なぜ普通の主婦だった彼女が代表を引き受けることになったのか(写真: ジャバ / PIXTA)

上智大学文学部新聞学科の水島宏明教授が指導する「水島ゼミ」は、大学生に小さなビデオカメラを持たせ、この世の中にある何らかの社会問題を映し出すドキュメンタリーの作品づくりを指導している。
若者たちが社会の持つリアリティと向き合い、最前線で活動する人々と出会うことによて、社会の構図や真髄を自ら把握していってほしいという取り組みだ。そんな若者たちの10章のドキュメンタリーをまとめたのが『想像力欠如社会』(弘文堂)である。今回、その中から栗原海柚さん、向島櫻さんによる第8章『妻として、犯罪被害者として〜今日もあなたと生きていく〜』を全文転載する。

地下鉄サリン事件被害者の会代表、高橋シズヱさん(70)。多くの人は、報道カメラの前で遺族の気持ちや裁判について堂々と語る彼女を思い出すだろう。しかし、大学生である私の心をつかんだのは、テレビでは見せない彼女のはじける笑顔だった。「48年間、本当に普通の主婦だったのよ」。何の挫折もしたことがなかったと、あっけらかんと話す。

そんな当たり前だった日常を、1995年に起きた地下鉄サリン事件が奪ってしまった。結婚してから事件後までの32年間、シズヱさんが暮らした北千住へ足を運ぶと、家族の楽しい思い出がよみがえる。しかし、それと同時に事件後の心苦しさも混ざり合いながら浮かび上がってくる。「地下鉄サリン事件被害者の会代表」として生きづらさを感じる日々。そんな彼女を支え続けたのは、他でもなく事件で亡くなった夫の一正さんの存在だった。事件当時を知らない世代だからこそ見つけられた、等身大のシズヱさんを映し出す。

事件を知らない私が、初めて彼女に会った日

「この会を開催させていただきました、高橋シズヱです。まず、注意点があります。今回の会で、気分が悪くなってしまう方は別室を用意してありますので、そちらで休んでください」。


高橋シズヱさん(筆者撮影)

2017年3月19日。「地下鉄サリン事件22年のつどい」と掲げられたホワイトボードの前で、そう切り出した。東京の中心部にあるビルの会議室。彼女の目の前には、私を含む10人あまりの学生と、多くの地下鉄サリン事件被害者の会の関係者、そして後ろにはずらっと並んだ報道陣。100人以上の視線とカメラに見つめられながらも、しゃんと立ち、まっすぐに前を見つめて言葉を紡ぐシズヱさん。地下鉄サリン事件で、当時営団地下鉄(現在の東京メトロ)霞が関駅の助役だった夫の一正さんを亡くし、今は被害者の会の責任者として活動を続けている。私が知っているのはそれだけだった。

「気分が悪くなる」とは、PTSDを抱えた人たちに対する配慮だということは、後で合点がいった。そのくらい、何も知らなかった。当時まだ生まれてもいなかった私にとっては、無縁で、難しくて、怖くて得体の知れない事件……そう思っていた。

そもそも、「地下鉄サリン事件22年のつどい」へ足を運んだのは、大学の新聞学科1年生として、取材活動を体験するためだった。しかも、継続して取材することが前提だったわけではなく、あくまでこの1日のルポを書くことだけが求められた課題だった。

正直に言ってしまえば、地下鉄サリン事件について特別強い関心があったわけではない。小さい頃、交番を通りかかるたびに横目で見ていた指名手配のポスターの記憶。私が生まれるよりも前に起きたテロ事件。その程度の認識だ。なので、22年のつどいで話題にあがったPTSDというものも最初はどういう症状なのか実感がわかないし、VXというものが北朝鮮による暗殺で使われたものと同じだということも知らなかった。

しかし、この時から私の胸にあったのは、「被害者と言われる人たちの気持ちを聴いてみたい」ということだ。生まれて20年間、身近な人を失ったことなどなく、両親も自分も健康な、比較的恵まれた生活をしてきた。そんな私が、「犯罪被害者」と呼ばれる人とうまくコミュニケーションができるのか。プロの報道カメラや会場の雰囲気、何よりシズヱさんの真剣なまなざしに圧倒されつつ、緊張で汗ばむ手でペンと手帳を握りしめてシズヱさんに駆け寄った。

