『流星ひとつ』沢木耕太郎/新潮社

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年の瀬になると話題になるのが、今年の物故者だ。なかでも、ある世代の人々に衝撃をもって受け止められたのが、歌手・藤圭子の訃報だろう。亡くなったのは2013年8月22日、投身自殺だった。藤圭子の実子・宇多田ヒカルによる「コメント」も大きな話題を呼んだ。

藤圭子は1969年に「新宿の女」でデビュー、3枚目のシングル「圭子の夢は夜ひらく」が累計120万枚という大ヒットとなった。まだ10代の黒髪の少女がドスを効かせて歌う「怨歌」は、日本中に一大旋風を巻き起こした。ファーストアルバムとセカンドアルバムが続けて37週連続オリコン1位という空前の記録を残したというのだから、当時のインパクトがいかに大きなものだったのかがよくわかるだろう。

藤圭子と宇多田ヒカルは親子だけあって驚くほど符号する点が多い。10代でデビューして大ヒットを飛ばし、日本中をセンセーションに巻き込んだのも同じなら、19歳で結婚して4年間で結婚生活に終止符を打ったのも同じ。歌手活動を休止したのも同じ28歳のときである。

沢木耕太郎のノンフィクション『流星ひとつ』は、藤圭子が28歳で芸能界を引退する際、数回にわたって行われたロングインタビューをもとに構成されている。当時、原稿は完成していたものの、沢木の考えによって封印されていた「幻の作品」だ。今回、藤圭子の死を契機に30年以上ぶりに陽の目を見たということになる。

『流星ひとつ』を藤圭子のことを描いたノンフィクションだと思って読み始めると、少し面食らう。本書の最大の特徴は、いわゆる地の文章が一切ないところである。本書の解説にあたる「後記」以外300ページにわたって、高級ホテルの40階にあるバーで語らい続けた、2人の会話のみで進んでいく。

本書を読み進めるうえで必要なのが、著者の沢木耕太郎という人物に対する理解だろう。いや、理解というのが大げさなら、ちょっとしたイメージでいい。1947年生まれの沢木の代表作は、ユーラシア大陸をバックパッカーとして旅した『深夜特急』だ。同作がドラマ化されたときには大沢たかおが沢木本人を演じている。雰囲気はぴったりだった。長身痩躯でさっぱりしたカッコよさを持つ気鋭のノンフィクションライターが、スキャンダルで傷だらけになった若き歌姫と、ホテルのバーでウォッカ・トニックをやりながら2人きりで語り合っている。そんな姿を想像しながら読むべき本だと思う。

藤圭子の凄絶な生い立ち

「十五、十六、十七と 私の人生暗かった」とは、「圭子の夢は夜ひらく」のあまりにも有名な一節だ。藤圭子の生い立ちは、その歌詞にリアルさを持たせるのに十分なものだった。北海道で育った藤圭子は、浪曲師の父とやはり浪曲師だった盲目の母と一緒に、幼い頃から巡業で喉を披露していた。家は貧しく、寒さは厳しく、父親は暴力をふるった。彼女は冬に着る上着さえ持っていなかったという(とはいえ、外で寒さに震えているとき、2度も見知らぬ他人から上着を与えられているあたり、藤圭子の底知れぬ魅力が垣間見える)。その後、親子3人で上京して“流し”をしていたところ、売れない作詞家だった石坂まさを(沢ノ井龍二)の目に止まり、ここからデビューにつながっていく。「新宿の女」「圭子の夢は夜ひらく」などの初期のヒット曲はすべて、石坂の作詞によるものだ。

藤圭子のデビューまでの軌跡はたしかに凄絶なものだが、そのこと自体は石坂自身による著書『きずな 藤圭子と私』などによって以前から知られていたことでもある。本書で初めて明かされる新事実などもあるだろうが、沢木がそこに力点を置いていないことは明らかだ。

この本の最大の読みどころは、沢木の巧みなインタビューテクニックと、それに応えて徐々に心を開いていく藤圭子のやりとりそのものである。沢木は、藤圭子が答えにくそうにしていれば、話題を変え、自分のエピソードを披露して笑いを取り、それでも聞きたいことには執拗に食い下がる。近づき、離れ、また近づく。標的は、「芸能人・藤圭子」ではなく、「人間・藤圭子」だ。

冒頭から「心の入らない言葉をしゃべるのって、あたし、嫌いなんだ」と宣言し、質問に対しても沈黙交じりに身の入らない答えを繰り返していた藤圭子が、だんだんと饒舌になっていく様は圧巻だ。家族のこと、恋のこと、コンプレックスのこと、引退の真相が明らかになっていく。沢木の言葉とウォッカ・トニックの酔いは、とうとう藤圭子に「なんだか、とてもいい気分」と言わせてしまう。長きにわたるインタビューの最後の話題は、窓から見える「月」についてのものだった。沢木は『インタヴュー』というタイトルをつけ、この原稿を完成させている。

封印の理由と宇多田ヒカルに伝えたかったもの

『流星ひとつ』は全編インタビューのみという実験的なスタイルをとっているが、これは客観性を捨て、取材対象に深くかかわっていく「ニュー・ジャーナリズム」の影響を受けていた沢木が考え出した新しいノンフィクションの「方法」だった。しかし、書き上げた後、沢木は自分自身のやったことに疑問を抱く。
「私は、私のノンフィクションの『方法』のために、引退する藤圭子を利用しただけではないのか。藤圭子という女性の持っている豊かさを、この方法では描き切れていないのではないか……」(「後記」より)

結局、原稿を封印した沢木だったが、藤圭子の自死と、それに対する宇多田ヒカルのコメントを知って、気持ちが大きく動く。藤圭子が長きにわたって精神の病に苦しんでいたことを明かした宇多田のコメントには「幼い頃から、母の病気が進んでいくのを見ていました」という一文があった。宇多田は、母親が病に苦しむ姿しか知らなかった。「悲しい記憶が多い」とも書いている。

一方、沢木はこのロングインタビューを通して、藤圭子の「輝くような精神」に触れていた。それは、「水晶のように硬質で透明な精神」であり、「透明な烈しさが清潔に匂っていた」という。沢木は、「藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間」を、宇多田ヒカルに知ってもらうために、本書の刊行を決めている。

「後記」では触れられていないが――沢木と藤圭子の間には、恋愛感情が生まれていたと巷間いわれている。真実はわからない。この原稿が封印されていた理由がそこにあるのではないかという推測もある。インタビューが終わった直後、藤圭子はアメリカに渡った。2人の間にあったのは、我々がイメージする「恋愛」とは別の形のものだったのかもしれない。ただ、本書に記録された2人の会話を読んでいると、どうにも恋のはじまりの匂いがするのはたしかである。当初の「インタヴュー」という生硬なタイトルは、原稿を書き上げた直後に『流星ひとつ』というロマンチックなタイトルに変わっていた。

2人の間に恋愛感情があったとしたら、それは藤圭子の「透明な精神」をさらに輝かせたはずだ。それこそが、沢木が宇多田ヒカルに伝えたかった藤圭子の精神の「最も美しい瞬間」だったのではないだろうか。子は母親が恋にはなやぐ姿など知らないものである。

『流星ひとつ』の帯には、「藤圭子の『真実』を描く奇跡のノンフィクション」と書かれている。手に取ったときは、なんだか漠然とした帯コピーだなと思っていたが、人と人が出会い、心を開き、恋に落ちる様を“奇跡”と呼ぶとするなら、これ以上ふさわしい文句はないと思う。
(大山くまお)