【阪神大震災】復興のシンボルは20年後にどうなったか
人は極限の状況に追い込まれると正気よりも狂気が勝るという。
1995年1月17日の阪神大震災発生直後、フランクフルトを1本5000円で売りつけた業者もいたことをテレビで告げた男性レポーターが、「人間とはここまで情けなくなれるものなんですかね……」と泣きながら伝えていた様子を今でも時折思い出す。
食べ物、飲み水、肌着の類など、生活必需品が不足している被災地にやって来て高値で売りつける輩が出てくること、そしてそれを買ってしまう者がいること、どちらも被災という極限の状況下で正気を失い狂気がもたらした悲劇といえよう。
以来、20年の月日が流れた。その間、わが国では2011年3月11日に東日本大震災も経験した。東日本大震災を取材したある全国紙社会部記者は当時の様子をこう振り返る。
「阪神大震災を経験したベテラン記者も東日本大震災では応援に入りました。取材当初、彼らは過去の震災取材の経験から、『被災地で物盗りがあるぞ』『炊き出しに大勢の人が殺到するぞ』『生活必需品を高値で売りつける輩がこぞって東北に入ってくるぞ』と矢継ぎ早やに指示を出したものです。しかし彼らの読みは残念ながらことごとく外れました」
東日本大震災時、阪神大震災時に散見された「極限下ゆえの狂気」は皆無とはいえないまでもほとんど起こらなかったという。その理由を前出の全国紙社会部記者は、「阪神大震災は都市部での被災かつ局地的な被害。東日本大震災は阪神のそれに比して広域的で、被災者も多く、極限下ゆえの狂気どころではなかったのではないか」と話す。
事実、阪神大震災の死者数は兵庫県ほか大阪などの近隣都市を含めると6434名(2006年消防庁調べ)、対して東日本大震災は1万5889名(2015年警察庁調べ)と約2.4倍の数だ。
それでも東日本大震災発生当時も、そしてそれから4年が経った今も、阪神大震災を経験した神戸市民ですら、東日本大震災とは同じ国内にありながらもどこか遠くの異世界の話のようにどこか現実感を伴わない実態が私たちにはある。
同様に東日本大震災で被災した地域の人たちも今から20年前の阪神大震災は、やはり遠くの異世界の過去の話と捉えられているのかもしれない。
しかし、阪神大震災後20年を経た神戸市の復興までに辿った道のりは、かならずしも東日本大震災で被災した人々にとって無縁とは言い切れない。震災から20年を経た今の神戸の現実はそのまま東日本大震災で被災した各地にも起こり得る可能性があるからだ。
阪神大震災当時、もっとも被害の酷かったのが長田区。ここには今、復興のシンボルとして作られた「鉄人28号」のモニュメントが聳え立つ。一見、見事、復興を遂げたかのような錯覚に陥る。ハコモノが整えられたからだろう。だが、そのハコモノが新たなる災害をもたらしている。長田区の商店主が語る。
「震災後、神戸市が被災した土地や建物を買い取り、それをうちら商店主が買い戻す。それが再開発の第一歩だったんです」
この“買い戻す”がミソだ。賃貸による貸し出しは当時されなかった。震災後、商店主たちはカネを工面し行政主導の商用スペースを買い戻した。ただ買い戻すだけでは商売はできない。内装や震災で失った設備費にも莫大なカネがかかった。
でも、将来、神戸市の副都心として再開発されれば多くの人訪れる。震災で背負った借金もきっと返せる――。長田の商店主たちはそんな希望を持って耐えた。
だが震災後20年、長田は神戸の副都心とはならなかった。そもそもアクセスが悪い。長田にはJRと神戸市営地下鉄の駅があるが、JRに限っては兵庫から須磨海浜公園駅まで快速、新快速は停車しない。止まるのは普通列車だけだ。アクセスの利便性は決してよくない。
もともと地場産業であるケミカルシューズで栄えた工場街の長田には目ぼしい観光資源もない。集客力ある商業施設もJR・神戸市営地下鉄・新長田駅前にはあるが、そこから電車で数分も足を伸ばせば元町、三宮といった繁華街に出られる。
観光地でもある元町、三宮に大規模な魅力ある商業施設がある以上、長田に足を運ぶ道理はい。結果、長田はハコモノだけが整い人が集まらなくなった。そのため今では長田の商業施設では日曜日の昼でもシャッター街と化している。
「ハコモノがあれば復興できるというのは間違いやで。平日、ほとんど人がおらん場所で何を売ればええんや」(長田区商店主)
阪神大震災から20年経った神戸の現状は、東日本大震災で被災した各地の復興に何がしかのヒントをもたらしているのではないだろうか。
(取材・文・写真/秋山謙一郎)