直接話した第一印象は「よく考えて、言葉を選びながら話す人」だった。こちらの質問の意図が伝わらなければきちんと聞き直してくれるし、焦ってしどろもどろになっても落ち着いて待っていてくれる。事件後生まれた若い学生も来場していたことに触れると「最近は前より活動を控えているんです。でも、若い人のいる大学などからの講演依頼は、お願いがあれば必ず行くようにしています」と話す。今まで冷静に質問に答えていた声のトーンが少し高くなり、言葉に力が入る。

思わずはっとした。事件当時オウム真理教に所属していた信者の多くは、私のような20歳前後の学生たち。再発を防ぐために彼女が一生懸命伝えようとしている「若い人」とは、まさに自分たちのことなのだ。「もっと知りたい、知らなくちゃいけない」と思えたのは、この瞬間からかもしれない。少なくとも、何もわからなかった自分だからこそ相手の気持ちを知るべきだと思えたのだ。

継続的にシズヱさんを取材することに

こうして取材活動に興味を持った私は、2年生になった春からドキュメンタリーを作るゼミに入り、継続的にシズヱさんを取材することになった。


高橋シズヱさん(筆者撮影)

「怖そう」、「難しそう」という理由で敬遠する仲間もいたし、実際にそういう気持ちは私にもあった。だが、私はあの日のもやもやした気持ちをそのままにしたくなかったのだ。ドキュメンタリーはおろか社会人相手に取材をしたことなど一度もなかった私は、まずは大学で直接話をする機会を設けてもらった。

スーツ姿でがちがちに緊張しながらシズヱさんを迎えに行く。シズヱさんは、周囲から少し離れてJR四ツ谷駅前で待っていた。先日の集会での全身黒にまとめた服装とは全く違って、白地にピンクと黄色の花があしらわれたシャツが可愛らしい。声をかけると、にっこりと柔らかく笑って「高橋シズヱです」と応じてくれた。

これまた前回とは違った明るいトーンで「この前東京タワーまで歩いて行っちゃった」、「被害者の会で知り合った友達とこの前旅行に行ってね」などと近況を話し、旅行先の様々な写真も見せてくれる。スマートフォンはもちろん、LINEやFacebookといったSNSを使いこなす姿にも驚いた。    

地下鉄サリン事件関連のニュースで硬い表情でテレビに登場する彼女が、笑い声をあげながら私生活を話す様子になんだか面食らってしまった。第一印象とは真逆な、快活なしゃべり方。なぜこんなにもギャップを感じるのだろうか……不思議に思った。

「聞きたいことは、聞いてください。今更、答えたくないことなんてありませんから」。私が最初の質問をするよりも前に、シズヱさんははっきりと言った。無知なら無知でいい。むしろ、事件を知らない人がどう思っているのかを知りたいと。この一言が「自分が知らないことが恥ずかしい」、「怒らせてしまうかもしれない」と、どこか臆病でいた自分を吹っ切れさせてくれた。

事件に関しては堂々としているシズヱさんだが、幼い頃は委員長やリーダー的な役割は全くやってこなかった、内気な普通の女の子だったという。そのイメージの違いにも驚いた。オウム真理教についても週刊誌で読む程度のことしか知らなかったという。あぁ、この人は私と同じだったのだ。

「挫折することもなく」生きていた、同じ1人の女性。だからこそ、その日常を奪われた時の気持ちは自分にもわかるはず……これは、自分自身の問題でもあるのだ。「彼女のことをもっと知りたい」。今度ははっきりと、そう思った。

32年間家族で住み続けた地、北千住へ

2017年5月18日。シズヱさんに会うために、私は代々木上原から我孫子行きに乗っていた。事件が起きた車両とは反対方向だが、同じ千代田線の線路を通る。音楽を聴いたり、友達としゃべったり、居眠りをしたり、スマートフォンをいじったり。よく見る光景が広がる朝だった。私自身も音楽を聴こうと、イヤホンをスマートフォンに刺し、電源をつける。表示された時間は、午前10時を少し回ったところだった。

「22年前の3月20日のこの時間には、もう地下鉄サリン事件は起こっていた。そこにはこんな平穏はなかったんだ」という考えが、ふいに頭に浮かんだ。6000人以上の人が、人間の神経を一瞬で破壊するガスを吸い込み苦しんだ。その人たちにとっても、いつも通りの朝になるはずだったのに。そう考えると、いつもの地下鉄の風景が違って見えてくる。

