競泳の元トップスイマー・伊藤華英さん【写真:Getty Images】

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【連載・後編】競泳五輪代表・伊藤華英さんが思うアスリートの「当たり前」の価値

 競泳の元トップスイマー・伊藤華英さん。インタビュー前編では、08年に出場した北京五輪で生理が重なるなど、女性特有の問題と闘ってきた競技人生を打ち明け、思春期における女子指導の現状について説いた。そもそも、オリンピアンの肩書がありながら、なぜ、タブーにも思える「女子アスリート生理」の関係性について、声を出そうと思ったのか――。

 きっかけは、一つのコラムだった。伊藤さんは「女性アスリートと生理」の関係性を題材にして、自身の体験談を書いたことがあった。思い立ったのは、ある五輪選手の存在だ。

「一番はリオデジャネイロ五輪の時、リレーに出場した中国の傅園慧(フ・ユアンフイ)選手が『生理中でいい泳ぎができずにチームメートに謝った』という出来事がきっかけ。大きな話題になったし、私自身もアスリートだった。センシティブだし、ナイーブだと思って、言ってはいけない時代でもない。言う価値はあるのかなと思って書いたら、すごい反響でした」

 一般生活でも「生理」というフレーズを口に出すのは、はばかれる話題。それでも、敢えて話題にしようと思った裏には、アスリートのセカンドキャリアに対する問題意識があった。

「アスリートの課題は、自分が経験してきたことをアウトプットできないことが多くあると思う。キツイこと、苦しいことが当たり前すぎて、意外と世の中に価値があることであっても、喋らなくてもいいと思い込んでしまう。それが価値のあるものなら、少しずつ、オープンにしていってもいいのかなと感じていました」

 伊藤さん自身、北京五輪で生理と重なり、初めてピルを服用したが、ホルモンの強さなどが体質に合わず、副作用に苦しんだ経験があり、「もっと早くから飲んでおけば良かった」と思ったという。

 一方、海外では10代から当たり前のように服用し、「あなたたちはなんで飲まないの?」と言われた経験もあった。こうした競技の第一線の実際の体験を包み隠さずに伝えることで、得られることがあったという。

伊藤さんが抱く思い「アスリートたちが自分の経験を話せる機会になってもいい」

「意外と世の中がそういうところに興味を持つんだというのは、やってみて初めてわかる発見。アスリートが自分たちの経験を話せるような機会になってもいい。私自身は書くことで自分がすっきりするというより、アスリートの現状を知ってもらいたいという気持ちが強いです」

 こうした思いによって発したメッセージは予想以上の反響を呼んだ。スポーツ庁で指導者向けに思春期を題材にした「部活動のあり方」という会議で発表したり、多くの取材を受けるようになったりした。「伝えているのは正しい判断をするということ。練習はやらないと伸びないし、過保護になっても伸びない。生理は自然と来るものだけど、楽にさせる方法があることを知っておいた方がいい」と経験を伝えている。

 実際の指導では難しい面がある。伊藤さん自身も現在は大学講師として体育の授業を持ち、水泳を受け持つこともある。「男の先生はわからないから『休んでいいよ』と言う。けど、別に病気じゃない。もちろん、体がすごく冷えるとか、2日目で本当につらい場合はやらせないけど、貧血にならない程度に支障がない程度ならやってもいいと思う」と試行錯誤する日々だ。

 指導における正解はない。ただ、指導上の“無知”は競技によっては選手寿命を縮めるリスクがある。例えば、体脂肪が減りやすい陸上の長距離選手は無月経になることがある。

「体脂肪が極端に減ると、ホルモンバランスが崩れて止まってしまう。無月経になると、骨粗しょう症になりやすい。すると、オーバーワークで怪我をして、競技寿命が短くなることにつながる。そういう悪循環をわかっていても、部活動は走らせる文化が残っている。軽い方が速いから痩せろと。選手自身も、月経がなくて楽という人も多いから、そうなると好ましくない」

 こうした問題は個々の指導者が認知していても、表立って議論されることがなかった。だから「わかっていても、実行できないのが現状にあると思います」と言う。伊藤さん自身、現役時代は生理に対する正しい知識は持っていなかった。

「現役の時は来る前はしんどい、来たらめんどくさい。そういう感覚しかなかった。PMS(生理前症候群)など、いろんなことを知ったのは引退してから。ピルも飲んでみろと言われて飲んだけど、なんだかわかんなくて副作用があって悩んだり。副作用あるよと言われたけど、なんで副作用が来るかもわからないし」

「もう、昔じゃない」…アスリートを“崇む”のではなくフラットなリスペクトを

 競泳の指導現場は男性指導者が多く、伊藤さんも女性指導者に当たったことはないという。では、これから指導現場がどう変化していくことが、スポーツをする女性にとって助けになると考えるのか。

「状況に応じて、婦人科に行くようにとか、もっと楽になる方法があるとか、教えられるメンター(相談役)の立場の人は今後のスポーツ界に必要。生理のことを相談できるのは友達か親。でも、その人たちではスポーツの知識がない。例えば、アメリカ、オーストラリアなどは環境が整っているし、ピルであっても低用量なら体に負担が少ないことは理解されていいと思います」

 実際に、競泳では2005年頃から婦人科医が代表チームに入り、最近はJISS(国立スポーツ科学センター)でも婦人科が設定された。しかし、他競技を含め、まだまだ改善の余地はあると考えている。

「例えば、代表の招集には講習会があって『この先生に連絡できます』とか、そういう情報の共有をしてほしいと思う。それをジュニアの合宿とか、特に若いときからやってくれたら。婦人科の医師にもスポーツを専門にして学会で発表している方は多いけど、まだ日本の社会にアカデミックさに課題があり、現場とのつなぎが少ない。そういう部分から変わってほしいと思います」

 今回、伊藤さんが声を上げたのは「女性アスリートと生理」の問題だったが、冒頭で述べた通り、根底にあるのはスポーツ界のへの思い。アスリートがさまざまな立場から声を上げ、自身の経験を伝えることで発展につながればと願っている。

「アスリートは自分が生きてきた世界が“当たり前”になってしまっている。自分が頑張ってきたことに価値があることを共感してほしい。もう、昔じゃない。もっとアウトプットしていい。今の社会はトップアスリートに対してのリスペクトが“崇んでいる”ような感じ。そうではなく、一人の人間としてフラットにリスペクトが生まれるようなスポーツ界になってほしいと思います」

<終わり>(THE ANSWER編集部)

◇伊藤 華英(いとう・はなえ)
 2008年に女子100m背泳ぎ日本記録を樹立し、初出場した北京五輪で8位入賞。翌年、怪我のため2009年に自由形に転向。世界選手権、アジア大会でメダルを獲得し、2012年ロンドン五輪に自由形で出場。同年10月の岐阜国体を最後に現役を退いた。引退後、ピラティスの資格取得。また、スポーツ界の環境保全を啓発・実践する「JOCオリンピック・ムーヴメントアンバサダー」としても活動中。