【特別寄稿】 取材対象としての松田直樹 (宇都宮徹壱)
※「徹マガ」2011年08月07日号(通巻第63号)より全文転載※
8月4日、松本山雅FC所属の松田直樹さんが急性心筋梗塞のため34歳でお亡くなりになりました。謹んで哀悼の意を表します。
私自身、松田さんとはそれほど親しかったわけではない。ただ取材者として、06年5月と10年12月の2回、インタビューする機会を得ている。前者は「なぜジーコのチーム構想から外れたか」を探るのが目的であり、後者は16年間プレーした横浜F・マリノスから戦力外通告を受けた当人に、長年の友である中田英寿氏と対比しながら「過去・現在・未来」についてじっくり語ってもらった。
いずれのインタビューも、松田さんを取り巻く環境は決して芳しいものではなかった。とりわけ最後のインタビューとなった昨年末は、本人も戸惑いを隠せないくらい厳しいものであったはずだ。それでも彼は、終始リラックスした表情で私の質問に耳を傾け、そして清々しいくらい明快な口調で自身の考えを言語化してくれた。2度のインタビュー取材で痛切に感じたのは、いずれも嘘偽りなど微塵も感じられない、実に誠実な彼の対応ぶりであった。
反逆児、諸刃の剣、あるいは未完の大器。常に危うさをはらみながらも、彼が放つ言葉の数々は、そのいずれもが刺激的かつストレートで、そして子供のようにどこまでも純粋であった。人はそれを「未成熟」と呼ぶだろうが、松田直樹の場合のみ、特権的に許容されていたように感じる。そして、あくまでも成熟や老成を拒否し、いつまでも現役フットボーラーであり続けたいとする彼の生き方に、誰もが無意識の内に羨望の眼差しを向けていたように思う。
昨年末のインタビューでは、メインテーマである「中田英寿という生き方」のカウンターとしての「松田直樹という生き方」に切り込むことで、両者の存在感をより際立たせることが目標であった。実際のところ両者の生き方は完全な間逆の関係にあり、とりわけそれは「現役」に対する考え方や行動において明快なコントラストを成していた。中田氏の生き方について、松田さんは「オレはサッカーしかないという感じだから」「尊敬している」と語っている。逆に中田氏は、松田さんの生き方をどう感じていたのだろうか。
親友の死について、コメントを求められた中田氏は「オレはもうマツには伝えたから。わざわざ他の人に言うことじゃない」として、公でのコメントは控えたと聞く。いつ、どのようにして「伝えた」のか、それは当人にしか分からない。ただ、多くのサッカーファンが「サッカーに殉じた」松田さんの生き方に強いシンパシーを感じている中、もしかしたらそうした空気を敏感に察知して、あえて明言を避けたのかもしれない。
思えばマツとヒデは、対極のポジションにありながら、それゆえに互いを認め合う関係であった。そして何より、時代のカリスマとなっていたヒデに対し、唯一自然体で接することができたのがマツであった。02年ワールドカップの日本代表に密着したドキュメンタリー「六月の勝利の歌を忘れない」では、ヒデをプールに投げ込むマツの姿が描かれている。あの時、ふたりは心の底から笑っていた。それだけに、マツに対するヒデの追悼の言葉が発せられないのは、何とも残念である。
最後に、思い切り個人的なことを書かせていただく。昨年末のインタビュー終了後、私は松田さんに「一緒に写真を撮らせてください」とお願いしている。それは、いつもの私の行動規範では絶対にあり得ないことだった。通常のインタビュー取材の場合、私が撮影を兼任することが多かったし、そんなミーハー的なお願いをすること自体、恥ずかしいことと思っていたからだ。
ただ、その日はたまたま編集部がフォトグラファーを用意してくれたことに加え、久々に会心のインタビューができたという満足感もあり、どうやら私の中に奇妙な高揚感が芽生えていたようだ。幸い、私の申し出に対して松田さんも快諾してくれたので、今となっては貴重なツーショット写真が手元に残ることとなった。私の隣に立っている、私よりも11歳も若い男は、もうこの世にはいない――。そう考えると、眼前が真っ暗になるような絶望感に、ただただ戸惑うばかりである。
今季、松本山雅を定期的に取材するようになったのも、松田直樹というJFLとしては破格の戦力が加入したことが大きかった。そして、J2昇格という悲願を果たした緑の軍団の輪の中に、破顔一笑の背番号3がいることをずっとイメージしながら取材を続けてきた。その夢は無残にも断たれてしまったわけだが、それでも松本の戦いは今後も続く。ゆえに私も、引き続きアルウィンに定期的に通いながら、この物語の顛末を見届けることにしよう。そして近いうちに、それを一冊の書籍に昇華させたいと思う。