地下鉄サリン事件後から取り入れられた、中身の見える透明なゴミ箱。

「駅構内または車内等で不審物を発見された場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせください」というアナウンス。

今まで気にも留めなかった事件の痕跡が、恐怖心を煽る。「自分が気づかないうちに事件に巻き込まれていたら……」。電車に揺られている間、そんな不安に襲われていた。

地下鉄を降りた先は、亡き夫が生まれ育った故郷であり、結婚後シズヱさんも家族で暮らしていた北千住。事件の前と事件の後の合わせて32年間、シズヱさんを見守り続けた。思っていたよりもデパートや駅ビルが大きく、人通りも多い。JRのほかに日比谷線と千代田線、さらにはつくばエクスプレスや東武スカイツリーラインも乗り入れており、駅構内は複雑な造りだ。ここから引っ越してようやく5年になるというが、シズヱさんにとっては住み慣れた街。道に迷うこともなく、時間ぴったりに笑顔で手を振りながらやってきた。

「だって、本当に普通の主婦だったんだもの。48年間、なーんにもなかったのよ」。驚くほどあっけらかんと話すシズヱさん。その言葉通り、北千住には平凡で幸せだった頃の思い出があちらこちらに溢れていた。「ここは、タコ公園。よく子どもたちを連れて来たわ」。きゃっきゃと声をあげながら、今日も近くに住む子どもたちが走り回っている。シズヱさんは懐かしそうに目を細めた。公園の呼び名の由来になっているタコの形の滑り台は、当時のままだ。

下町ならではの小さな商店街を歩きながら、「あそこの先に有名な病院があって、子どもが熱を出したりした時は必ずそこに行ってたわ」、「ここの八百屋さんの奥さんは、本当におしゃべりで」と話は尽きない。しかし、そこにあるのは楽しい思い出ばかりではない。ふいに、少し硬い口調で「ここは、主人の葬式を行ったところ」とつぶやいた。

お通夜には、知り合いや職場の人はもちろん、事件を知った人々が商店街の通りにそってずらりと並んでいたという。楽しい思い出話ばかり聞いていたところに急に事件の影が浮かび上がってきて、どきりとした。北千住は、事件前の楽しい思い出と、事件後の苦しい思い出、その両方が混ざり合う街。シズヱさんの複雑な想いをそのまま映し出しているように見えた。

あの日、何が起きたのか

商店街を抜けると、荒川が見える河川敷に出る。広く、どこまでも続くように思える河川敷。青空と輝く緑の芝生が眩しい。花摘みをするおばあちゃんと孫。キャッチボールをする少年。微笑ましい光景が、そこかしこに広がる。「主人と子どもも、ここでキャッチボールしてたな……」。ここにも家族の思い出がたくさん詰まっている。

「主人が仕事仲間と飲むのが好きで。荒川の花火大会の時は、いつもビール片手にベランダに出て、4時から飲むの」といたずらに笑う。彼女が持って来てくれた家族写真のアルバムをめくりながら、いきいきと昨日のことのように語られる家族との思い出。「これが、長男、次男……。家族でよく旅行に行ったんです。いろんなところへ。主人の運転で」。

アルバムのページをめくるたび、顔がほころぶ。「主人ともね、毎年結婚記念日に旅行をしていたの。そのたびに子どもたちがいつもサプライズをしてくれて。みんなでお金集めて『これで行っておいで』って渡してくれたり、旅行先に着いたら子どもたちから大きな花が届いていたり。本当に、楽しかったですね」。

1995年の春も、2人は結婚記念日に北海道へ行く予定を立てていた。会社にいる一正さんに、北海道旅行のパンフレットを持ってきてもらおうと、朝、電話をかけていた。鳴り続けるコール音。一向に電話に出る気配がない。おかしい。そう思いながら、シズヱさんも自身の勤務先である銀行へと向かう。

普段通りの仕事を始めてほどなくして、真正面にある大きなテレビにテロップが流れた。「日比谷線内で事故」という文字。真っ先に日比谷線で働く長男を心配した。長男に電話をかけてもつながらない。不安が募る。その時、電話が鳴った。シズヱさんの妹からだ。「今、テレビを観ていたのだけれど、地下鉄の事故、担架で運ばれていたのってお兄さん(一正さん)じゃないの?」全身の血の気が引く。


