忘却の強要は、政治やメディアの最低の暴力だ「そして父になる」是枝監督の思い
福山雅治主演の「そして父になる」(レビュー)が、2013年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞しました。そのあとも日本公開は、いわば凱旋帰国というかウィニングランのようなかたちになり、ヒットしました。
「そして父になる」の日本公開とほぼ同時に、脚本家で監督でもある是枝裕和の、初のエッセイ集『歩くような速さで』(ポプラ社)が刊行されました。
本の下半分以上を占めるぶっとい帯には、緑をバックにした是枝監督の半身写真が。
これが書店に並んだのは、新作公開直前のタイミングですから、新刊書店の面出し対策にはこれが正解なのかもしれませんけれど、書店で見かけたら帯をはずして、大塚いちおさんの素敵な表紙を見てほしいと思います。Amazonの書影でも帯がかかった状態なのですが、ポプラ社のサイトで全体を見ることができます。
大塚さんの挿画は、本文にもたっぷり入っています。カラーも黒一色も。エッセイ集だけど絵本みたいです。
読んでみて、是枝監督の文に、ふらふらっと引き寄せられました。
『歩くような速さで』。音楽用語「アンダンテ」の訳ですね。
「そして父になる」日本公開の1か月前に書いたという「まえがきにかえて」によると、『歩くような速さで』という題はもともと、著者が演出したTVのドキュメンタリー番組の名前だったといいます(ATP賞テレビグランプリ優秀賞受賞作『歩くような速さで 37,319人のオーディション』日本テレビ、2002年)。
のち、2011年の夏に著者が《西日本新聞》にエッセイを連載することになったとき、著者はこの「歩くような速さで」というフレーズをもう一度取りあげることになります。
《西日本新聞》は九州の新聞です。連載の時期は、全線開業間もない九州新幹線鹿児島ルートを題材とした監督の前作「奇跡」(レビュー)(まえだまえだ主演。目下話題の橋本環奈ちゃんも出ていた)の公開前後でした。
今回のエッセイ集は、その連載に、それ以外の単発の文章を加えて1冊にまとめたものなのです。
〈今回そのタイトルを三度〔みたび〕使わせてもらったのは、このエッセイが当時の僕の日常とやはり、ゆっくりと同じ歩調で歩みを伴にしていると感じたからである。
立ち止まって足元を掘り下げる前の、もっとたわいない、もっとやわらかいもの。作品と呼ばれるものが、水の底に静かに沈殿されたものだとするならば、まだそれ以前の、水中をゆっくり漂っている土つぶのようなもの。このエッセイ集はそんな土つぶの集まりである〉。
連載していた〈当時〉とは、九州新幹線全線開通の前日に起こった東北の大地震から、1か月あまり経ったころのことです。連載のなかで地震の件に直接触れている部分はけっして多くはありません(単行本では最終章にまとめられている)。
けれど、あの時期は、「歩くような速さで」というフレーズが、いつにもまして効いてくる時期だったと思います。
地震の直後は一瞬固まってしまって、つぎの余震に備えていた人たちも、しかしじきに、もとのように全速で走ろうとしたり、逆に〈立ち止まって足元を掘り下げる〉ことに熱中していた、そういう時期だったように記憶しています。
〈足元を掘り下げ〉た結果出てきた言葉が必ずしも深いとはかぎらなかったのは、以前ご紹介した金井美恵子『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』(朝日新聞出版)が指摘しているとおりです。
そのときだからこそ、「歩くような速さで」という速度感は、当時の──あるいはいまも──私たちにとって、大事なフレーズなのかもしれません。考えるのも大事だけど、それではなくてここは、〈もっとたわいない、もっとやわらかいもの〉を感じるとことを大事にしよう。『歩くような速さで』を読んでいると、こちらまでそういう姿勢になってきます。それが気持ちいい。
撮影した映画のこと、「奇跡」に出た樹木希林や主題歌を書いたくるりの岸田繁のこと、自分の両親のこと、少しだけ地震のこと。ゆったりとした組版のおかげもあるのでしょう、空気をたっぷり含んだ文章で静かに書かれています。
