2月6日午後、アメリカのゲーリー・ロック駐中国大使は大使館を離れて、北京市内で会合に出席していた。スマートフォンに意味深長なメールが届いたのはそのときのことだ。「盗聴されず通信できる大使館内のエリアに、直ちに戻ってください」

 慌てて大使館に戻ると、待っていたのは驚くべき知らせだった。四川省成都の米総領事館に重慶市の副市長がやって来て、政治亡命を求めているという。

 王立軍(ワン・リーチュン)副市長は重慶のマフィア撲滅運動の責任者を務めていた人物だが、市トップの薄熙来(ボー・シーライ)・重慶市共産党委員会書記に殺害される危険があると主張していた。薄の妻子と接点があったイギリス人実業家ニール・ヘイウッドが昨年11月に市内のホテルで毒殺されたとされる事件で、多くを知り過ぎたことが命を狙われる理由だという。

「非常に興味深い、驚くべき話だった」と、ロックは本誌の独占インタビューで語った。「思わず口をついて出たのは、『何てことだ! 本当に信じられない!』という言葉だった」

 薄は、次期最高指導部入りが確実視されていた中国共産党の大物幹部。それだけに、王への対応には細心の注意を要した。しかも、事態はその後ますますヒートアップした。薄は成都の米総領事館に警官隊を派遣して、王の身柄引き渡しを要求。 王は重慶警察への投降を拒み、中央政府の治安当局によって北京に移送されることを選んだ(その後、王は国家反逆罪で告発され、薄は失脚、薄の妻はヘイウッド殺害容疑で逮捕された)。

「まるでスパイ映画の世界のようだった」と、ロックは一連の重慶スキャンダルをめぐる騒動を振り返る。

米国が望んだ穏便な処理

 その後の約4カ月間、ロックは中国大使として、歴史に残る激動の日々を経験する。王立軍事件に続いて、4月には自宅軟禁されていた盲目の人権活動家・陳光誠(チェン・コアンチョンの脱出劇をめぐる騒動の渦中に放り込まれることになる。

 62歳のロックはシアトルで生まれ育った中国系アメリカ人だ。エール大学、ボストン大学法科大学院を経て検察官として働いた後、政界に転身。97〜05年にかけて、ワシントン州知事を2期務めた。中国系アメリカ人が州知事になったのは史上初めてだった。

 99年にシアトルでWTO(世界貿易機関)の総会が開催された際、反対派のデモが過激化して警察の手に負えなくなると、ロックは冷静沈着に州兵の投入を決断。騒乱を沈静化させた。

 03年には、命を狙われたこともあった。FBIによれば、ロックの暗殺計画が存在したという。脅迫の電子メールが届いたほか、ある白人至上主義グループのメンバーが知事室の受付まで近づいたこともあった。

「(子供たちの安全を考えると)とても不安だった」と、ロックは当時を振り返る。「その男は、マイノリティーがワシントン州の知事を務めることを好ましくないと考えていたのだろう」

[2012.6. 6号掲載]

メリンダ・リウ(北京支局長)