遺品の中にあった北海道旅行の予定表(筆者撮影)

どうして? 勝手に流れる止まらない涙と震える体。銀行の上司に上野の営団地下鉄の本社に連れて行ってもらい、そこで、妹の言っていたテレビ番組を観た。「ああ、間違いなく、主人だ」。全身から力が抜けたような気がした。自分の目で、その姿を確認した。「まさか、自分に関わるなんて、まさか、地下鉄であんなことが起きて主人が巻き込まれるなんて、全く思ってもいなかったの」。

遺品の中には、北海道旅行の行程メモと手帳があった。メモは、鉄道員らしい几帳面な一正さんの姿が見て取れた。定規を当てて引いたまっすぐな線と読みやすい文字。分刻みの移動計画や、昼食の場所、予定時刻まで記入されている。その細かさに、思わすシズヱさんの口元も緩む。

「ほら、昔はカーナビなんてないから、私が助手席で地図を見ながら案内役をしていたの。『そこを右折!』だとか、『そのまま直進!』とか言いながらね。それがすっごく楽しかったのよ」。

手帳には、叶わなかったお花見の予定も記入されていた。人と集まってお酒を飲むのが大好きだった一正さん。訪れなかった春。見ることができなかった桜。その時から、シズヱさんは桜を見るのが嫌になった。

事件後15年間北千住での生活

ガタンガタン。千代田線の通る音がする。シズヱさんも私たちも、話す声を張る。高架橋の下を抜けると、川を挟んで、大きく無機質な建物が見えた。シズヱさんの顔がにわかに曇る。

「ここから、拘置所が見えるのよ」

東京拘置所には、地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚が収監されており、収監後も信者にとって聖地とされている場所でもある。今でも時々、信者が塀の周囲をぐるぐる練り歩く光景が目撃されている。

地下鉄サリン事件の被害を受けた千代田線の車両からは、東京拘置所が見える。シズヱさんは、しきりに被害者が地下鉄を利用する時にかかる心の負担を心配していた。その風景が気になった私は、実際に拘置所を撮影するために1人で北千住駅の隣の小菅駅に向かった。電車に乗り込んでビデオカメラ片手に窓の外を眺めていると、ほどなくして進行方向右手奥に拘置所が見えてきた。

他の建物にさえぎられることなく視界に入ってくる。灰色の大きな建物が、ぐんぐん近づく。小菅駅に着いた時には、ホームから真正面にどんと構えていた。周りは住宅街なので、どうしても目が行ってしまう。拘置所まで歩いて10分の距離。事件に直接関係がない私でさえ、圧迫されていると感じた。

地下鉄サリン事件に関する被告の裁判は、必ず傍聴へ行っていたシズヱさん。出廷を拒否し、拘置所内で証言したいという被告人を裁くために、特別に拘置所の中へ入ったこともあるという。

「……特別な経験でしたね」と多くは語らない。「不思議よね。昔から遊んでたこの河川敷から、拘置所が見えるなんて」。

河川敷からだけではない。ご主人が仲間と花火を見ていた家の窓からも見えるのだ。

「別に、毎日住んでるわけだから気にしていなかったけど。カーテンをあけると、あ……って思うわよね」

事件後も北千住に住み続けた中で、彼女を苦しめたのは拘置所の姿だけではない。商店街にあるとある和菓子屋さん。「おいしそう!」と私たちが声をあげると、「あそこは老舗で人気なのよ。折角だから食べて行けば?」と笑って促してくれた。うれしい気持ちでお菓子を選び、シズヱさんも何か食べるか聞こうと振り返ると、傍にいたはずのシズヱさんが見えない。あたりを見回すと、ちょっと離れたところの道端で、「私はいらない」と首を振っていた。

不思議に思いつつ和菓子を頬張っていると「あの店の人ね、知り合いってほどじゃないんだけど……顔見知りというか。きっと私のことはわかってると思うの」とぽつりと話す。

事件直後、被害者の妻というだけでなく、自分が住むマンションに事務所を設けていたオウム真理教に対して、監視や立ち退きを求める署名活動などをしていた。シズヱさんを知らない人はこの街にいないのだ。「私が勝手に遠慮してるだけなんだけど……」。

しかし、自分から気まずい状況を回避しようと思ってもできるものではない。北千住の街を紹介してくれていたシズヱさんが、少しこわばった表情でうつむきがちに歩き始めた。不思議に思った瞬間、年配の男性が声をかけてきたのだ。

