よいサッカー、美しいサッカーをしても負けてしまえば元も子もないーーとはよく言われるが、これは他の球技ではあまり耳にしない台詞だ。サッカー特有の議論。論点、視点だ。不思議なことに、一方が、元も子もないと力むほど、微妙な話に聞こえてくる。

「プロの世界」を持ち出す人もいた。これは、勝負を懸けたプロの世界での常識。浦和監督のペトロビッチは、先日も会見でそんな言い回しの台詞を吐いていた。なるほどとつい納得しそうになる。だが、勝負を懸けることだけが、サッカー競技のプロだろうか。夢を売ることも、将来に貢献することもプロの仕事だ。

「勝利と娯楽性をクルマの両輪の関係で目指すべき」と述べたのは故ヨハン・クライフだが、サッカー監督であるならば、半々とは行かなくても、せめて3対7、2対8ぐらいの意識は持って欲しいものだ。「元も子もない」は、0対10を肯定する声に聞こえてくる。

 そもそも「元も子もない」は、ファンに向けられた台詞というより、監督自身に向けられた台詞に聞こえる。いいサッカーをしても、美しいサッカーをしても、勝てなければクビ。恐怖から逃れ、保身に走ろうとする監督が、自分自身を正当化させるために吐く言葉。そう聞こえる。

 クルマの両輪の関係を貫く覚悟がある監督は、日本にどれほどいるだろうか。リスクを負うことができる監督は。そうではない人の方が、どう見ても多数派だ。世界各国のリーグを見渡したとき、5バックになりやすい守備的なサッカーが、ここまで幅を利かせているリーグも珍しい。

 そのことが表沙汰にならず、問題視されない国もまた珍しい。

 監督、そしてそれを追求すべき評論家の大抵が元選手。元Jリーガーだ。プロサッカーとはなんなのか。よく理解しないままに、プロサッカー選手になった人たちが多くを占める。何もない所にポッとプロリーグが誕生した日本。現在の自分が、なぜサッカー界の片隅に存在しているのか。知っている監督と知らない監督との差を、見せられている気がする。

 プレッシングサッカーとトータルフットボール。欧州にはこの2つが、サッカーの発展に寄与した発明であるとの認識がある。競技力の向上に大きな影響を与えたものとして認知されている。ゲーム性の向上、選手のスキルのアップにも大きく貢献した。

 この2つがなかったら、サッカーはいまごろ別物になっていたと言われるほどだが、サッカーが現在の姿に至るそうした経緯を、監督、評論家のみならず、ファン、メディアまで心得ている。

 現在までの経緯を知っていれば、よいサッカー、美しいサッカーをしても負けてしまえば元も子もないーーとは、軽々には言えないのだ。せっかく手に入れたモノを、手放す怖さを知っていれば、簡単に5バックで守ろうとはしない。非プレッシング、守備的サッカーに簡単に手を染めようとはしないのだ。

 サッカー選手の技量が右肩上がりを続ける理由を語ろうとした時、プレッシングは外せない要素だ。狭くなった中盤で、きついプレッシャーを浴びながらプレーすれば、選手のボール操作術は上昇する。判断のスピードも同様。当初、ともするとゲームを壊す武器に見えたプレッシングは、競技の発展に寄与する道具に気がつけば一変していた。

 5バックで守れば、中盤は広くなる。プレーの環境は緩くなる。となれば、様々な進歩は止まる。相手陣奥深くまで侵入しにくくなるので、攻撃は浅くなる。中盤で打ち合いにはならないので、試合は面白くならない。それを、よいサッカー、美しいサッカーをしても負けてしまえば元も子もないというもっともらしい理屈をつけて正当化させれば、サッカーの退化は必至。

 自分自身はサッカーの進歩、発展に貢献する采配ができているか。サッカーという競技のお役に立てているのか。サッカー監督に不可欠なのは、この視点だ。現役引退に際し、多くの選手が「サッカー界に恩返しがしたい」という。だが、彼らが本当にそう思うのであれば、監督になったとき、後ろで守るサッカーはしないのだ。

 サッカーは理由なく、独り勝手に進歩発展を遂げているわけではない。支えてきた人は誰なのか。その一翼を担う覚悟がない者には、指導者を名乗る資格はない。自分勝手な理屈で、自分中心のサッカーをするな。日本の惨状を目の当たりにすると、つい厳しい台詞を吐きたくなる。 

 勝者でも、尊敬できる場合もあれば、できない場合もある。敗者でも、尊敬できる場合もある。勝っても負けても、サッカーの進歩発展に貢献する、尊敬される指導者であってほしいものである。