宮城県登米高等学校(宮城)

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 この春、登米は宮城県大会で3位になり、創部67年目で初の東北大会を戦った。初戦の相手は強豪・青森山田。試合は1対9で敗れたが、それでも、千葉 厚監督が「東北大会って、いいなと思いました。レベルの高さを体感できましたし、常連校は試合の進め方も攻守交代も早い。このレベルじゃないと勝てないということを感じ、目標を見つけることができました」と言えば、高橋 大喜主将も「チーム力や走攻守、全てにおいて1つも2つも上だなと感じました。優勝した青森山田に負けたわけですが、東北(地方)の最高レベルを感じることができました」と敗戦を糧にしている。

 つい3年前の2012年は、公式戦0勝5敗だった。「登米市から甲子園」をキャッチフレーズに徐々に力を付け、昨年は春秋ともに県大会に出場。そして今年、創部初の東北大会出場を決めた。地域の応援も受けて、聖地を目指すチームを直撃した。

春は59年ぶりの県4強入り

今春の宮城県大会で3位となり、東北大会に初出場した登米ナイン(宮城県登米高等学校)

 他校にとっては、全くのノーマークだったのではないかと思う。それが、あれよ、あれよと勝ち上がった登米。この春、59年ぶりに4強入りし、初の東北大会出場を決めた。

 県大会1回戦で白石に9対0の8回コールド勝ちを収めると、2回戦の相手は松島だった。昨秋、県大会3位となり、東北大会でも初戦を突破した松島。センバツ大会の21世紀枠の東北地区推薦校にもなったチームだ。試合は投手戦となり、1対1のまま延長へ。延長10回表、登米の攻撃でミラクルが起こった。

 登米は二死満塁とし、打席には3番・首藤 成世。強めの打球はサードへ。「あ、ヤバイ!と思って、必死に、アウトにならないように走っていました」と首藤。打球は一塁に送球され、アウトになれば0点でチェンジだ。

 ところが、首藤の打球は、松島の三塁手のユニホームシャツの中にすっぽりと入った。ボタンとボタンの間から、弾みでボールが入った。そんな“珍事”の間に三塁走者がホームイン。打った首藤は一塁セーフとなった。4番・佐々木 幹太もタイムリーを放ち、この回4点を入れた登米が勝利した。中部地区予選の敗者復活戦で東北、聖和学園といった実力私学を破った、好投手・大塚 康平擁する泉との準々決勝も6対2で勝利。59年ぶりにベスト4に進出した。

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 そして準決勝の相手は仙台育英。言わずと知れた、宮城の雄である。登米はエース・白岩 聖隆ではなく、2年生の菊地 圭佑が先発した。仙台育英打線を翻弄し、3回まで0対0。そして、4回、無死満塁で4番・佐々木 幹が左中間へ走者一掃の適時二塁打を放ち、先制点を奪った。3対0の6回に1点を返されたが、3対1と2点をリードして終盤へ。しかし、仙台育英の地力が勝り、8回に3点を失って3対4で敗れた。

 仙台育英には惜敗したが、石巻との3位決定戦をものにし、創部67年目で初の東北大会出場。首藤 成世が「一戦、一戦やるだけでした。東北大会まで行けるとは思っていなかったです」と話せば、高橋 大喜主将は「育英には負けたけど、自信がつきました」と振り返る。奇跡的なゲームもあり、王者とも接戦を演じた登米。千葉 厚監督は「春は春。夏はまた別の大会です。春のことは忘れようと話しています」と、気持ちを切り替えさせ、夏に向かっていた。

地元から甲子園を目指す

千葉 厚監督の話を聞く(宮城県登米高等学校)

 登米郡の8つの町と本吉郡津山町の9町が合併し、2005年の「平成の大合併」で誕生した人口約8万人の宮城県登米市。田園地帯が広がる米どころである。登米があるのは、この登米市登米町。「とめし、とよままち」と読む。明治時代に建てられたレトロな洋風建築物が残っている「みやぎの明治村」として、市内を代表する観光地だ。

 その代表的なものが、明治21年に建てられた旧登米高等尋常小学校校舎。今は「教育資料館」として多くの観光客を集めているが、なんと、千葉監督の名刺には「国重文 旧登米高等尋常小学校」の説明書きとともに教育資料館の写真がプリントされている。地歴公民科の千葉監督は「私は仙台出身で、登米町には来たことがなかったんです。もう、行く所、行く所、教材だらけです」と笑う。街をアピールする名刺を持っている高校野球の監督は珍しいのではないだろうか。