最後に、松田直樹さんへ。素晴らしいインタビュイーとして、そして被写体として、私の近くにいてくれて本当に有難うございました。あなたと同時代に仕事ができたことは、私にとっての誇りです。どうか安らかに、お休みください。
[文=宇都宮徹壱]
8月4日、松本山雅FC所属の松田直樹さんが急性心筋梗塞のため34歳でお亡くなりになりました。謹んで哀悼の意を表します。
私自身、松田さんとはそれほど親しかったわけではない。ただ取材者として、06年5月と10年12月の2回、インタビューする機会を得ている。前者は「なぜジーコのチーム構想から外れたか」を探るのが目的であり、後者は16年間プレーした横浜F・マリノスから戦力外通告を受けた当人に、長年の友である中田英寿氏と対比しながら「過去・現在・未来」についてじっくり語ってもらった。
反逆児、諸刃の剣、あるいは未完の大器。常に危うさをはらみながらも、彼が放つ言葉の数々は、そのいずれもが刺激的かつストレートで、そして子供のようにどこまでも純粋であった。人はそれを「未成熟」と呼ぶだろうが、松田直樹の場合のみ、特権的に許容されていたように感じる。そして、あくまでも成熟や老成を拒否し、いつまでも現役フットボーラーであり続けたいとする彼の生き方に、誰もが無意識の内に羨望の眼差しを向けていたように思う。
昨年末のインタビューでは、メインテーマである「中田英寿という生き方」のカウンターとしての「松田直樹という生き方」に切り込むことで、両者の存在感をより際立たせることが目標であった。実際のところ両者の生き方は完全な間逆の関係にあり、とりわけそれは「現役」に対する考え方や行動において明快なコントラストを成していた。中田氏の生き方について、松田さんは「オレはサッカーしかないという感じだから」「尊敬している」と語っている。逆に中田氏は、松田さんの生き方をどう感じていたのだろうか。
親友の死について、コメントを求められた中田氏は「オレはもうマツには伝えたから。わざわざ他の人に言うことじゃない」として、公でのコメントは控えたと聞く。いつ、どのようにして「伝えた」のか、それは当人にしか分からない。ただ、多くのサッカーファンが「サッカーに殉じた」松田さんの生き方に強いシンパシーを感じている中、もしかしたらそうした空気を敏感に察知して、あえて明言を避けたのかもしれない。
思えばマツとヒデは、対極のポジションにありながら、それゆえに互いを認め合う関係であった。そして何より、時代のカリスマとなっていたヒデに対し、唯一自然体で接することができたのがマツであった。02年ワールドカップの日本代表に密着したドキュメンタリー「六月の勝利の歌を忘れない」では、ヒデをプールに投げ込むマツの姿が描かれている。あの時、ふたりは心の底から笑っていた。それだけに、マツに対するヒデの追悼の言葉が発せられないのは、何とも残念である。
最後に、思い切り個人的なことを書かせていただく。昨年末のインタビュー終了後、私は松田さんに「一緒に写真を撮らせてください」とお願いしている。それは、いつもの私の行動規範では絶対にあり得ないことだった。通常のインタビュー取材の場合、私が撮影を兼任することが多かったし、そんなミーハー的なお願いをすること自体、恥ずかしいことと思っていたからだ。
ただ、その日はたまたま編集部がフォトグラファーを用意してくれたことに加え、久々に会心のインタビューができたという満足感もあり、どうやら私の中に奇妙な高揚感が芽生えていたようだ。幸い、私の申し出に対して松田さんも快諾してくれたので、今となっては貴重なツーショット写真が手元に残ることとなった。私の隣に立っている、私よりも11歳も若い男は、もうこの世にはいない――。そう考えると、眼前が真っ暗になるような絶望感に、ただただ戸惑うばかりである。
今季、松本山雅を定期的に取材するようになったのも、松田直樹というJFLとしては破格の戦力が加入したことが大きかった。そして、J2昇格という悲願を果たした緑の軍団の輪の中に、破顔一笑の背番号3がいることをずっとイメージしながら取材を続けてきた。その夢は無残にも断たれてしまったわけだが、それでも松本の戦いは今後も続く。ゆえに私も、引き続きアルウィンに定期的に通いながら、この物語の顛末を見届けることにしよう。そして近いうちに、それを一冊の書籍に昇華させたいと思う。
最後に、松田直樹さんへ。素晴らしいインタビュイーとして、そして被写体として、私の近くにいてくれて本当に有難うございました。あなたと同時代に仕事ができたことは、私にとっての誇りです。どうか安らかに、お休みください。
[文=宇都宮徹壱]
写真提供:フットボールサミット編集部
※出典:「徹マガ」2011年08月07日号(通巻第63号)※
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