくる”ようになったのか」。それを知りたくて、当時の大蔵省で最初に計画課長をやった人に話を聞きにいったことがある。今はネットで情報が集まるが、当時は人づてで情報を取るしかなかった。

もともと各省の予算配分をコーディネートして歳入と歳出のバランスを取るのが、大蔵省主計局の仕事だった。それが一変したのは田中角栄元首相が大蔵大臣になった62年。その大蔵官僚曰く、「その日を境に空の色が一変した」。

「入ってくるカネを使っているだけでは日本は成長できない。これからは、とにかく使うことを先に考えろ」。田中大臣がそう言ってから、赤字なら将来から借りてきても成長を優先する“新しい方程式”が出現したのだ。

田中角栄氏については、いろいろな人に会って話を聞いたが、やはり大したリーダーだったと思う。将来から借金をしてでも国にインフラをつくらせて、あとは民間に儲けさせる。「繁栄して歳入が増えれば返せるんだから、将来から借りて使えばいい」という発想は、成長期の日本においては見事な問題解決法だった。

国の借金が膨らんだのは、成長期が終わったにもかかわらず新しい国家運営のモデルを打ち立てることなく、田中角栄的な手法を引きずった後の政治家と役人の問題であって、田中氏のせいではない。

95年の都知事選に出たときにも面白い経験をした。「もしかしたらコイツ(大前)が都知事になるかもしれない」と思ったのか、都庁の関係者が擦り寄ってきて我先にと内部情報が寄せられたのだ。

当時はファクスでいろいろな資料が送られてきて、東京都のクサい話が一気に私のもとに集まったことをよく覚えている。都知事選の敗北は私にとっては苦い経験だったが、新しい情報源を得て、それまで考えてもみなかったことに気づかされることも多かった。

■自分の足で調べなければ気づかないこと

「大前研一のガラガラにっポン」(テレビ東京系)というテレビ番組を作っていたときには全国各地を取材して回った。そのとき意外と重要なのが、タクシーの運転手からの情報だった。十和田湖から八戸までタクシーを使ったら、運転手が「この辺のリンゴ農家は皆、台風が来るのを待っているんですよ」と言う。聞けば台風でリンゴがダメになると補償金が出るのだという。「去年の台風ではリンゴが壊滅的な被害を受け年末にまとまった補償金が入ってきた。そういうときしか農家はお金を使ってくれない。あれで正月にハワイやゴールドコーストに行った人も多い。また台風来ないですかね」。

1時間半の長距離乗車で運転手もいろいろな話をしてくれた。「八戸で漁港を見てこようと思っているんだけど。あの辺はロシア漁船が来ているらしいな」「よくご存じですね。ロシア船は表の漁港に入れないので、山の裏側の漁港に来てます。八戸の漁師は危険な北洋漁業には行かない。ロシア人に卸させているから、最近は楽になっているんですよ」。地元漁師に取材して確認すると、漁は完全にアウトソーシングで、「ロシア人の船は鮮度が問題。来年からは冷凍庫を完備したオレたちの船を貸してやろうと思っているんだ」とアッケラカンと白状した。

あるとき、日本海側の漁港で境港の漁獲高が1位になったというニュースを聞いて、疑問を持った。日本海全体で魚の量が増えて他の漁港でも軒並み漁獲高がアップしているなら理解できるが、統計を見ると境港だけが増えている。どう見ても不自然だ。境港は朝鮮半島に近い。これは北朝鮮の漁船と洋上交換をしているのではないか――。そういう仮説を立てて現地に乗り込むと、やはり漁師は餌は持たずにドルを抱えて出漁し、大漁旗を立てて帰ってくる光景にたどりついた。

日本の漁業や農業を取材すればするほど、この手の話には事欠かない。十勝ワインにブルガリアのバルク(樽)ワインが混ざっていたり、ホクレンが出荷するアスパラやブロッコリーが実はオーストラリアのクイーンズランド産だったり……。このことを本に書いたら、ホクレンから出版停止と本の回収を求められた。しかし私はクイーンズランド州政府に情報請求して、州政府とホクレン・インターナショナルが交わした契約書を手に入れていたのでそれを示すと、向こうは簡単に引き下がった。

ホクレンの輸入業者化に気づいたのも、自分が主宰する勉強会でクイーンズランド州を訪ねて、日本向けの輸出品目リストを見せてもらったことがきっかけだった。それがどこに行っているのか調べているうちに、オーストラリアでは行政府に情報公開を求めることができると聞いて、地元の友人に農産物の買い手の情報を請求してもらった。入手した資料には「ホクレンは本契約に神経質なので口外しないように」という脚注があったのには笑えた。それ以降、「ホクレンのXX」という箱に入っているものは輸入品、北海道産と書いてあれば間違いなく国産、という識別があることに気がついた。

世の中にはネットやメディアだけではたどりつけない情報がある。自分の足で調べなければ気づかないことがあるのだ。知的好奇心を持つ第三者の目で行動し観察・思考することも、「気づく力」につながる大事な要素ではないかと思う。

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大前研一
1943年生まれ。マサチューセッツ工科大学院で博士号取得。マッキンゼーのアジア太平洋地区会長を経て、現在はビジネス・ブレークスルー大学学長。
 

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(小川 剛=構成 市来朋久=撮影 AFLO=写真)