「大変だよなあ。はやく(麻原死刑囚を)死刑にしちゃえよ!」

「そうね……」

シズヱさんは少し困ったような表情を浮かべ、足早にその場から離れた。
「知り合いの方ですか?」と聞くと、困ったような顔で首を振る。狭い北千住、昔ながらの下町で、人と人との距離が近い。事件を知る彼らには、ちょっと会いづらい。

善意が彼女の居場所をどんどん減らしていた

事件前からの知り合いも、そうでない人も。友達も、顔見知りも、ほとんどの人たちはシズヱさんを「地下鉄サリン事件の被害者」として接する。気づかわれるということは、事件のことを気にかけ、忘れないでいてくれているということ。その善意はありがたいと思う反面、それが彼女の居場所をどんどん減らしていた。

「電車とかにいると、あ……って顔をされて、目が合うとそらされるけど、ジロジロ見てきたりする人もいる。地下鉄サリンの……ってコソコソ言われることもある」という。「私はただの主婦なのに……。私は普通に、買い物とかお天気の話をしたいだけなのよ」、「松本サリンといえば河野さん、地下鉄サリンといえば高橋……なんで私なの、って」。

いつもより感情的に話すシズヱさんの姿を見て、私は「冷静に、言葉を選んで話す人」という第一印象の彼女を思い浮かべていた。初めて彼女の笑顔を見た時に感じたギャップ。その違和感の正体はこれだったのか。ごくごく普通の女性だったからこそ、事件後に様々な変化が起きざるを得なかったのだ。

「もし私個人の意見を言っても、それは世間的には被害者の会代表の言葉になるから。無責任なことは言えない」。

22年のつどいの時と同じくきっぱりとした口調で話す。気づけば、北千住の地で家族を支え続けた母としての表情ではなく、被害者代表としての高橋シズヱさんの顔になっていた。

「地下鉄サリン事件被害者の会代表」へ

「そんなつらい日々だったのに、なぜすぐ引っ越さなかったんですか?」
思わず聞いてしまった。

「とにかく忙しかったのよ。本当に、家を探す暇もないくらい忙しかったの」と返され、いかに被害者の妻として、被害者の会の代表としての日々がめまぐるしいものだったかを思い知らされた。

そもそも、なぜ普通の主婦だった彼女が「地下鉄サリン事件被害者の会」代表という重責を引き受けることになったのか。事件で夫を亡くしたという理由だけなのだろうか。本人に聞いても、「他の人は小さなお子さんがいたり介護をしたりで大変そうだったから……断るわけにいかないじゃない?」と答えるばかりだった。しかし、被害者の会結成前からシズヱさんのことを知る中村裕二弁護士に話を聞くと、事件やオウム真理教、そして訴訟のことも何もわからない中で、一生懸命に活動に参加していたシズヱさんの姿が見えてきた。

「訴訟を起こすために被害者の会を開こうとしていた時から、一番前の席で一生懸命メモを取っていたのがシズヱさんだった。確かに、最初に任せようと思っていた人に断られたことはあるけど、そこからは彼女しかいないと思ってお願いしたんだ。パワフルで、人との接し方も上手で……君たちも接していてわかるでしょ?」

自然と話を聞きながら深く何度もうなずいてしまう。中村弁護士もそんな私たちを見て納得したように「ある意味、運命だったんだと思うよ」とつぶやいた。

代表に就任してからは、千代田線に乗って400回以上も裁判の傍聴に通う日々が続いた。今では裁判に犯罪被害者が参加するのは当たり前のことになっているが、地下鉄サリン事件当時は参加できなかった。刑事訴訟法を大きく変えることにも奮闘した。数えきれないほどのマスコミ取材にも応じた。悲しみに浸る暇もなく、時間ばかりが過ぎていった。シズヱさんはそう語る。

オウム真理教犯罪被害者救済法の成立までには13年がかかり、決まった時には涙がこぼれた。2010年にやっと給付金が支払われ、2011年に、捕まっていた被告全員の裁判もひと段落。「やっと落ち着いた、もう一線から退こうと思ったの」。しかし、その年の大みそかに逃亡していた平田信容疑者が出頭。ただ茫然とテレビを見つめた。結局、引っ越しが決まったのは翌年の2012年だった。