「誰も知らない」「歩いても 歩いても」のYOUの〈撮影現場で出来てしまうちょっとした間のびを即興的な一言で埋める反射神経〉。
〈「まだなのか」「なんちゅう記録よ」さりげなく選ばれたその台詞は見事な突っ込みとしてその場のテンポをコントロールしていく。〔…〕「あれはね、バラエティー番組でCMになる直前の3秒で何を言うかっていうのと同じ感覚なの。得意なのよあたし、そういうの〉。
たしかにすごそう。
ところどころ、著者が強い表現を使っている部分があり、どきりとしました。たとえば、政治やメディアがわずか数か月で原発事故の重さを忘れ去ろうとしている風潮にたいして、この角度から斬りこんでいます。
〈人間が人間である為には、失敗も含めて記憶していくことが必要だ。それがやがて文化に成熟していくのだ。その時間を待たずに忘却を強要するのは、人間に動物になれと言うに等しい。それは政治やメディアが持ちえる最大で最低の暴力である〉。
また、連載以前の文章にも、こういうものがあります。2004年、カンヌ映画祭でのマイケル・ムーアの「華氏911」上映中に観客が発した笑いに居心地悪くなった著者は、つぎのように考えます──彼らの笑いはひょっとして、〈彼らが最も軽蔑しているはずのブッシュが、相手を馬鹿にした時に浮かべる品性を欠いた薄ら笑いとどこか通底してしまっているのではないか〉。
〈日本で小泉首相個人を攻撃するような作品を作って、一時〔いっとき〕見る者の溜飲を下げたところで、それはせいぜい製作者の自己満足に過ぎない。真の敵はむしろ、彼のような存在を許し、支持してしまっているこの国の6割近い人々の心の内面に巣くっている“小泉的なるもの”であって、その病巣を撃たずに安全地帯からうみ(小泉)だけを槍玉に挙げても病状は決して快方には向かわない〉。
冷静で、まったく軽くはないこの言葉も、〈もっとたわいない、もっとやわらかいもの〉を感じることで出てきたものです。
全力疾走でもなければ、立ち止まって考えるのでもない。そしてその中間の中途半端な状態でもない。歩くような速さで感じ考えるには、速まらず立ち止まらずにアンダンテのテンポを保持するために、持続する意志の力、丹田の安定が必要なのでしょう。
観念にレッテルを貼られる前の、一瞬の違和感を、私も逃すものか、といま思ったりしています。
(千野帽子)
「そして父になる」の日本公開とほぼ同時に、脚本家で監督でもある是枝裕和の、初のエッセイ集『歩くような速さで』(ポプラ社)が刊行されました。
本の下半分以上を占めるぶっとい帯には、緑をバックにした是枝監督の半身写真が。
これが書店に並んだのは、新作公開直前のタイミングですから、新刊書店の面出し対策にはこれが正解なのかもしれませんけれど、書店で見かけたら帯をはずして、大塚いちおさんの素敵な表紙を見てほしいと思います。Amazonの書影でも帯がかかった状態なのですが、ポプラ社のサイトで全体を見ることができます。
読んでみて、是枝監督の文に、ふらふらっと引き寄せられました。
『歩くような速さで』。音楽用語「アンダンテ」の訳ですね。
「そして父になる」日本公開の1か月前に書いたという「まえがきにかえて」によると、『歩くような速さで』という題はもともと、著者が演出したTVのドキュメンタリー番組の名前だったといいます(ATP賞テレビグランプリ優秀賞受賞作『歩くような速さで 37,319人のオーディション』日本テレビ、2002年)。
のち、2011年の夏に著者が《西日本新聞》にエッセイを連載することになったとき、著者はこの「歩くような速さで」というフレーズをもう一度取りあげることになります。
《西日本新聞》は九州の新聞です。連載の時期は、全線開業間もない九州新幹線鹿児島ルートを題材とした監督の前作「奇跡」(レビュー)(まえだまえだ主演。目下話題の橋本環奈ちゃんも出ていた)の公開前後でした。
今回のエッセイ集は、その連載に、それ以外の単発の文章を加えて1冊にまとめたものなのです。
〈今回そのタイトルを三度〔みたび〕使わせてもらったのは、このエッセイが当時の僕の日常とやはり、ゆっくりと同じ歩調で歩みを伴にしていると感じたからである。