 そんな歴史情緒溢れる街にある登米は1920年に登米町立実科高等女学校として創立された。普通科と商業科があるが、商業科は募集停止となり、今年の1年生は普通科のみ。商業科は、今年、登米市内に開校した登米総合産業に移った。少子化の影響で、上沼、米山、米谷工と登米の商業科が統合されてできた登米総合産業。少子高齢化の進行は登米市も例外ではない。

 ただ、子どもは減っているが、野球熱の高い地域でもある。「小学校の野球チーム、中学校の野球部が一生懸命なんです」と千葉監督。しかし、能力の高い選手、力のある選手は、県内外の私学に流れていく傾向があった。個々の選択の自由ではあるが、寂しさもある。

 2012年4月、気仙沼から転勤してきた千葉監督。その年の宮城大会まで部長を務め、宮城大会後から監督となり、「登米市から甲子園」というキャッチフレーズを掲げた。高校野球選手権大会が始まって今年で100年。仙台市はもちろん、近隣の石巻市、栗原市、大崎市、気仙沼市からの甲子園出場はあるが、登米地域からの甲子園出場はない。中学生への技術指導の講習会では「登米市から甲子園を目指そう」と話してきた。「登米に来てほしい」とか「登米を強くしたい」ということではなく、「地元から甲子園を目指さないか」という呼びかけ。特別、野球が強い高校があるわけでもない地域で、中学生に希望を持たせた。

[page_break:この夏は自分たちの力で頂点へ!]

高橋 大喜主将(宮城県登米高等学校)

 187センチの長身エース・白岩 聖隆は、実は中学で野球を辞めようと思っていた。しかし、千葉 厚監督の話を聞き、「『登米市から甲子園』という思いでやっていると聞いて、高校でも野球をやってみようと思いました」と決意。また、「『登米市から甲子園』って、かっこよくないですか?かっこいいですよね。甲子園という目標を持って練習してきました」と、登米市の東和中出身の首藤 成世は言う。

 高橋 大喜主将は「能力は高くないですが、意識は高くやれています。地元で野球をやっているのは強みだと思っています」と胸を張る。千葉監督曰く「ここで野球をやりたいと思って来てくれた子たち」という今年の3年生。「登米市から甲子園」という希望の言葉の下で出会った選手たちだ。

 監督1年目は人数も少なく、「休む時は連絡をきちんとしよう」「集合時間には遅れないようにしよう」といったところから指導し始めた。当初は「とにかく、県大会に行かせたい」一心だった。基礎的な練習から始め、徐々に力を付けていった。2013年春に2002年以来の県大会出場を決めると、昨年は春秋ともに県大会に駒を進めた。昨夏は4回戦に進出している。

 その昨夏、同じ登米市の佐沼が宮城大会決勝に進出。惜しくも敗れ、甲子園出場はならなかったが、登米は決勝戦を友情応援した。佐沼は登米の利府戦を友情応援してくれていた、その恩返しだった。登米の選手たちにとって、佐沼の決勝進出は刺激になった。

 千葉監督は「地域の応援」も欠かせないという。グラウンドは道路に面しているため、選手たちはグラウンド横を通る近隣住民に「こんにちは」「こんにちは」と挨拶。立ち寄って、練習を見学する人々も増えている。バックネット裏には簡易のスタンドがあり、「ここはサロンです」と千葉監督。女子マネージャーがお茶を出し、“登米カフェ”はちょっとした休憩所にもなる。地域の大人に見守られ、登米の選手たちは練習に励んでいる。

この夏は自分たちの力で頂点へ!

シャドーピッチングをする白岩 聖隆選手(宮城県登米高等学校)

 フリーバッティングでは、後ろに審判役も付け、「ストライク」「ボール」を判定して行うなど、常に実戦を意識。ビハインドから攻撃する練習をするなど、工夫を凝らし、力を付けてきた。千葉監督が「下手だっただけに、一生懸命だった。雰囲気がいいチームだった」と話す今年の卒業生がチームの基礎を築き、今年の3年生が新たな歴史を生んだ。あとは、「登米市から甲子園」の実現だ。

 エース・白岩が「青森山田戦は際どいボールはカットをされ、甘い球は打たれ、苦しかったです。でも、それは上のレベルの大会だから分かったこと。いい経験になりました。決勝で育英を倒して甲子園に行きたいです」と言い切れば、高橋主将は「目標はもちろん甲子園なんですが、厚先生に連れて行ってもらう甲子園ではなく、自分たちでつかみたいと思っています」

 指導者主導の練習ではなく、選手たちが考えて取り組んでいる登米らしい決意だ。のどかな田舎町から目指せ、甲子園。登米の初戦は11日。富谷と仙台南の勝者と戦う。

(取材・文=高橋 昌江)