教祖・麻原被告に死刑判決が一審で言い渡されたのが2004年2月末。命日である3月20日に夫の霊前に報告した数日後、通い続けた裁判所前で桜の木が目に入った。

「そこでやっと、あの日以来ずっと嫌いだった桜が『あぁきれいだな』って思えたの……」

この時、気持ちにひとつの区切りがついたという。

こうして、事件後から北千住に別れを告げるまでに17年の時が過ぎていた。もちろん、引っ越したからといって事件が完全に終わったわけではない。その後も相次ぐ容疑者逮捕に関してあらゆる対応に追われた。取材後、事件に関する比較的新しい新聞記事を探したのだが、あらゆるところにシズヱさんの姿があって驚いてしまった。地下鉄サリン事件被害者の会代表として「なかなか引退できないわよね……」と時折つぶやく。

「被害者の会の活動にゴールがあるとしたら何だと思いますか?」という質問にも、苦笑いだ。「ゴールねぇ……それよりも、私の年齢のほうが気になるわよね。それに、加害者がいる限り被害者の会は終わらないわよね」。70歳という年齢まで活動しても、「被害者の会」の終わりは見えていない。

今日も、愛するあなたと一緒に生きていく

北千住の河川敷をゆっくりと歩き、最後にご主人へ花を手向けるため、お墓へと向かった。大通りから一本奥に入った閑静な住宅街。そこに佇む、ひっそりとした墓地。「暑いから。ちゃーんとお水かけてあげなきゃね」。お墓にかける水を汲んで、奥へと入って行く。シズヱさんが埋めたという梅の木の隣に一正さんは眠っていた。

元々は一正さんと2人で買った小さな梅の盆栽だったが、今ではシズヱさんの背を越すほど大きくなった。穏やかな表情でひしゃくを手にし、墓石全体に水がかかるようにと、できるだけ上のほうまで手を伸ばす。お線香とお花を供え、シズヱさんとともに、静かに目をつむる。

「何かおしゃべりしましたか」と聞くと、意外にも「いや……ここに主人が眠ってるって感覚はないんです」とはにかんだ。事件後の裁判で、北千住から地下鉄を使って霞が関にある裁判所まで何度も何度も通ってきた。その道のりは、一正さんが霞が関へ出勤するために毎朝通ってきた道でもある。「だからかしらね。主人も一緒に電車に乗っているような気がして……家に帰っても主人に『ただいま』っていう気持ちなの」。

シズヱさんにとって、一正さんは決して過去の人ではない。一正さんの話をする時は、当時に戻ったかのように目がキラキラしていて、茶目っ気もたっぷりだ。「私ね、若い頃はとーってもわがままだったのよ。怒って主人に何日も口をきかなかったこともあるわ」と言われて、思わず「え、意外! 嘘だぁ」と大声を出してしまった。

シズヱさんはけらけら笑いながら続ける。「でもね、主人に『君は自分のことを世界の中心だと思ってない?』って言われたの。そこからですねぇ、人の話を聞くようになったのは」。だからこそ、事件後もふさぎ込んでしまうことなく、いろんな人の意見を聞いて、自分を見つめ直す。そういうことができているのだという。


「主人がいなかったら……今みたいな活動はできてないと思います」。かみしめるように話すシズヱさんの目はほんのり赤く、私は何も言えなかった。「やだ……泣けてきちゃった」。お墓になびく風の音だけが響く

「……主人にも聞こえてたんじゃない? こんなことする性格じゃなかったから……驚いてると思うわ」とまた笑顔が戻ったシズヱさん。「でも、喜んでいらっしゃると思います」と伝えると、照れくさそうな表情でお墓を後にした。

「私にできたんだから、誰だってこの立場になればできるのよ」。そんなことを言われても、取材する前の私だったら絶対に信じられなかった。だけど、今ならわかる。シズヱさんだって当たり前の毎日を送ってきた、ごくごく普通の女性なのだ。突然の事件で夫を亡くし、被害者になってしまっても「何も知らない、何もわからない」。誰だってそうだろう。しかし、彼女はそこで終わりにしなかった。

一正さんの言葉を思い出しながら「いろんな人に出会って、そういう人に学んで」生きてきた。その1つひとつの積み重ねが、代表としての彼女を支え続けてきた。

「今日も頑張るからね。見守っててね」。妻の顔でそう語りかけ、現在も彼女は被害者の会代表として壇上に立つ。