立ち止まって足元を掘り下げる前の、もっとたわいない、もっとやわらかいもの。作品と呼ばれるものが、水の底に静かに沈殿されたものだとするならば、まだそれ以前の、水中をゆっくり漂っている土つぶのようなもの。このエッセイ集はそんな土つぶの集まりである〉。
連載していた〈当時〉とは、九州新幹線全線開通の前日に起こった東北の大地震から、1か月あまり経ったころのことです。連載のなかで地震の件に直接触れている部分はけっして多くはありません(単行本では最終章にまとめられている)。
けれど、あの時期は、「歩くような速さで」というフレーズが、いつにもまして効いてくる時期だったと思います。
地震の直後は一瞬固まってしまって、つぎの余震に備えていた人たちも、しかしじきに、もとのように全速で走ろうとしたり、逆に〈立ち止まって足元を掘り下げる〉ことに熱中していた、そういう時期だったように記憶しています。
〈足元を掘り下げ〉た結果出てきた言葉が必ずしも深いとはかぎらなかったのは、以前ご紹介した金井美恵子『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』(朝日新聞出版)が指摘しているとおりです。
そのときだからこそ、「歩くような速さで」という速度感は、当時の──あるいはいまも──私たちにとって、大事なフレーズなのかもしれません。考えるのも大事だけど、それではなくてここは、〈もっとたわいない、もっとやわらかいもの〉を感じるとことを大事にしよう。『歩くような速さで』を読んでいると、こちらまでそういう姿勢になってきます。それが気持ちいい。
撮影した映画のこと、「奇跡」に出た樹木希林や主題歌を書いたくるりの岸田繁のこと、自分の両親のこと、少しだけ地震のこと。ゆったりとした組版のおかげもあるのでしょう、空気をたっぷり含んだ文章で静かに書かれています。
「誰も知らない」「歩いても 歩いても」のYOUの〈撮影現場で出来てしまうちょっとした間のびを即興的な一言で埋める反射神経〉。
〈「まだなのか」「なんちゅう記録よ」さりげなく選ばれたその台詞は見事な突っ込みとしてその場のテンポをコントロールしていく。〔…〕「あれはね、バラエティー番組でCMになる直前の3秒で何を言うかっていうのと同じ感覚なの。得意なのよあたし、そういうの〉。
たしかにすごそう。
ところどころ、著者が強い表現を使っている部分があり、どきりとしました。たとえば、政治やメディアがわずか数か月で原発事故の重さを忘れ去ろうとしている風潮にたいして、この角度から斬りこんでいます。
〈人間が人間である為には、失敗も含めて記憶していくことが必要だ。それがやがて文化に成熟していくのだ。その時間を待たずに忘却を強要するのは、人間に動物になれと言うに等しい。それは政治やメディアが持ちえる最大で最低の暴力である〉。
また、連載以前の文章にも、こういうものがあります。2004年、カンヌ映画祭でのマイケル・ムーアの「華氏911」上映中に観客が発した笑いに居心地悪くなった著者は、つぎのように考えます──彼らの笑いはひょっとして、〈彼らが最も軽蔑しているはずのブッシュが、相手を馬鹿にした時に浮かべる品性を欠いた薄ら笑いとどこか通底してしまっているのではないか〉。
〈日本で小泉首相個人を攻撃するような作品を作って、一時〔いっとき〕見る者の溜飲を下げたところで、それはせいぜい製作者の自己満足に過ぎない。真の敵はむしろ、彼のような存在を許し、支持してしまっているこの国の6割近い人々の心の内面に巣くっている“小泉的なるもの”であって、その病巣を撃たずに安全地帯からうみ(小泉)だけを槍玉に挙げても病状は決して快方には向かわない〉。
冷静で、まったく軽くはないこの言葉も、〈もっとたわいない、もっとやわらかいもの〉を感じることで出てきたものです。
全力疾走でもなければ、立ち止まって考えるのでもない。そしてその中間の中途半端な状態でもない。歩くような速さで感じ考えるには、速まらず立ち止まらずにアンダンテのテンポを保持するために、持続する意志の力、丹田の安定が必要なのでしょう。
観念にレッテルを貼られる前の、一瞬の違和感を、私も逃すものか、といま思ったりしています。
(千野帽子)